介護福祉士和田行男さん 撮影/渡邉智裕

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 10月17日、西東京市の市民ホールで、「認知症」をテーマにした講演が始まろうとしていた。

【写真】和田さんと老人が見つめ合う、美しい写真

 参加者は、50代から80代の中高年、200人あまり。認知症の親を持つ家族や、自身の認知症予防のために、話を聞きに来たのだろう。

「みなさん、こんにちは!」

 講師の和田行男さん(64)がステージに登場する。明るいブルーのジャケットに、足元は赤いスニーカー。今風に言うと、“イケおじ”(イケてるおじさん)といった雰囲気だ。

参加者を引き込むトーク力

 自己紹介もそこそこに、「ちょっと下りますね」、ステージから客席に下りると、「なんや、高いとこは緊張するから」と無邪気に笑う。関西弁のイントネーションが、これまた親しみやすい。

 職業は、介護福祉士。

 総合介護サービスを展開する、大起エンゼルヘルプの取締役として、300人以上の介護職員を束ねる。2012年には、NHK『プロフェッショナル〜仕事の流儀』でも取り上げられた、認知症ケアの第一人者だ。

「認知症はその昔、痴呆症って呼ばれてたんやけど、痴はバカ、呆は呆けるという意味。つまりバカと阿呆の最強コンビの言葉で、それに老人をくっつけて痴呆老人と呼んでいました。ひどいでしょ〜」

 会場がどっと笑う。

 和田さんは、どんどん参加者を巻き込む。

「この中で、認知症になりたい人はいますか?」

 むろん誰も手を挙げない。

「じゃあ、ちょっと確認しますよ。まず右手を上げて」「次は左手」「鼻をつまんで」

 参加者は言われたとおりに、身体を動かす。

「はい、いいですね。みなさん、耳が壊れていない、僕の言葉も理解できる、身体の機能も大丈夫。だから言われたとおりにできましたね」

 その言葉に会場から安堵の声が漏れる。と、やにわに言い放つ。「そのみなさんが、認知症になります!」

 まさかの言葉に、会場は「え〜っ!」。きっと、自分のこととして考えてほしかったのだろう。このあと、認知症のメカニズムについて説明する。

「認知症って、病気じゃなく“病からくる状態”なんです。原因となる病でみなさんがよく知っているのはアルツハイマー病や脳梗塞。こういう病気が脳にくっついて、脳が壊されてしまう。それが原因で生活に支障をきたす。その状態を認知症って言うんです。だから、お父さん、お母さんが“認知症の人”という別人になったわけじゃなく、脳に病気がくっついて、これまでと違う状態になっているだけなんですね」

 介護の専門家として、対処法もよどみなく話す。だが、深刻な雰囲気にはしない。

 認知症の予防法に話が及ぶと、「計算ドリルやってますか? 青魚、食べてますか? サプリメント、飲んでますか?」と問いかける。

 参加者のほとんどが、「やってる」と、得意げにうなずく。

 と、これも次の瞬間、ひっくり返す。「それ、お百度参りみたいなもん。そんなことしても、なるときはなります! いちばんの予防法は、早く死ぬこと!」

 まるで、綾小路きみまろや毒蝮三太夫のトークイベントのよう。参加者はどっと笑い、グイグイと和田さんのトークに引き込まれていく。

 終盤では、スクリーンの写真で施設の入居者を紹介。

 たとえ認知症になっても、適切な支援があれば、ふだんと変わらない暮らしが可能な方もたくさんいることが伝えられた。

「どんな病もかかった本人がいちばんつらいでしょ。認知症だっておんなじ。“本人は何もわからないのだから周りの家族のほうがつらい”って言う人もいるけど、認知症になりたくてなった人はいないからね。まず、そのことを受け止めてほしいですね」

