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伝説に残るKID戦、歴戦のライバルたちの記憶

 武尊と那須川天心のドリームマッチ実現が期待される中、「K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!」で行なわれた、K−1史上に残る魔裟斗vs山本"KID"徳郁を思い出すファンも多いだろう。

 前年に日本人初の世界王者になった魔裟斗と、圧倒的な存在感と強さでスターダムを駆け上がったKIDの一騎打ち。インタビューの中編では、試合が決まった直後から話題を集め、視聴率30%を超えた一戦を魔裟斗本人が振り返る。また、現役時代に戦った猛者たちの中で「もっとも強かった」選手の名も挙げた。


2004年の魔裟斗山本KID徳郁の試合は日本中を熱狂させた photo by Sankei Visual

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――2004年の大晦日、日本中が注目した山本"KID"徳郁戦の前はどんな心境だったんですか?

「KIDはK−1ルールで戦うのが2試合目。すでに世界王者になっていた僕とはキャリアが違うし、階級もKIDが下。当時マスコミに伝えていたように、こちらとしては試合を受けるメリットがなかったわけですけど、それでも受けたのは『負けるわけがない。楽な試合になる』と思っていたからです。世間的には盛り上がっていましたが、僕からするとそこまで特別感はありませんでした」

――立ち技のみで戦う上での、KIDさんの実力をどう見ていましたか?

「当時のKIDは振りが大きいパンチを打っていました。一見、総合格闘技のパンチは速くて危険そうに見えるけど、立ち技を主戦とする選手にはなかなか当たらない。そう思っていました。今年6月のRIZIN.28で、天心が所英男とボクシングルールで戦った時も、同じような感覚で見ていましたよ。純粋に競技が違いますからね」

――実際に、リング上でKID選手と対峙した時の印象は?

「パンチが当たるわけがないと思っていた矢先、1ラウンドにまさかのダウンを喫してしまった。予想以上にKIDの踏み込みが速かったんです。ジャブから速い踏み込みでのワンツーで、僕はそれをバックステップでかわしつつ左のカウンターを合わせようとしたら、もらってしまって。体重が後ろに乗っていて押し倒されるような形でしたから、ダメージはなかったんですけど、KIDのスピードを止めるために『ローキックを中心に攻める必要があるな』と感じました」

――同じ1ラウンドで、魔裟斗さんの脚の内側を狙ったローキックがローブローになってしまい、中断がありましたね。

「そこはちょっと焦りましたね。『大阪ドームでこれだけのお客さんが来てくれたのに、これで終わってしまうのはマズい』と。それでも、中断明け早々に、同じようにインローを蹴りました」


KID戦を振り返る魔裟斗 photo by Murakami Shogo

――普通の選手なら、同じ箇所を蹴ることを躊躇しそうですが。

「それだと負けちゃうんですよ。僕は『ピンチの時こそいけ』というのが信念で。『K−1 WORLD MAX 2008』の決勝でアルトゥール・キシェンコと戦った時も、2ラウンドで倒されてから、フラフラになりながら打ち合いにいきました。相手はチャンスとわかれば当然倒しにきますから、気持ちでピンチに見せないことが大切なんです。

 KIDはスピードがあって出入りが激しい選手でしたから、ローキックを蹴らないと足を止められなかった。でも、KIDがすごかったのは、それでもどんどん踏み込んできたこと。結局、彼の足を止めたのは、ローキックじゃなくてヒザ蹴りでしたね」

――2ラウンドにはダウンを奪い返して、結果は判定勝ちでした。2018年9月にKIDさんが亡くなったあとの葬儀では、『キャリアの中で、もっとも素直に楽しめた試合だった』と話されていましたが、魔裟斗さんにとっても特別な試合だったんですね。

「2009年に引退したあと、『KID戦が一番印象的だった』と声をかけられることが多くて。今振り返っても、本当にスリリングな試合で、アドレナリンがバンバン出ていましたね。KIDのスピードがある攻撃をよけながら、僕がカウンターを合わせていく。純粋に面白かった。先ほども言ったように、キャリアも階級も違うのに、ダウンを取られるとは思っていなかった。『やっぱりKIDは"持っている"な』と思いました」

――KIDさんとの試合以外で、印象に残っている試合はありますか?

