by romankosolapov

麻酔があるおかげで私たちは無意識の中で痛みを感じることなく外科手術を受けることができます。しかし、手術を受けた人の中には、手術中に目が覚めてしまい、「耐えがたい苦痛の中でどうすることもできない」という体験をした人もいることが判明しました。

This is what it’s like waking up during surgery | Mosaic

https://mosaicscience.com/story/anaesthesia-anesthesia-awake-awareness-surgery-operation-or-paralysed/

カナダのマニトバ州に住む55歳のドナ・ペンナー氏は、手術の最終に意識を取り戻した患者の一人。ペンナー氏は「45歳の時に地元の運送会社の会計部門で働いているときに、ひどい生理痛に襲われてかかりつけ医に相談したら、原因を見つけるために外科手術をすることになりました。ごく簡単な手術のはずでしたが、私は外科医が腹部を切った時に意識が覚めたのです。でも、麻酔が効いていたので誰かにそれを伝えることができませんでした。私が凍り付いたみたいに手術台に寝ている間もずっと手術は続けられたので、私は死を覚悟しなければなりませんでした」と語っています。

手術から10年が経った現在でもペンナー氏は毎晩悪夢にうなされ続けていて、仕事も辞めざるを得なかったとのこと。ベンナー氏の例は極端ですが、最新の調査で全体の約5%の人が手術を受けている最中に目を覚ましている可能性があることが分かってきています。しかし、手術中に意識を取り戻しても、麻酔の影響で大半の人は何が起こったかを後から思い出すことができません。ロンドンのセントジョージ病院に勤めるピーター・オドール医師は、「全身麻酔が頻繁に使われていることを考えると問題は重大です。今でも世界のどこかで手術中に目を覚ましている人がいるかもしれません」と述べています。

長い歴史において麻酔が効くメカニズムは多くが謎に包まれていました。ヒポクラテスの時代から、医師たちは治療中の患者の苦痛を和らげる方法を探し求めてきました。医師らはアルコールやアヘン、さらにはドクニンジンから採取した毒液などを使っていましたが、これらは鎮静剤としては多少の効果はあるものの、ほとんどの患者は拷問のような苦痛からは逃れられませんでした。

1840年代に入ると、科学者が鎮静作用を持つガスを発見しました。ボストンで歯科医を営んでいたウィリアム・モートン氏はジエチルエーテルに注目し、1846年にマサチューセッツ総合病院で公開デモを実施しました。そのデモでは、「話すことはできるものの、理路整然とした思考はできず、痛みをほとんど感じない」という患者の様子が示されたとのこと。このデモのニュースは瞬く間に医学界に広がり、麻酔時代の幕開けとなりました。さらに、クロロホルムなどのより効果的な麻酔薬が発見され、手術中の苦痛は過去の遺物だと言われるようにまでなりました。

今日の麻酔科医は幅広い種類の鎮痛剤や意識を低下させる薬の中から、手術や患者の容体に最適なものを選んで使用しています。麻酔の多くはいわゆる局所麻酔で、意識を失わせることなく体の一部から感覚を除去するために使われています。局所麻酔には脊髄くも膜下麻酔と硬膜外麻酔があり、どちらも脊椎に作用するもので、一般的な用途は膀胱や股関節などの手術や出産です。場合によっては鎮静剤を与えられることもあります。これは、患者をリラックスさせ、眠気を催しますが、完全に意識を喪失するわけではありません。これとは対照的に全身麻酔は意識を失わせることを目的としており、麻酔が効いている最中の患者は昏睡状態に陥っていて、その間の記憶もありません。



by amenic181

ウィスコンシン大学マディソン校の麻酔科医であるロバート・サンダース医師によると、麻酔薬がなぜ私たちの意識を弱めるのかは、正確にはわかっていないそうです。人の脳内では神経伝達物質と呼ばれるさまざまな脳内化学物質がニューロンの活動、特に、異なる脳領域間の広範囲のコミュニケーションを活性化させたり抑制したりします。麻酔薬はこの神経化学物質の働きを阻害していると考えられているとのこと。

例えば「プロポフォール」と呼ばれる全身麻酔薬では抑制作用を持つ神経伝達物質である「GABA」の効果を増幅する作用があります。サンダース医師が実施した脳波測定を用いた実験によると、プロポフォールを投与された被験者は、外部からの刺激に対して反応し、脳全体を活性化させる働きが抑制されていたとのこと。このため、サンダース医師は麻酔が脳内の情報伝達を妨げている可能性が非常に高いと結論づけました。

医療の現場ではさらに事情が複雑です。例えば、麻酔科医は一時的な昏睡を誘発する麻酔薬と、さらにそれを維持する別の麻酔薬を使う必要があるかもしれません。また、患者の年齢や体重、服用しているほかの薬など多くの要素を考慮し、手術のために必要な筋弛緩剤を麻酔深度とは独立して調節できる、神経筋遮断薬や筋弛緩剤が使われることもあります。神経筋遮断薬を使用してのどにある気道を確保することで、患者に酸素や薬剤を与えるためのチューブを挿入しやすくできます。また、麻酔の効果で横隔膜の筋肉まで停止させる場合は、患者に人工呼吸器を取り付ける場合もあります。呼吸すら止めてしまうほどの効果を持つ神経筋遮断薬を用いた全身麻酔により、患者は手足どころかまぶたさえ動かすこともできなくなります。

大抵の場合、麻酔は驚くほど完ぺきに作用します。モートン氏が公開デモを行ってから170年以上経過した2019年時点で、世界中の麻酔科医が年間数百万人もの患者を昏睡状態にさせては、安全に目覚めさせています。麻酔薬は患者の苦痛を軽減させるためだけではなく、麻酔薬が無ければ不可能な手術をも可能にしています。

