サッカー名将列伝
第16回 マリオ・ザガロ

革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介する。今回は選手・監督として、ブラジルのW杯優勝に4度も関わってきたマリオ・サガロ。攻撃的に勝つというブラジル代表監督の宿命を背負いながらも、圧倒的な実績を残した名将の足跡をたどる。

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<名選手で名監督>

 ブラジル代表の栄光は、マリオ・ザガロと共にあった。

 1958年スウェーデンW杯で初優勝した時の中心選手のひとり。この時のブラジルは、W杯史上でも最強と言われている。


1997年トゥルノワ・ドゥ・フランス時のマリオ・ザガロ監督

 4−2−4はシステムが数字で表現された、初めてのケースでもあった。ザガロのポジションは左ウイングだったが、中盤に下りて守備を助け、組み立ててでもプレーメーカーのジジをサポートするなど、幅広く動いていた。そのため4−2−4は4−2.5−3.5とも呼ばれた。

 スターは右ウイングのガリンシャ、大会MVPのジジ、17歳のペレだったが、専門家筋ではザガロの貢献度こそ決定的だったと評価された。

 70年メキシコW杯では監督として優勝。選手と監督の両方でW杯に優勝した最初の人物となった。次の西ドイツ大会でもセレソンを率いて4位。ここでいったんブラジル代表から離れるが、94年アメリカ大会ではカルロス・アルベルト・パレイラ監督とのタンデムで24年ぶりの優勝を果たす。つまり、そこまでのブラジル代表の4回の優勝にすべて関わっていた。

 98年フランス大会は、監督で準優勝。02年日韓大会はルイス・フェリペ・スコラーリ監督でブラジル代表が優勝したあと、ワンポイントで監督に復帰。その後06年まで代表監督を補佐した。

 選手だった58年から06年まで、ブラジル代表の活動のかなりの期間に、ザガロは何らかの形で関わっていたわけだ。ザガロが関与していないW杯としては78、82,86、90年の4大会があるが、いずれもブラジルはベスト4に入っていない。逆に関与していたW杯は選手として優勝2回(1958、62年)、監督では優勝(70年)、ベスト4(74年)、準優勝(98年)。テクニカルディレクターで優勝(94年)。ベスト4を逃したのは06年だけだ。

 ザガロのサッカーは守備的だと批判されていたが、正直どう見てもそうは思えない。

 70年W杯で優勝してジュール・リメ杯を永久保持したチームは超攻撃的だった。ペレ、リベリーノ、ジャイルジーニョ、トスタンらを擁した攻撃陣は58年のセレソンと並び称されている。74年のチームは4年前の華々しさはなかったが、とりたてて守備的というほどでもない。98年も攻撃型だった。パレイラ監督の94年も守備的というほどではなかった。

 つまり、ブラジル人の言う「守備的」の基準が、他国とはだいぶ違うのではないだろうか。

<「守備的」からの脱却>

 97年のW杯前年に、フランスでトゥルノワ・ドゥ・フランスというミニ・トーナメントが行なわれた。言わばW杯の予行演習みたいな大会である。地元のフランス、ブラジル、イタリア、イングランドが参加していた。

 ブラジルは初戦のフランス戦を1−1で引き分けた。ロベルト・カルロスの伝説的なFKによるゴールが印象的だった試合のあと、ザガロ監督は何人かの記者たちの質問に答えていた。この大会に参加する直前、ブラジルはノルウェーとの親善試合で敗れていたのだが、そのことに触れられると、

「あんなものはサッカーではない」

 と、ザガロ監督はノルウェー戦について問題にもしていなかった。

「今日の試合こそサッカーだ」

 20歳のロナウドをエースとするブラジルは、フランスと力いっぱい攻めあっていた。

 ノルウェー戦がどんな試合だったかは見ていないが、だいたい想像はつく。当時のノルウェーは守備と空中戦が持ち味だった。親善試合とはいえブラジルを倒せるほど強かったのだが、ザガロは歯牙にもかけていない感じだった。

