「日本人みんなの給与を増やすのは時代遅れ」…岸田内閣の税制改正では賃上げが実現しない理由
■賃上げ企業に税制上の優遇措置を与える仕組み
岸田文雄首相が掲げる「新しい資本主義」の柱のひとつとされる「賃上げ税制」の具体的な内容が固まった。12月10日に自民党の税制調査会がまとめた「税制改正大綱」に盛り込まれた。賃上げをした企業に税制上の優遇措置を与える仕組みで、実は「新しい」ものではなく、以前からある制度の、法人税から差し引く控除率を拡充する。企業に賃上げさせるために、政府が優遇措置を講じる「太陽政策」だが、果たしてこれで企業は給与引き上げに動くのか。開始前から疑問視する向きも多い。
現在の制度では、大企業や中堅企業の場合、新規採用した従業員の給与やボーナスなどを増やすと「支給額」の15%を上限に法人税から控除できる。さらに従業員の教育訓練費を増やした場合は、控除率が5%上乗せされ、20%になる。また、中小企業では、従業員全体の給与の総額などを増やすと、「増加額」の15%を法人税から控除。さらに教育訓練費などを増やすと控除率は10%上乗せされ、25%になる。
■大企業は最大30%、中小企業は最大40%の控除だが…
今回の税制改正では、大企業や中堅企業の場合、控除率を最大30%、中小企業の場合40%にまで引き上げる。具体的には、大企業・中堅企業の場合、給与やボーナスの総額を前年度より3%以上増やすと、従業員全体の給与増加額の15%を法人税から控除できる。4%以上増やした場合は、25%差し引けるようになる。さらに教育訓練費を前の年度より20%以上増やすと5%分上乗せされる仕組みで、控除率は最大30%となる。
中小企業の場合は、従業員全体を対象に給与やボーナスの総額が前の年度より1.5%以上増えた場合、「増加額」の15%分を法人税から差し引けるほか、2.5%以上増えていれば30%分まで控除できる。さらに、教育訓練費を10%以上増やした場合には10%分上乗せし、控除率は最大40%となるという内容だ。
財務省の役人が考えそうな極めて細かい「仕掛け」だが、これで企業経営者が賃上げしようと思うかどうかだ。
■「全社員の給与を上げること」を歓迎する経営者はいるのか
言うまでもなく、経営者が賃上げに踏み切るのは「儲け」が増えることが前提だ。しかも、中期的に業績向上が見込めなければ人件費を増やそうとは考えない。たいがいの企業で人件費は最大の経費だから、1%上げてもトータルの増加額は大きくなる。いくら、その分税金を安くすると言われても、負担は確実に増えるわけで、そうそう簡単には踏み切れない。
しかも問題なのは、給与とボーナスの「総額」を増やすことが条件になっていることだ。今、企業はDX(デジタル・トランスフォーメーション)に取り組み、業務の効率化を進めようとしている。できるだけ雇用者数を抑えて、ひとり当たりの付加価値を高め、全体としての利益を上げることが課題になっている。人口の減少などでマーケット全体が大きく伸びない中で、売り上げを増やすことは難しく、コスト構造を変えることで利益を上げようとしているのだ。
もちろん、働きの良い社員の給与は積極的に引き上げようとしている。そうでなくても少子化で優秀な人材を確保するのが難しいから、優秀な社員は厚遇しないと他社に引っこ抜かれてしまう。そういうご時世だ。
■同じ社員でも格差が拡大するのがこれからの時代
当然、社員の給与を一律に引き上げるという話ではなく、業績拡大に貢献している人とそうでない人の評価はおのずから異なる。つまり、同じ社員でも格差が拡大するのがこれからの時代だ。つまり、企業経営者からすれば、優秀な社員の給与は思い切って引き上げるが、総人件費自体は抑える、というのが当たり前の経営戦略になっている。一人ひとりの給与は上がっていても、総人件費が減っていては、今回の税制上の恩典は受けられない。
税制改正案を考えたであろう財務官僚は公務員だから、当然、リストラに遭うこともない。入省年次で給与が決まり、キャリアならば昇進速度もほぼ変わらないから、「全職員一律3%アップ」といった発想が出てくるのだろう。一律の賃上げを求めてきた伝統的な労働組合が考える雇用関係が前提になっているとも言える。「全員一律3%の賃上げ」という発想は経済全体が3%以上成長していた時代の遺物ではないか。