 子どもが大人と同じことができないように、脳が病気に侵されている人も大人と同じことができない。まずは、そのことを理解して、手を差しのべてほしいと話す。

「そのためにも、もっと介護のプロを頼ってほしい。いろいろ厳しいことが起こるけど、自分たちだけで“親にくっついた認知症”と闘い、付き合っていくのは無理があります。ぜひ僕ら専門職を上手に使って、肩の力を抜いて認知症と向き合ってください」

 瞬く間の2時間を終え、参加者は「ためになった」と同じくらい、「楽しかった」と言葉を残した。

「認知症になっても、なんとかなる」とメッセージを受け取ったからだろう。

 認知症の高齢者や家族を支え続けて30年以上─。

 類いまれなバイタリティーと人間力は、どうやって培われてきたのだろう。和田さんの人生をひも解いてみたい。

今でも覚えている、おかんの後ろ姿

 人前で堂々と話す姿からは想像できないが、かつては「弁当をふたで隠して食べるような、内気な子だった」と振り返る。

 1955年、高知県の山奥、大川村で生まれ、5歳のときに高知市内に移り住んだ。

 家族は両親と3つ下に妹がひとり。家庭環境は恵まれたものとはほど遠かった。

「おやじさんは大工だったんやけど、山奥から出たとたん、酒と女に狂っちゃった。僕ら家族は食うもんにも困って、近所におかずを分けてもらってたそうやわ」

 父親は女性を自宅にまで連れ込むようになり、耐えかねた母親は自殺未遂の果てに、家を出た。入れ替わるように、見ず知らずの女性が一緒に暮らし始めたという。

「家にいるのが嫌で資材置き場に行って、廃材で秘密基地を作って過ごしてた。寂しがり屋だから犬を拾ってきて一緒にいたり。星を見るのが大好きやった」

 深刻な話題も、なんてことなく話すが、ポツリと口にした言葉に、悲しみがにじむ。

「おかんが出て行ったときの光景は、今も覚えてる。タクシーに乗って、後ろも振り返らずにさーっと行ったわ」

 母親が戻ってきたのは、小学4年生のころだった。

 一家は大阪に移り、再び家族で暮らし始めた。しかし、それも長くは続かなかった。

「翌年、おやじさんが亡くなってね。末期がん」

 母親が一家の大黒柱として働き始めてからは、和田さんも新聞配達をしながら家計を支えた。

「勉強はせんかったなあ。友達とやんちゃして遊んだり、中学生になると、バイトで稼いだ金で鉄道を見に行くことに夢中になってたな。鉄のかたまりなのに、生き生きと走る蒸気機関車が大好きやった。幼いころ、蒸気機関車の基地の真裏に住んでたからかなあ」

 鉄道の話になったとたん、子どものように目を輝かせる。

 鉄道好きの“鉄ちゃん”は、国鉄マンに憧れ、高校は大阪府立今宮工業高等学校(当時)に入学。やがて人生の転機が訪れる。

 きっかけは、青春時代にありがちな失恋。

「中学生のときに大好きだった女子にフラレてから、バイト代を貯めては遠くまで蒸気機関車を見に行って“終わるってこと”を考えまくったんです」

 1970年代の当時、蒸気機関車はその役割を終えようとしていた。ホームの隅に、鉄くずのように置かれた姿は、和田さんに“終わるということ”を教えてくれたという。

「約2年間考えた結果、人間ってみんな死ぬんやってことがわかった。どう生きても死ぬときがくる、しかもいつくるかわからへん。ならば今を大事に生きようって思うようになって、弁当を隠す自分がいなくなってしもうた。今を一生懸命、生きようって」

国鉄マン時代『ひまわり』号との出会い

 高校3年生になると学園祭の実行委員長に立候補。生まれ変わったように行動的になった。

「学校と交渉して禁止されていたことをできるようにしたり体育祭で優勝したり、もう別人(笑)」

 人の先頭に立って改革に燃える。高校時代に芽吹いたバイタリティーは、社会に出て、一気に開花していく。

 高校卒業後は初志貫徹で、国鉄・大阪鉄道管理局に入局。

 1年後には憧れだった車両修繕の部署に異動し、油まみれになって働いた。

 21歳の若さで結婚。子どもも授かった。

 しかし、マイホームパパにはほど遠く、力を注いだのは、労働組合の活動や仲間作りだった。

「ちっぽけやけど正義感と反骨精神が旺盛なんやろね。年次有給休暇が希望どおりにとれるようにとか、若い子らが、技術を身につけられる勉強会を開いてくれとか、先頭に立ってやってたな」