「すべてのタイトルマッチですね。2003年のWORLD MAXのアルバート・クラウス戦、翌年のブアカーオ・ポー.プラムック戦、2007年のアンディ・サワー戦、そして2008年のキシェンコ戦。ただ、転機になった試合を挙げるなら、クラウスに負けた2002年の準決勝ですね。あの負けが、ボクシングテクニック向上のきっかけになったんです。真剣にボクシングの練習をやるようになって、自己流だったトレーニングも科学的なものを取り入れた。トレーナーをつけて、世界一になるための道筋を作っていったんです」

――当時は、科学的なトレーニングを取り入れる選手は珍しかったですよね。

「格闘技では、ほぼいなかったと思います。僕も最初はまったく効果を信じていなかったですけど、クラウス戦で『根性論だけでは世界で勝てない』ということを痛感したので。いざ、トレーナーと二人三脚でやっていくと、筋力などの数値が上がっていき、自分でも強くなっているのがわかったんです。『勝つためにはどうするか』を重視して、いろんな角度からトレーニングを見つめ直したことが、2度の世界王者につながったと思っています」

――ファンの中には、やはり2度世界チャンピオンになったアンディ・サワーとの、数々の死闘が印象に残っている人も多いと思います。

「サワーとは、2006年、2007年と2度負けた。ただ、トーナメントじゃなくワンマッチでやれば勝てるという自信がありました。トレーナーは、『サワーはそんなに簡単な相手じゃない』と言っていましたけどね。スタミナは僕が上で、フィジカルはサワーのほうが上、という見方をしていたようです」

――そんな中、引退試合となる一戦でサワーと戦い、勝利を収めて花道を飾りましたね。

「2003年に世界チャンピオンになった時、もう一度優勝することを目標にして、そこから5年かかったものの2008年に優勝できて『やりきった』となった。引き際を探していたんですが、サワーに2回負けていたことが心残りで。それで2009年の大晦日にリベンジできましたけど、あの試合も負けていたら、もしくは相手がサワーじゃなかったら、引退してからも『サワーに勝てなかった』という悔しさがずっと残ることになったでしょうね。

のちにサワーと会う時にも、彼が『俺は魔裟斗に全勝している』と思っているんじゃないか、と考えてしまったはず。実際は、サワーがそう思うことはないでしょうけどね(笑)。ただ、そうなる可能性を残してリングを去ることは絶対に許せなかったし、僕の中ではその点は大きいことでした。だから最後にサワーに勝てたことで、本当にK−1でやり残したことがなくなり、次の人生に向かえたんです」

――現役時代に対戦した選手の中で、もっとも強かった選手を挙げるとしたら?

「やっぱりサワーですね。フィジカル、テクニックはもちろん、しっかり考えながら試合ができるタイプだったので」

――もし今、現役時代の体に戻ったとして、戦ってみたい現役の選手はいますか?

「木村ミノル選手ですね。あれだけ強打でバタバタと相手を倒していくところを見ていると、やっぱり熱くなるものがありますよ。あとは、ジョルジオ・ペトロシアン。僕が現役の時から変わらず、35歳になった今も世界最強ですから。僕が引退した2009年以降は1敗しかしていない。さっき『やり残したことはない』と言いましたけど、あれだけの選手と戦えなかったことに心残りがなかったかといえば、やっぱり嘘になりますね」

(後編:野村克也から受けた、大人になる教育)

魔裟斗(まさと)
1979年、千葉県生まれ。1997年に全日本キックボクシング連盟での試合でプロデビュー。2003年の『K-1 WORLD MAX』で日本人初のK−1世界チャンピオンになり、2008年に2度目の王座を獲得。翌2009年12月31日の試合を最後に引退した。その後は格闘技だけでなく幅広いジャンルで活躍。2021年の3月には『魔裟斗チャンネル』と、武蔵との『ムサマサ!』を開設した。