 ブラジルでザガロが「守備的だ」と批判されていたのは知っていたので、この時の答え方と態度は少し意外に感じたのだが、たぶんもともとこういう人なのだ。

 ブラジル人の好きなフッチボール・アルチ(芸術サッカー)を人一倍愛している。ただ、守備を忘れてしまう監督ではなかっただけだ。

名将テレ・サンターナの選手と観衆のためのサッカー>>

 80年代までのブラジルは、ウイングを必ずふたり起用し、センターフォワードと10番もいる実質4トップでなければ「守備的」とされていた。他国とは明らかに「守備的」の基準が違っていたのだ。

 97年のブラジルにもはやウイングはいなかったが、ロナウド、ロマーリオ、リバウド、レオナルドを並べる監督が「守備的」なわけがない。

 ただ、「守備的」とのレッテルを気にしていたわけではないだろうが、98年フランスW杯のブラジルは4年前よりかなり攻撃に舵を切っていた。ロマーリオは招集外となったが、ロナウドとベベットの2トップは強力で、エジムンドも控えている。

 4−4−2のMFにはレオナルド、リバウドのダブル10番を起用。4年前の優勝時に機能させた、3バックと4バックを自在に使い分ける可変式も封印していた。

 94年アメリカW杯は、イタリアとの史上初のPK戦を制しての優勝。24年ぶりの優勝にもかかわらず、「守備的」との批判があった。他国との比較でいえば、ブラジルはまったく守備的ではない。常に攻撃し、ボール保持率も高く、技術も高かった。ただ、守備に気を使っていたのもたしかで、それが長年の3バックか4バックかの論争を解決した可変式だった。この可変式は、02年日韓W杯で優勝したブラジルには踏襲されている。

 98年のザガロ監督は、ちょっと意地になっていた感じもしなくはない。全ブラジル人が納得するような勝ち方をしたかったのではないか。06年ドイツ大会のカルロス・アルベルト・パレイラ監督も、まったく同じようなことを試みていた。ロナウド、ロナウジーニョ、カカー、アドリアーノを並べる超攻撃スタイルで、優勝を狙っていた。

 ザガロとパレイラのコンビにとって、94年の優勝は自分たちも納得できないものがあったのではないか。

<ブラジルの敵はブラジル>

 ブラジルにとって、最大の敵はブラジルである。過去の偉大なチームこそ、超えるべき最大の壁なのだ。

 ザガロは監督として、ブラジル国民を含む全世界を熱狂させるセレソンを現出させた。70年に届きそうなブラジルとしては、テレ・サンターナ監督が率いた82年があるが、結果は2次リーグ敗退。ザガロの98年は決勝で敗れ、パレイラの06年はベスト8。どちらもフランスに打ち砕かれた。

 逆にブラジルとしては現実的で堅実なサッカーだった94年と02年には優勝しているが、結局今日まで70年を超えるブラジルは現れていない。

 ザガロは「守備的」な監督ではなかったが、セレソンに「現実」を持ち込んだ人ではあった。変化する世界のサッカーを見据え、ブラジル至上主義に陥ることのない感覚を持っていた。

 だからブラジル人には不評だったが、第三者から見れば信頼に足るものがあり、実際ザガロが監督などで深くかかわったセレソンは110勝33分。負けは11敗しかない。

 地に足のついた監督だった。ただ、何度かは精一杯つま先立ちになって自らのつくった偉業を超えようとしていた。それはブラジル代表監督の宿命とも言える。

マリオ・ザガロ
Mario Jorge Lobo Zagallo/1931年8月9日生まれ。ブラジル・アラゴアス州出身。現役時代は左ウイングとして活躍。ブラジル代表として58年スウェーデンW杯と62年チリW杯で優勝した。引退後はブラジル代表監督を指揮し、70年メキシコW杯優勝、74年西ドイツW杯ベスト4。その後も94年アメリカW杯(優勝)、98年フランスW杯(準優勝)、06年ドイツW杯(ベスト8)と、監督やコーチとしてブラジル代表に長く関わった