飯塚幸三被告(2019年6月、時事)

写真拡大

 3歳の娘さんと31歳のお母さんが亡くなり、多くの人たちがけがをした東京・池袋の暴走事故の第2回公判が12月3日に東京地裁で開かれます。

 筆者にも同じ年頃の娘がいますので、事故の一報を聞いたときは大変悲しく、胸が苦しくなりました。また、加害者として起訴された飯塚幸三被告が、社会的地位がとても高い高齢者であり、逮捕されなかったことも大きな話題となり、SNS上では「『上級国民』だと罪が軽くなるのか?」といった批判が飛び交いました。そして、10月8日の初公判で、飯塚被告が無罪を主張したことでさらに批判が強まりました。

 バブル崩壊以降、非正規雇用が増え、日本社会の格差は大きくなるばかりです。筆者もロストジェネレーション「ど真ん中」世代ですので、多くの人の心に社会的地位が高い人への負の感情や、バブル期に豊かさを満喫した世代への世代間憎悪のような感情があることも理解しています。だから、「厳しく罰してほしい」という感情は無理のないことかもしれません。しかし、ここでは、結果の重大性や被告の社会的地位はいったん忘れて、「被告がなぜ無罪を主張したか」を冷静に考えてみたいと思います。

主観では「ブレーキを踏んだ」?

 池袋の事故から少し離れて、一般的な話をします。機械の故障や誤動作の確率に比べて、人間のエラー率ははるかに高いので確率的には、車の暴走の原因はドライバーによるアクセルとブレーキの踏み間違いであることの方が多いと言えます。しかし、この手の事故が起きたとき、ドライバーが車の異常を訴え、無罪を主張する例は少なくありません。

 こういう事例を感情的に見ると「間違いを認めないなんて、とんでもないやつだ」「罪が軽くなるようにうそをついているに違いない」と考えてしまいがちです。もちろん、うそをついている可能性は否定できませんが、冷静に考えると「ブレーキだと思い込んでアクセルを踏む」のが「踏み間違い」の本質です。だから、客観的な真実が「アクセルを踏んだ」だとしても、「ブレーキを踏んだ」と思い込んでいるドライバーが自分の「主観的体験」を語る場合、「ブレーキを踏んだはずだ」としか答えられないように思います。

 英国の心理学者リーズンはヒューマンエラーを「意図の間違い」である「ミステイク」、「実行の間違い」である「スリップ」、「実行の抜け」である「ラプス」の3つに分けました。ペダルの踏み間違いは典型的な「スリップ」にあたります。

 ミステイクは意識的な計画や判断のエラーなので、後から、エラーを自覚しやすいのですが、スリップやラプスは判断を下した後に半ば無意識的・自動的に実行している行為のエラーなので、後から、エラーを自覚しづらいという特徴もあります。従って、「加害者の発言が被害者や社会の人たちにどう映るか」や「本当は何が起きたのか」と切り離して考えれば、飯塚被告の発言は自然なものだと考えることもできるのです。

人間は「エラーをする生き物」

 授業や講演などでこの話をすると学生や聴講者から反発を受けることが多いので、この記事も炎上するかもしれないと思いつつ、あえて書きますが、「エラーを罰するべきではない」というのが、ヒューマンファクターズと呼ばれる、システム安全を扱う研究者の間での共通認識です。なぜなら、人間は本質的に「エラーをする生き物」だからです。

 私たちは生きている限り、他の生き物の命を奪って食べなければ生きていけません。それと同じように、私たちは何か行動をする限り、一定確率(それも比較的高い確率)でエラーをします。だから、「エラーは罪」としてしまうと、私たちは悪意を持たず善良に生きていたとしても、運が悪ければ罪人になってしまうのです。

 事故防止の観点から、エラーを断罪し過ぎてはいけない理由はまだあります。一般に、エラーは事故の「原因」だと思われがちですが、人間のエラー率は背後要因によって変わります。エラーをゼロにすることは困難ですが、エラー率に影響する背後要因の調整はできます。従って、ヒューマンファクターズではエラーを背後要因の「結果」と捉えて、原因となった背後要因を取り除こうとします。そうしなければ、エラーをした人を罰して他の人と入れ替えたとしても、また同じことが起きるからです。

 さらに、責任追及が厳しいほど、加害者は処罰を恐れて口を閉ざすため、真実が明らかになりづらく、背後要因が明らかにならないという問題もあります。

 筆者は事故防止の研究者としての立場から、この考え方は正しいと思いますが、一方でここには、被害者の感情に対する配慮や救済方法などが含まれておらず、「ハラキリ」の時代から責任追及を重んじる日本社会では受け入れ難いだろうとも感じます。ですから、「加害者を無罪放免にせよ」などと言うつもりはありませんが、加害者を徹底的にバッシングし過ぎる風潮も問題かもしれないと考えるのです。

 被害者の悲しみは計り知れず、その気持ちに寄り添うことはもちろん大切です。同時に、第三者である私たちはただ加害者に矛先を向けるのではなく、どうしたら同じような悲しい事故をなくせるのかを考えるべきではないでしょうか。