 その一方で、社会的なボランティア活動にも参加。

 そのひとつが、1982年に始まった障がい者に旅を楽しんでもらう、臨時列車『ひまわり号』の取り組みだった。

「組合のボスから言われて後輩たちを引き連れて手伝いに行ったのが始まり。反省会の席で、“障がいがあっても列車の旅ができる国鉄にする。それは僕の仕事だ”って生意気なこと言ったら、翌年から事務局長をやれって。10年くらい関わりました」

 世のため、人のため人一倍、正義感が強い和田さんは、力を尽くした。

 国鉄マンとして、誇りをもって働いていた。

 そんな和田さんが、大好きだった国鉄を退職することになったのは、1987年に民営化が決まったときだ。

「僕は反対運動をしていくんだけど、それはすさまじかった。民営化が決まり、僕は退職を決めたけど、それこそみんなの先頭を走ってきただけに、本当の意味で区切りがつくまで、退職から1年かかりました」

 仲間、家庭、仕事、そのすべてと縁を切り、新たな人生をスタートさせたのは32歳のときだ。

 国鉄マンから介護職へ、畑違いの仕事に転職したのは、障がい者の列車の旅の運動がきっかけだった。

「社会福祉の仕事もいいかなと思い始めたときに、ちょうど運動の仲間に高齢者施設を経営されている方がいたのを思い出して、門をたたかせてもらいました」

 1週間にわたる採用試験は、実習という形で行われたが、初日に思い知らされた。

「包帯交換に同行したら、利用者さんの背中から、それこそ国旗を口から出す手品みたいに次々と包帯が出てきた。褥瘡っていうんですけど、皮膚が腐って、こぶしが入るほどの穴が背中にあいてたんです。それを見て、この仕事は“わからない”“できない”が言えないと人を殺してしまうと肝に銘じました」

 介護の仕事はきれいごとではすまされない。おもらしの片づけや、おむつ交換も日常だ。それでも、嫌だと思ったことは1度もない。

「認知症の人に出会って、人間って面白いなと単純に思えた。僕にとって天職なんだなぁって」

 ともすれば、“奇行”に映る、認知症の人の行動も、和田さんは別のとらえ方をする。

「認知症じゃない僕らは忘れたくても忘れられずにつらい思いをする。認知症の状態になると覚えていたくても覚えられなくなる。どっちが豊かかわからへんて」

 認知症イコール、不幸とは決して思わなかった。

 嫌なことを素直に嫌と言えたり、食べたいものを我慢せずに口に入れる言動は、逆に新鮮に映ったほどだ。

「中にはうんこを食べちゃう人もいて、人間てすごいなあ、人はここまで自由になれるんだって感動しました。自由に物事を考えたいのに、コントロールされてしまう自分を解放したかったんやろね」

 多くの大人がそうであるように、和田さん自身も理性や常識に縛られて生きてきた。だからこそ、新鮮な好奇心をもって介護にあたれたという。

信じられない光景

 ところが、1年後、研修で訪れた別の施設で、信じられない光景を目の当たりにした。

「施設は施錠で外部と遮断され、檻のついたベッドに入れられ、強制的に混浴させられている。髪型・服装はみんな同じ、隠されることもなくおむつ交換がされていた。当時、僕が働いていた施設は介護では最先端をいく施設だったようで、世間の実態を知らなかったんです」

