※この記事は2016年06月03日にBLOGOSで公開されたものです

憲法論議の歪み――立憲主義論議

 日本国憲法は、比較憲法的に見て正しく立憲主義に基づいた憲法である。そして、そのことを戦後の憲法学は一貫して誇りにしてきたのだった。しかし、不思議なことに、そのもとでの憲法論議には、他の立憲主義国では見られない歪みや偏りがあるように思う。

 その最たるものは、昨今の立憲主義論議であろう。昨年の安保国会において、野党が盛んに持ち出したのが「立憲主義に違反する」という批判だった。その後批判はさらにエスカレートして、「現政権は相次ぐ暴挙で立憲主義を破壊した」、「次の参議院議員選挙は立憲主義を回復するための選挙である」などの声が、政治家だけでなくメディアや憲法学者からも叫ばれている。

 しかし、立憲主義の途上にある国での議論ならともかく、すでに立憲主義はわが国の統治システムを成り立たせている土台なのであって、一方の陣営が僭称できる筋合いのものではない。政権も野党も共に憲法の意味をめぐって論争していたのであり、それはまさに立憲主義に基づく政治であろう。一方が立憲主義を独占し他方を反立憲主義(あるいは非立憲)と決めつけるような議論は初めから公平でなく、この時点ですでに議論は歪んでいる。

 また、そもそも立憲主義は特定の政権によって破壊されたり、選挙によって回復したりするものではない。仮に立憲主義が選挙で回復するのであれば、同じように選挙で失われることも認めなければならないはずであるが、それはおそらく論者の承服するところではないだろう。さらに、選挙によって立憲主義が回復したという事態が招来したのであれば、それは表現の自由や選挙権の行使など、憲法が予定する民主政治のプロセスが正常に機能した結果である。それゆえ、立憲主義は初めから破壊されていなかったことになり、「立憲主義が破壊された」という議論はそもそもの前提を失うだろう。

「立憲主義違反」の本当の意味

 このような議論の歪みは、立憲主義の語が本来の意味で用いられていないことに基づく。立憲主義とは、ある国の憲法や政治体制が権利保障と権力分立という本質的要素を含んでいるかを点検するための概念であり、政権の行為や特定の政策を批判するため用いられるものではない。これは立憲主義論の国際標準であり、これまでの日本の憲法学でも広く了解されてきた。もし憲法学者がこうした了解を無視した言説を意図的に広めたのであれば、専門家としての信用を失わせる背信行為として厳しく非難されるべきであろう。

 にもかかわらず、「立憲主義違反」論に意味があるとすれば、それは現行憲法の問題点を図らずも炙り出した点にある。「立憲主義違反」という言明は、憲法の規定に違反しない(つまり憲法違反ではない)が「憲法の精神」に違反する権力の行為を非難するものであるが、それはむしろ、現行憲法が権力を統制しきれていないこと、つまり権力を統制するのに憲法規定が足りないことを告発するものである。そうすると、今後同じことが起こらないように、また、どのような政権にも妥当するように、憲法の規定の点検やその不足・不備の是正が、安保法への立場を超えた共通の課題として取り組まれるべきであった。

2つの憲法観――「権力の制限」と「権力の委任」

 これまでの憲法論議に欠けていたのは、まさにこの「どのような政権にも妥当する」という視点である。そしてこのことは、戦後政治において政権交代の経験がほとんどなかった事実と無関係でないように思う。55年体制下で自民党一党優位の政治が続く中での憲法論議は自ずと「対(万年)政権与党」の様相を帯びるのであって、「どのような政権にも妥当する」論議を期待するのは難しい。このため、憲法論議にある種の「偏り」が生じるのもやむを得ない。

 そのような憲法論議の偏りは、そもそも「憲法とは何か」という憲法観自体にも見られる。いまでもあちこちで喧伝されているように、日本では「憲法=権力を制限するもの」という観念が依然として強い。このような理解は間違いではないものの、一面的である。それは、君主が大きな権力を握っていた時代のものであり、基本的に統治者を国民と関係のない「他者」と見る古い憲法観である。

 しかし、国民主権が確立し、権力者を国民が選べる現在において、統治者はもはや「他者」ではなく「我々の一部」である。主権者である我々国民こそが何よりの権力者なのであって、統治者が権力を行使できるのは、我々国民が選挙で彼に権力を委任したからである。つまり、「憲法=権力を委任するもの」、すなわち統治者に正しいかたちで権力を与えるというのが、国民主権の下での憲法観である。もちろん、統治者は委任された範囲でしか権力を行使できないため、「憲法=権力を制限するもの」という憲法観が無意味なわけではない。

 上記のように、日本で今なお「憲法=権力を制限するもの」という憲法観が根強いとすれば、それは長期の政権与党が多くの憲法学者にとって手の届かない「他者」であり続けたからであろう。このため、憲法学の関心は、憲法によって統治者である「他者」を憲法でいかに枠づけるかに向けられてきた。

