川上未映子が語る「自作が見向きもされなくなることの正当性」

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劣等感や恐怖、過去の失敗への後悔や虚栄心。
どんな人にも、思考や行動の隅々にこびりついて、暗に人生の筋道を定めているようなオブセッションがある。それらはあまり人に言えるようなものではなく、心に秘めたままでいることも多い。自覚していないこともある。

川上未映子さんの新刊『春のこわいもの』(新潮社刊)は、何歳になっても、人生の状況が変わっても、決して逃れられない個人的なオブセッションを様々な人の視点から書いた作品集だ。今回は川上さんにインタビュー。この本で書いた「こわいもの」について語っていただいた。その後編である。

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■自著が見向きもされなくなることの正当性

――『春のこわいもの』で川上さんが世の中に提示したかったものがありましたら教えていただきたいです。

川上:提示したいものが先にあるわけじゃないから、あとでこじつけのように考えるしかないんですけれど、実感として「人生はこわいものだらけだよね」ということになるでしょうか。昔からあんまり「幸せ」には興味がなくて、あまり考えてもいないのですが、「恐怖」とか「恐れ」、「後悔」とか「みじめさ」について考えることが多かったような気がします。頭の中がずっとそちらに行っているんですよね。

――今のお話にあった「恐怖」や「後悔」はこれまでに書いてきた作品でも一貫してベースにあるのでしょうか。

川上:個人的なオブセッションとしての「恐怖」や「後悔」という意味ではそうかもしれません。自分はこわいものや、つらいもの、たら・ればを煮詰めた時に出る声のようなものを書いているのかなと思ったりします。ぜんぶ振り返って思うだけですけれど。「みじめさ」みたいなものとか。

――「職業倫理」ではないですけど、小説家として絶対やらないと決めていることはありますか?

川上:そういうのが、あまりなんですよね。意味もなく嫌で使いたくない言葉があるくらいです。「スマホ」という言葉は自分ではあまり使いたくなくて、「スマートフォン」と書く、とか。

あとは「私」はひらいて「わたし」にすることがあったりとか。そんなレベルのこだわりだったらいくつかありますけど、職業倫理と呼べるようなものはないです。自分に限っては小説家なんて無責任なものだと思っています。ろくでもない商売だっていうことはよくわかっています。

――ろくでもない商売、ですか?

川上:ろくでもない、は言いすぎかな(笑)。でもどうだろう。似たようなことを思いますよ。オアシス(イギリスのロックバンド)の「Don’t look back in anger」の二番に「Please don't put your life in the hands/Of a Rock’n Roll band/Who'll throw it all away(ロックンロールバンドの連中に君の人生を任せないでくれ すべて投げ出すような奴らなんだから:編集部訳)」ってありますよね。十代の終わりにここを聴いて、ノエルは露悪的に言ってるんじゃなくて、ほんとにそういう、恥とあきらめで歌っているんだなって思いました。どこかでやっぱり机にむかって書く文章で生計をたてている自分を恥じる気持ちはあります。書くのがつらいと言ったって、わたしにかんしては知れています。もちろんこういうのはぜんぶ、わたしのナルシシズムにすぎないんですけど。

――小説でお金を稼いでいることへの後ろめたさのようなものですか?

川上:文章を書く仕事についたことをまちがいだったとは思っていないし、全力で書いていますが、なんていうのか、自分が健康だったこととか、作品を読んでもらえるようになったこととか、そういうことすべて罪悪感はあります。日本に生きてることにもあります。だって、ぜんぶ運ですから。わたしは、文章じたいはエクストリームなものを目指したいけど、感情とか、人物造形とかにかんしては人間が生きてたらぜんぶ当たり前のことだよな、と思って書いているところがあります。わたしの小説の登場人物の満身創痍さは、現実にある満身創痍さだと思う。でも、読者のかたがサイン会にきてくれたりしたときにね、本当に泣いて、「あなたの作品があるから生きていける」というようなことを言ってくれることがあるんです。でも、そこで「ありがとう」とかは言えないですよね。読んでくれるこの方の生きづらさとか、どうしようもないしんどさが存在することで成り立ってるものが、わたしの側にあるわけです。自分がそういう仕事をしているんだと肝に命じることしかできないんですけどね。ツイッターでの告知とかなら「ありがとう!」って言えるんだけどね(笑)。だから「未映子かー。若いときはめっちゃ読んでたけど、今はもう全然読まなくなったなあ」というのを読んだときは、なんか、うれしかったんですよね。そっかそっか、って思って。

――「卒業」という感じなのでしょうか。

川上:どうなんでしょうね。現実的には読まれなくなると困るんですけど、困るのはしょせんわたしの生活だから、そこはどうでもいいんです。読まれたんなら、読まれなくなるまでを含めての、この仕事なんじゃないかと思う。ある時代に書かれて読まれたものが、ある時代にはもう読まれなくなるのは、悪いことじゃないというか。文学って読みつがれることにたしかに意味はあるけど、読まれなくなることにも意味があると思うから。

――コロナ禍で社会は大きく変わりました。コロナによって小説は変わると思いますか?

川上:あんまり変わらないと思います。

――パンデミックの初期の頃は、文芸誌のコロナについての特集などを読むとナイーブな受け止め方で書かれた作品もありましたが、最近は変わってきたように思います。今回の川上さんの本もすごく冷静というか、淡々と感染症が忍び寄る社会を書いているところがありますね。

川上:最近は忙しくて文芸誌を読んでないから、じつはコロナにかんするフィクションっていっさい読んでないんですよね。コラムは海外のものを含めていくつか読みましたし、わたしも書かせてもらったんですが、それは必要な過程だったのだと思います。過ぎたことはみんな忘れていくので、ある時点での声を集めるというのは大事なことなのかもしれません。

――最後に川上さんの本の読者の方々にメッセージをお願いいたします。

川上:世界は「こわいもの」に満ちていますけど、なぜそれがこわいのかを考えることは悪いことではないと思います。オブセッションのお話をしましたけど、自分がとりつかれているこわいものがたくさんあって「なんでこんなに苦しいんだろう」って思って生きている人がいるとしたら、それは特殊なことではないし、生きるっていうのはそういうものだと思いますよ。だからあんまり心配しすぎないように……って言っても、説得力がないかなあ(笑)。でも、こわいもののあいだに、それを忘れるような一瞬があったりとか、ふいに胸がいっぱいになるような瞬間があるのもたしかです。人生は、両方ですよね。なんとかやっていきましょう。

(新刊JP編集部)

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