しかし、他の薬と同じで、麻酔薬が効きにくい体質の人がいる可能性は否定できません。痛覚を遮断するだけの一般的な麻酔薬のみが使われている場合は、手術中に手足を動かして意思を伝えることや、話をすることが可能になりますが、神経筋遮断薬により筋弛緩した状態で全身麻酔を施されていると、それもができなくなります。そして不幸なことに、ごく一部ではありますが、全身麻酔下での手術を受けている最中に体を動かすことができないまま意識だけが戻る人もいるわけです。

先述のドナ・ペンナー氏の体験がこのパターンに該当している可能性は高いと思われます。手術を受ける際に麻酔をかけられた後、ふと手術台で目覚めたペンナー氏は、最初「もう手術が終わったものだ」と思ったとのこと。しかし実際は、まさに手術が始まる直前で、意識があるに関わらずペンナー氏の体はメスで切り裂かれていきました。痛みで涙を流したり叫んだりすることもできないまま、なんとか医師や看護師に意識があることを伝えるため、わずかに動く片足や舌を必死に動かしましたが、残念ながら医師たちには伝わりませんでした。それどころか、予定より早く麻酔の効果が切れ始めたと解釈した医師たちにより、呼吸器のチューブが外されたので、息もできなくなったペンナーさんは死を覚悟したとのこと。



by submerged~

いくつかのプロジェクトがペンナー氏のようなケースがあることを明らかにしようと動き始めています。例えば、アメリカのワシントン大学は2007年から北米を中心とした麻酔に関する体験レポートを収集し始めました。ワシントン大学のクリストファー・ケント医師は、「体験レポートの中で最も深刻なのは、神経筋遮断薬による麻酔下で目を覚ますケースです。呼吸もできない中で、患者は自分が既に死んでいるのではないかという恐怖に襲われるのです」と話しています。こうしたプロジェクトの中で最大のものはイギリスとアイルランドの麻酔科医協会によって、イギリスとアイルランドのすべての公立病院を対象に実施された調査です。その結果によると、麻酔が効かないケースは1万9000人のうち1人しかいなかったとのこと。当時、この報告は好意的に受け止められました。手術中に目が覚めるよりも、手術中に死亡する可能性の方が高いので、心配しても仕方が無いという見方が優勢になったのです。

しかし、セントジョージ病院のオドール医師はこの研究結果を疑問視しています。「この調査には患者による事後報告に頼っているという盲点があります。麻酔薬自体に、記憶の定着を阻害する効果があるので、もし手術中に目覚めていても、後でそれを思い出すことができない可能性があります」とオドール医師。この指摘を検証するため、ウィスコンシン大学のサンダース医師らは「孤立した手」という実験を行いました。これは、 麻酔導入中に片腕にチューブを巻いて麻酔薬の効果を遅らせることで、一定時間患者が手を動かせるようにする手法です。実験の結果、調査対象になった260人の患者のうち、4.6%が手を握って意識があることを示しました。また、手を握った患者10人のうち4人が、意識があっただけでなく痛みも感じていたことが分かりました。この調査結果は、イギリスとアイルランドで実施された調査よりもはるかに高い確率で手術中に患者が目覚めていることを示唆しています。



by sarawutnirothon

サンダース医師は「このことで研修生とよく哲学的な議論をしています。果たして、患者が覚えていないなら問題ないと言っても良いのでしょうか」と話しています。このことでサンダース医師がアンケート調査をしたところ、ほとんどの人は「仮に記憶が無くても手術中に目覚めたくない」と答えましたが、少数ながら「記憶が無いなら構わない」と答えた人もいました。

手術中に目覚める可能性について患者に伝えるべきかどうかは難しい議論です。大抵の患者がトラウマを負うこともなく全身麻酔から目覚めていることを考えると、あえて手術前の患者を怖がらせたりるような説明をするべきではないかもしれません。最悪の場合手術を拒否し、治療ができなくなるおそれもあります。一方で、ワシントン大学の体験レポートの中で「自分は死んでしまったのだ」という恐怖に襲われた人たちは、事前に説明を受けていればパニックに陥らずに済んだ可能性もあります。麻酔中に目覚めた経験のあるペンナー氏は、自分の体験を病院側に話した時のことについて「医師や看護師たちの反応を今でも覚えています。彼らはショックを受けた様子で、ただどうすればいいか分からずにずっと黙ったままでした」と振り返っています。

ワシントン大学の体験レポートでも、手術中に目覚めたと回答した人のうち75%が病院の対応に満足しておらず、51%が麻酔科医や外科医が自分の経験について理解を示さなかったと回答しています。病院側から謝罪を受けたのは全体の10%に過ぎず、また15%はカウンセリングを紹介されました。ペントナー氏はカナダの大学と協力して、麻酔中の覚醒について医師たちに教育を受けさせることで、問題を解決しようとしています。医療関係者がトラウマを負った患者への対応について理解を深めれば、患者が立ち直るための助けになることができます。

しかし、最終的な目標はやはり手術中に患者が目覚めるようなことが起こらないようにすることです。サンダース医師は「より適切に患者の感覚を遮断する麻酔薬の配合方法があるかもしれません」と話しています。

一方で、全身麻酔下では、脳全体のシグナル伝達が失われていると考えられていますが、聴覚野を含む特定の領域は反応し続けていることも分かってきました。つまり、意識不明状態にある患者を励ましたり助言を送ったりできる可能性もあるわけです。麻酔中の覚醒についての理解が深まるにつれて、この現象を逆に利用しようという動きもあります。