 行動の自由を奪われ、廃人のようになっている人たちを見て、怒りが込み上げた。

「社会福祉施設には差別や人権無視なんてないと思ってたんやけど、違った。僕が子どものころに習った憲法の基本的人権には“認知症の状態にある人は除く”とは書いてなかった。僕のしょうもない正義感が生きるかもしれん。なんとかしたい! と思いました」

「なんとかしたい」、を形にしたのは、44歳のとき。

 1999年、東京都で初のグループホーム(認知症高齢者を対象に少人数で共同生活をする施設)、『こもれび』の施設長になってからだ。

 介護の仕事に本腰を入れようと上京し、34歳で高齢者住宅サービスで6年間勤務。介護福祉士の資格を取得した。以降、介護現場のあり方に疑問を抱きながら、自分なりに追求を続けてきた。

「本来、僕らの仕事は、認知症になっても自立して、社会とつながりながら生活できるよう支援すること。だけど実際は、食事を作り、食べさせ、身の回りの世話をする。本人ができることまで手を出すから、結果的に、能力を奪う介護になっているんです」

 和田さんが介護の仕事を始めたばかりのころ、夜勤で朝寝坊をしてしまったことがあった。殺気だって起床着替えや排泄支援をやっていると、利用者たちが黙って手伝い始めたのだという。

「やれるんや!」

 和田さんは驚き、必要なのは、能力を引き出す介護だと実感した。

 その後、賛同する仲間を増やしながら、働く場所が変わっても、介護のやり方を改善していった。

能力を引き出す介護へ

 そして、グループホームの施設長になったのを機に、これまでの常識をひっくり返すような、新たな取り組みを始めた。

「利用者さんが夕飯のメニューを決め、食材を自分たちで買いに行く。包丁も使うし、煮炊きで火も使う。掃除や洗濯もする。できない部分を、職員が支援する。最初は世間から、“認知症の人に何もかもさせるなんて、虐待だ”って言われましたね」

 それでも、方針を曲げなかった。利用者の変化が、「これでいい」と物語っていたからだ。

「誰だって、自分の能力が発揮できる環境に来たら、パッと顔が変わるでしょ。認知症の方も同じ。多くの高齢者施設では、能力維持のために、ゲームや頭の体操なんかをさせるけど、それより60年、70年と、生きるために続けてきた家事のほうが、身体が覚えている。わかりやすいんです」

 2003年、現在勤務する大起エンゼルヘルプに入社後は、管轄するグループホームやデイサービスでも実践。

 適切な支援をすることで、人形にご飯を食べさせていた人が、食事の支度ができるようになったり、言葉がまったく出なかった人が『故郷』を歌えるようになるなど、日常を取り戻していった。

 利用者の家族は、口々に驚きの声を上げた。

「以前のお母さん(お父さん)の笑顔が戻った」

 浅見京子さん(62)も、そう口にしたひとりだ。

「最初はホテルみたいに至れり尽くせりのホームに入居して、折り紙や歌、ネイルまで塗ってもらって1日を過ごしていました。でも、母が“このままじゃダメになる”と嫌がって。和田さんのところに移ってからは、家事をしながら、目に見えて活力を取り戻していきました」

 浅見さんのお母様は、先月、93歳で旅立った。入居から7年後のことだという。

「母が旅立った今、娘として何ひとつ後悔がないのは、認知症になっても以前と変わらぬ日常の暮らしの中で、人生をまっとうしてもらえたからだと思います。職員のみなさんには、和田イズムが浸透していて、明るく寄り添い、本人が能力を発揮し、望む暮らしを続けるための支援に高いプロ意識を持っていました。心から感謝しています」

 利用者に家事をさせることは、介護職員にとって大きな負担だ。自分たちでやったほうが、どれだけ効率的か。

 それでも、和田イズムを受け継ぐのは─。

 和田さんのもとで働く、滝子通一丁目福祉施設・施設長の井真治さん(51)が話す。

「和田はひと言で表現するなら、“大きな子ども”(笑)。思ったことはズバッと言うし、必要な改革に熱く突き進む。その人間性に魅かれて、和田の周りには、賛同する仲間が集まります。介護の知識と技術は、ずば抜けています。