だが、今の雇用の形は多様だ。業績を上げている企業ほど、社員の働き方は変わっている。いわゆる年功序列賃金ではなく、年俸制に近い形で働く人も増えてきた。つまり、給与とボーナスの「総額」での上昇を求める今回の政策は、企業の現場から大きく遊離しているのだ。
■内部留保を給与に回す経営者はいない
財務省がまとめた2020年度の法人企業統計によると、新型コロナの影響もあり、企業全体(金融業、保険業を除く)の売上高は8.1%と大きく減った。経常利益は12.0%の減少である。人件費の総額も195兆円あまりと3.4%減っている。売り上げや利益の減少率ほど人件費が減らないのはある意味当然だ。ところが、企業の内部留保(利益剰余金)は484兆円と前年度に比べて10兆円近く増え、過去最高を記録した。コロナ下にあっても企業の内部留保は増え続けているのだ。
内部留保をため込んでいるのだから、もっと給与に回せるだろう、というのが政府の見方だろう。だが、利益剰余金は法人税を支払った後の貯蓄だから、それを取り崩して給与に回すということにはならない。内部留保を減らすために、赤字になっても良いというわけに企業経営者はいかないのだ。赤字になれば、経営責任が問われ、経営者のクビが飛びかねないし、当然、株主に配当もできなくなる。
■法人税を引き上げれば、賃上げが始まるはずだ
では、どうすれば、賃上げが始まるのか。
企業に対する「太陽政策」を止めることではないか。法人税を引き上げるのだ。法人税率そのものは国際競争の観点から日本だけが高くするわけにはいかないのは分かる。だったら、さまざまな税制上の恩典、租税特別措置と呼ばれる優遇策をいったんすべて廃止したらどうだろうか。本来、税制は簡素でなければいけないと教科書にはある。ところが、日本の税制は極めて複雑だ。まして、今回拡充する「賃上げ税制」など優遇措置が乱立していて、企業の税務担当者もすべてを把握することができない。そうした措置の中には特定の業界だけがメリットを受ける税制もあり、そもそも公平かどうかも分からない。
そうした乱立する「太陽政策」をいったん見直せば、「どうせ税金を払うくらいならば給与を増やそう」という行動に出るのではないか。
さらに、「北風政策」も有効かもしれない。利益剰余金に「課税」すべきだという議論は前々からある。だが、利益剰余金は法人税を払った後の内部留保だから、そこに課税するのは「二重課税」になるため、経済界は真っ向から反対する。だが、企業規模に見合うある一定の利益剰余金の割合を超過した分については、課税しても良いのではないか。そうすれば、無駄に内部留保を積み上げる企業も減るだろう。
■「人への投資」こそが利益の源泉だ
「利益剰余金といっても貯金に回っているわけではない」という批判もある。確かにバランスシートの貸方にある利益剰余金の反対側、つまり借方には何らかの資産が符合する。設備や土地、建物などに使われているわけだ。だが、そうした資産が利益を生んでいないのが最大の問題なのではないか。
この20年、経済は成長しなかったとされるが、東京駅周辺の光景は激変した。大企業の本社が軒並み建て替えられ立派なビルになっている。そうした「建物」勘定が資産に計上されているわけだが、この立派な本社が利益を生んでいるのか。
企業がもっと「人への投資」こそが利益の源泉だと感じるようになれば、放っておいても給与を増やすに違いない。だが、それは、一律に全員の給与を引き上げ、人件費総額を増やすことではないだろう。「新しい資本主義」の第一弾は、残念ながら効果を上げることはなさそうだ。
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磯山 友幸(いそやま・ともゆき)
経済ジャーナリスト
千葉商科大学教授。1962年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、「日経ビジネス」副編集長・編集委員などを務め、2011年に退社、独立。著書に『国際会計基準戦争 完結編』(日経BP社)、共著に『株主の反乱』(日本経済新聞社)などがある。
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(経済ジャーナリスト 磯山 友幸)