世界中で猛威を振るう新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染を予防する対策として、世界保健機関(WHO)が「手洗い」を強く推奨するなど、人々はかつてないほどのレベルでこまめな手洗いを実践しています。しかし、今では当然の「手洗い」も、19世紀半ばまでは医療現場ですら実践されていなかったという驚きの歴史を、イギリスの大手紙・The Guardianがまとめています。

Keep it clean: The surprising 130-year history of handwashing | World news | The Guardian

https://www.theguardian.com/world/2020/mar/18/keep-it-clean-the-surprising-130-year-history-of-handwashing

新型コロナウイルス感染症の流行に伴い世間では手洗いが奨励されていますが、さまざまなテクノロジーや医療技術が発展している21世紀において、未だに奨励されるのが「手洗い」であることに驚きを感じる人も少なくありません。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の歴史学特別教授であるNancy Tomes氏は、「パンデミックに関する歴史家として今回のようなイベントを経験することは、まるでタイタニック号の乗客になったような気分です」とコメント。結核や天然痘などの感染症が死因の多くを占め、大衆に手洗いが奨励された20世紀初頭に戻ったような気持ちだと述べています。

イスラム教やユダヤ教、その他の一部の文化においては、手洗いが宗教的な儀式として長年にわたって行われてきました。しかし、「手に付着した汚れや微生物によって病気が広がる」という考えは、19世紀の後半になるまで登場しなかったとのこと。

ウィリアム・パターソン大学の生物学教授であるMiryam Wahrman氏は、「『手洗いの父』と呼べる存在がいるとすれば、それはセンメルヴェイス・イグナーツです」と指摘しています。



by Tim Ellis

ハンガリー王国に生まれたイグナーツはウィーン総合病院に勤務していた時期に、「同じウィーン総合病院にあるにもかかわらず、なぜか第一産科と第二産科で産婦の病気による死亡率が違う」という問題に直面したとのこと。産婦の死亡率が高い第一産科は医学生の教育も兼ねた医院であり、産科としての業務と並行して解剖などの実習も行われていた一方で、産婦の死亡率が低い第二産科では専門の産科医だけが勤務していました。

医学生の教育を兼ねた第一産科では、「病気で死んだ人の遺体を解剖するために遺体安置所に入り、解剖して死因を見つけてから、そのまま産科の業務に向かって出産を手伝う」といった行為が日常的に行われていました。当時は医師が手を洗う習慣もなかったため、第一産科では遺体を解剖した医師の手を介して感染症が産婦に広がっていたわけですが、人々は長らくこの点に気づかなかったとのこと。

イグナーツがウィーン総合病院で勤務していた1840年代は、ルイ・パスツールやロベルト・コッホによって細菌学が確立する前の時代であり、さまざまな病気を微生物や細菌が引き起こしているということが知られていませんでした。その代わり、腐敗した死体や下水などから発される毒気によって病気が広まると信じられており、医師は毒気を防ぐために「しっかりと窓を閉じる」という対策をとっていたそうです。



ある時、イグナーツの友人でいる医師が、遺体の解剖中にメスで自分の指先を傷つけてしまいました。その後、医師は産婦が死亡するのと同様の病気にかかって死亡してしまいましたが、この過程を知っていたイグナーツは「遺体安置所にある遺体に病気の原因となる『粒子』が含まれており、医師の手を介して産婦の体内に『粒子』が持ち込まれているのではないか?」と考えました。

この仮説をテストするため、イグナーツは第一産科の医師に対して「解剖室から出て患者を処置するまでの間に、次亜塩素酸カルシウムを使って手と器具を洗う」というルールを設けました。実験前には第一産科における産婦の死亡率は18%でしたが、イグナーツが解剖室から分娩室に向かう途中で手指を消毒するよう義務づけたところ、死亡率は1%にまで低下したそうです。

目覚ましい成果を挙げたイグナーツでしたが、残念ながら「医師の手を介して病気がうつる」というイグナーツの理論は広く受け入れられることはなく、大きな反発に直面します。Tomes氏はイグナーツの理論が否定された理由として、「人々が自分自身を『歩くシャーレ』だという概念を持っていなかった点」を指摘。ウィーンの医師は多くが中流・上流階級の出身であり、自分が労働者階級の貧しい人々より清潔であると信じていたため、「医師の手が汚れており、患者に病気を広めている」という理論は侮辱に感じられたのだろうとTomes氏は述べています。

落胆したイグナーツは精神が衰弱し、1865年に送りこまれた精神病院で死亡してしまいました。なお、「通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向」を指す「センメルヴェイス反射」という言葉は、イグナーツの理論が従来の説を信じていた医師たちに理解されなかった史実に由来するとのこと。



イグナーツが理論を発表してから40年が経過したころには、医学界における細菌に対する理解も深まっており、病気を引き起こすさまざまな細菌が発見されました。衛生観念は大きく変化して外科医も本格的に手を洗うようになり、イギリスの外科医であるジョゼフ・リスターは手洗いや手術器具への消毒による効果を次々と発表し、消毒手術の先駆者となりました。

また、19世紀から20世紀に移り変わるころに、結核の感染を防ぐ大規模な公衆衛生キャンペーンが実施されたとTomes氏は指摘。結核対策のキャンペーンは大人と子どもの両方を対象にしており、「本当に小さな子どもたちに対して、手を洗って清潔にするというルールを教えていました」と、Tomes氏は述べています。人々は口や皮膚、髪やひげに細菌が付着するという事実を知るようになると、握手やキスを恐れるようになったとのこと。世紀の変わり目になって若者がひげをそるようになったのは、細菌の付着を恐れる心理もあったそうです。また、食品が個別に包装されて売られるようになったのも、この時期でした。

しかし、公衆衛生の意識がある程度高まって感染症そのものが減少し、感染症に有効な抗生物質が開発されるに伴って、人々の間から公衆衛生に対する危機意識は薄れていった模様。「この種の清潔に対する過度な注意はそれほど重要ではなくなりました。医療の発展と第二次世界大戦後の平穏な日常との間で、気の緩みが生じたのだと思います」と、Tomes氏は述べています。



その後も1970年代に性感染症が増加した時など、定期的に衛生観念が高まる時期があるものの、新型コロナウイルス感染症が流行するまで手洗いはそれほど重視されていませんでした。2009年の研究では、「排尿後には女性は69%、男性の43%だけが手を洗う」「排便後には女性の84%、男性の78%が手を洗う」「食事の前に手を洗うのは女性の7%、男性の10%しかいない」といったことが示されています。

ロンドン公衆衛生・熱帯医学大学院で感染症モデリングの准教授を務めるPetra Klepac氏は、2018年に「手洗いがどれほど感染症の流行に対して有効なのか?」を調査。特に手洗いを奨励されていないグループと通常よりも5〜10倍の頻度で手洗いを行ったグループを比較すると、インフルエンザに感染するリスクが4分の1に減少することを発見したとのこと。

まだ治療法や有効な薬効成分が特定されていない新しい感染症がパンデミックを開始した時点では、手洗いを徹底することがほぼ唯一の有効な対策だとKlepac氏は指摘。「医薬品による介入はありません。ワクチンもありません。これが、簡単に実装できる非医薬品的対策を検討する理由です」とKlepac氏は述べています。Wahrman氏も、「手を洗うことは簡単ですぐに実行でき、費用もあまりかかりません。口・鼻・目に触れる前に、石けんで手を洗ってください」と訴えました。