 利用者さんが生きていくエネルギーを、彼はしっかり見ていて、身体、脳、動く機能を点検して能力を引き出していく。これがダメなら、こっちと、引き出しの多さもケタ違いです。介護職として、一緒に働きたくなる人間なんです」

 和田さんが管轄する施設では、日中は基本的に鍵をかけない。

「僕は決して施錠反対派ではないんです。認知症の方は、自分の意思は行動に移せても、やり遂げる力がない。監視下に置く必要があります。ただし、行動を制限するほどに、人として生きる姿は失われてしまう。僕の実践としては、できるだけ閉じ込めたくはない、ということです」

 認知症の人が徘徊するときは、必ず目的があるのだという。

「だから、“徘徊”という言葉自体、使い方が間違っているんですけどね。いずれにしても、出かけようとしている利用者さんを力任せに止めたりはしません。それより、目的を聞いてみて、“仕事に行く”と言うなら、仕事より大事なことをこっち側に作るんです。そうやって、理に基づいて対応する。頭、いっぱい使います」

 出入り口にはセンサーを設置。出入りがあれば、即座に職員が気づくように工夫している。

 それでもごくまれに、職員の目をすり抜けて出て行ってしまう場合もある。

「現実をそのまま映してくれ」

 その現場を目撃したのが、2012年、NHK『プロフェッショナル〜仕事の流儀』で和田さんを密着取材したカメラだった。

 当時の担当ディレクターで、小国士朗事務所代表取締役・プロデューサーの小国士朗さん(40)が話す。

「撮影に行ったら、パトカーがいて、利用者さんがいなくなったと騒動になっていました。和田さんにとっては、“そら見たことか”と、批判されかねない場面です。なのに、“現実をそのまま映してくれ”と。和田さんは、ただ自分が正しいと思っているわけじゃないんです。

 無事に保護されてからも、悩んで、迷って、利用者さんにとって最善の環境を作ろうと模索していた。その姿に、この人は信用できると感じました」

 番組は大きな反響を呼び、和田さんが実践する介護は、多くの人に受け入れられた。

 それは、ありのままの姿をカメラにさらしたからだと小国さんは言う。

「カメラが回っていようが、まったく変わらない。あきれるほど丸裸な人。もう、すっぽんぽん(笑)。自分をとりつくろわないのは、ずっと闘ってきたから知ってるんですね。都合の悪いことを隠したり、いいところだけ見せても、見透かされる。介護の現状を変えるためにも、ありのままを見せて、どう判断するかを相手にゆだねようと。あとは性格だな。そういう人なんです」

 恋多き男─。それが、和田さんのもうひとつの顔だ。

「最初の嫁さんの長男坊は42歳で、介護の仕事をしています。今の嫁さんとの間には4人の子どもがいて、末っ子は4歳です」

 結婚歴は3回。上は42歳から下は4歳まで、幅広い年齢層の子どもがいる。

 現在の妻と再婚したのは11年前。22歳年下で、仕事の関係で出会ったという。

「嫁さんも介護の仕事をしていて、研修会に講師として行ったときに僕のお世話役だったとか。でも、そのときのことは、記憶にないんですよ」

 記憶に刻まれたのは、2度目の研修会で再会したとき。懇親会で偶然、隣に座った妻に、「この女、好きやなあ〜」とひと目惚れしたそう。

「当時のメールを嫁さんに見せてもらったら、ストーカーか! っていうくらい、俺、猛プッシュしてて。しょうもないなあ(笑)」

 現在、妻と子どもたちは名古屋で暮らす。

 東京を拠点に全国を飛び回る和田さんは、月に数回しか自宅に帰れないことも多い。

「子どもと会えなくても、寂しいとか、あんまり思わないけど、嫁さんにしばらく会わないと、気持ちがしぼんでくる。俺、かまわれすぎると逃げるし、かまわれなくても逃げる。めんどくさいやつなんです。今の嫁さんは、上手なんですね、手綱さばきが」