 他方、政権交代があれば政権は権力を失う(いわばゼロになる)ため、権力制限の役割を憲法に求める必要性は相対的に小さい。選挙こそが権力の生殺を決めるからである。そして、筆者の見るところ、政権交代を繰り返す立憲主義国の関心は、議会審議の充実や立法の質の向上など権力の効果的な用い方にあり、そうした問題意識は与野党を超えて共有されているように見える。

立場の互換性

 また、政権交代によって野党が近く政権与党になるかもしれないのであれば、憲法の制限規範性の過度の強調は、将来の自身の足枷ともなり必ずしも望ましくない。そして、与野党がこのような立場の互換性を意識したときに初めて、憲法論議に共通の基盤を見出せるのではないか。

 こうした事情は、他の立憲主義国でも同じである。フランスの例を挙げてみよう。

 フランスでは、2000年の憲法改正において、それまで7年だった大統領任期が議会と同じ5年に短縮された。従来、大統領と議会の選挙の時期が異なることで、両者の間に与野党の「ねじれ」が生じることがあった(コアビタシオン〔保革共存政権〕)。2000年当時は右派のシラク大統領であったが、1997年の選挙で与党が敗北したで、首相を野党から任命せざるをえなくなり、大統領は思うように権力を行使できなくなった。他方、シラク自身もかつて左派のミッテラン政権下で首相を務めたことがあり、その時はミッテラン大統領と激しく対立した。このため、自らが大統領となってからは逆の立場を経験して、辛酸を舐めたということであろう。大統領と首相は、党派が異なるものの、政治の停滞を招くコアビタシオンが今後起こらないように、大統領任期を短縮する憲法改正を提案したのだった。

 「強い大統領」はフランス憲法の特徴であり、その変更は憲法の本質を変えるほどの意味をもつが、そうした重要な改正であっても、与野党が問題点や利害を共有したことによって実現したのだった。

政権交代の意義

 日本でも与野党で憲法問題が共有されたことがないわけではない。長らく自衛隊を憲法違反としてきた社会党(現社民党)は1994年、自社さ連立政権に入ったことで自衛隊を容認する立場に転じた。また、今となっては考えられないが、民主党(現民進党)政権では、集団的自衛権の行使容認や緊急事態法制の整備が検討されていたのである。実際に政権を担う立場になって初めて統治システム上の問題に気づくということは、多分にあり得るであろう。これらは憲法改正には結実しなかったが、政権交代を機に与野党間で認識や利害が一致・接近したという事実は重要である。今回の安保法論議では、憲法9条の解釈の是非を別とすれば、内閣法制局の位置づけ、政府の憲法解釈変更の統制、法律に対する事前審査の必要性などの新たな課題が浮き彫りになった。そこで、与野党は安保法に対する立場を超えてこうした統治システム上の問題点を共有し、その解決のために具体的な制度改革に着手してもよいはずであるが、残念ながらそうした動きは現在に至るまで見られない。

 権力の「行き過ぎ」や「暴走」は今後も起こるかもしれず、そうならないように権力の統制手段を憲法に盛り込むことは、与野党の共通の利益であり、課題でもあるはずである。自民党は将来野党になった時を考えて、シラク大統領のように自ら改革を提案する懐の深さがあってもよかったであろう。他方、民進党は政権の再度の「行き過ぎ」を危惧するのであれば、憲法改正を含む制度改革論議を先導して、自民党に態度決定を迫るべきではなかったか。

 政治番組の司会を務める高名な政治史学者によると、かつて民主党の政権獲得が近づくにつれて、同党幹部の物言いが慎重になっていったという。そうすると、昨年の安保国会で「戦争法」などというデマゴギーに終始したり、政府与党に対して「立憲主義違反」という無意味な批判を平然と嘯いている間は、政権への道のりはまだ遠いということなのだろう。しかしそれは同時に、与野党の間で憲法論議の共通の土台が今後しばらく形成される見込みがないということでもあり、憲法論議の正常化は一層退いたと見るべきなのかもしれない。

憲法論議の行方

 ここには逆説的ではあるが、自民党は政権が盤石であるほど憲法論議で幅広い合意を得られず、憲法改正の悲願はますます遠のくという関係を見出せる。実際、長きにわたる自民党政権下で憲法改正が一度も実現しなかったことは、日本の戦後憲政史が示すところである。

 それでは、今後の憲法論議はどうあるべきか、どうすれば議論の歪みや偏りは是正されるのか。この点、そもそも特定の政党が示した全面的な憲法改正案を土台に議論する必要はない。実際の政治運営の中で生じた具体的な問題を一つ一つ議論して、その是非を最終的に国民に問うことになろう。それが最も現実的な憲法改正論議である。しかし、そのような議論の土台が形成されるには、憲法上の利害や課題が与野党問わず幅広く共有される必要がある。そしてそこに至るには、諸外国の例や日本の憲政史が逆説的に示すように、迂遠ではあるが、やはり政権交代が行われる政治の確立が不可欠であるように思う。

(いのうえ・たけし)
九州大学大学院法学研究院准教授(憲法学)・博士(法学)。
単著『結社の自由の法理』信山社、共著『憲法裁判所の比較研究』信山社、共著『一歩先への憲法入門』有斐閣。