 メロメロですか? と尋ねると、しばし考え、口を開く。

「ようわからんけど、結婚した当時より、今のほうが好きですね。なんでかなあ。俺、本当は気が小さいのに、自分に嘘をついて、強く見せちゃうとこがあってね。だけど、嫁さんの前では、そうしなくていいから、すごくラクやねん。ハハハハ」

 照れ隠しに、大笑いをする。

 ずっと闘うように生きてきた。これからも闘うように生きていく。

 そんな和田さんにとって、妻は唯一無二の羽を休められる存在なのだろう。

『注文をまちがえる料理店』が世界へ

 今年6月、和田さんの姿はフランス・カンヌにあった。

 渡仏の目的は、一般社団法人『注文をまちがえる料理店』の代表理事として、世界三大広告賞のひとつ、カンヌライオンズ国際クリエイティブフェスティバルに挑むため。見事、栄えあるシルバー賞を受賞した。

 この『料理店』の発案者は、前出・小国士朗さん。『プロフェッショナル』の取材中に、ひらめいたと話す。

「ある日、利用者さんがハンバーグを作るはずが、ギョーザが出てきて。はい、ひき肉しか合ってない(笑)。でも、利用者さんたちは、うまそうに食べているし、職員さんもふつうに介助している。間違っても、どうってことない雰囲気がすごく素敵で。レストランで認知症の方に働いてもらって再現したいと、和田さんに相談したんです」

 斬新な企画は、ともすれば“認知症の人を、見世物にして”と批判されかねない。

 それでも和田さんは「やろう」と即答した。

「小国さんのような違う分野の人と一緒にやることで“認知症”をテーマに、世の中に波紋を投じることができる」と考えたからだ。

 読みは的中した。

 2017年6月、東京・六本木のレストランで、3日間限りの『注文をまちがえる料理店』をオープン。

 全員が認知症なので、サラダが3つも運ばれてきたり、ホットコーヒーにストローがさしてあったり、ちぐはぐなサービスが続く。

 それでも、いや、だからこそ、看板にいつわりなし。

 来店客は楽しげに、認知症の人たちと話を弾ませ、終始、笑い声が絶えなかった。

「認知症になっても周囲のサポートがあれば、社会に参加できることが確信できたし、お客さんにも、認知症であろうと、人として十分にかかわりが持てることを理解してもらえた。中には、生き生きと働く姿に、自分が認知症になるのが怖くなくなったと話す人もいたほどです」

 ときにジョークを飛ばしながら接客をしていた認知症の女性に「記念撮影」をせがむ来店客の姿もあった。

「最近、元気がない高齢の母親に今日ここに来た話をしたら勇気づけられる気がして」

 イベントの様子は、多くのメディアで紹介された。

 反響は大きく、「うちの地域でも」と、これまでに全国25か所で同様のイベントが行われ、その輪は、中国、韓国、イギリス、台湾、カナダなど海を越えて広がっている。

 プロジェクトは、いくつかの賞を受賞し、社会的にも大きな評価を得た。

 しかし─、「僕は、新しいことをやってるつもりはない」、和田さんは冷静だ。

「取り組むことは違っても、目的は同じ。認知症になっても、最期まで人として生きられるように支援する。生意気なようだけど、それが僕のテーマで、ずっとそれを追いかけていくだけです」

 そう言うと、2杯目のコーヒーを飲み干して、目尻を下げた。

 取材の翌日は、ベトナムに飛ぶという。外国人技能実習制度を利用するベトナム人に会うためだ。

 介護職不足と言われて久しい。2025年には、65歳以上の高齢者の5人に1人が認知症になると言われている。問題は山積みだ。

 それでも、和田さんは先頭に立ち、ひとつひとつ問題を乗り越えていくに違いない。

「なんとかせな!」、熱い闘志を胸に─。

取材/中山み登り(なかやまみどり)ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など