青と黒の誇りを胸に闘った「111日間」。ガンバ大阪の宮本恒靖監督が、熱き想いのすべてを語り明かす。写真:川本学

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 宮本恒靖のスマホに着信があったのは、7月22日の夜だった。ガンバ大阪U-23の盛岡遠征を終えて帰阪。自宅で疲れた身体を癒していた矢先だ。

 前強化部長に「明日クラブハウスに来て話ができるか?」とだけ問われ、「分かりました」と答えた。その日、トップチームは清水エスパルスに敗れて5戦勝ち星なしとなり、順位も16位に転落。宮本のなかに少しばかりの予感はあったものの、話の内容は判然としない。翌日からJ3が中断期間に入るため、実は家族旅行を予定していたが、宮本は急きょひとりだけ外れた。朝一番でパナソニックスタジアム吹田に向かったのである。

「そこで監督就任のオファーを初めてもらったんです。なんの前触れもなかったし、まるで準備もしてなかったんで即答はできなかった。持ち帰らせてほしいと伝えましたね。それが朝の8時か、9時くらい。で、お昼過ぎに『やります』と返事しました。もう旅行に出かけている家族には、監督のオファーを受けることにしたよとだけ、電話で伝えました」

 
 即答しなかったと、宮本は言った。決断に至るまでの2〜3時間、彼はひとりでなにを考えていたのだろうか。

「じゃあ監督をやらせてもらうというなかで、なにが問題になるのかと。即答はできなかったけど、いまチームが窮地に陥っている状況で自分がやるしかない、できることがあるとは思っていました。いろいろと整理する時間でしたね」

 腹は決まったが、当然、オファーを受諾するうえで確認したいことは山ほどある。ファン・ウィジョがアジア大会参加で離脱するため、前線の補強は急務。そこに新戦力の獲得はあるのか。U-23チームの監督として1年半を戦った自分をクラブはどう評価し、今回のオファーに至ったのか。そして、他に打診している監督はいるのかなど、多岐に渡った。これらをすべてクリアにしたうえで、宮本は契約書にサインをした。レヴィー・クルピに取って代わる指揮官の座に就き、新たな政権が誕生したのである。
 2011年シーズンいっぱいで現役を退き、その後はテレビ解説などをこなしながら、FIFAマスターにも学んだ。サッカーをはじめとしたスポーツを組織論、ビジネス、法律などさまざまな角度から考察する大学院で、見事に修士号を取得する。

 古巣ガンバに戻ったのは2015年だ。アカデミーのジュニアユースで中1チームを担当し、さらに2016年にユースチームの監督となり、翌年にはU-23チームの指揮官を歴任。とんとん拍子でキャリアアップを重ね、今年春のクルピ体制発足時には、トップチームのコーチも兼任した。近い将来に“宮本ガンバ”が誕生するのは既定路線で、ファンもうっすらと明るい展望を描いていたはずだ。

 ところが、キャリアプランは予定よりもずいぶんと早く前倒しになった。

「いつかはトップで監督を務めたい。もちろんその気持ちはあったけど、だいぶ早まったなとは感じました。でも、そういうのって望んだところで、タイミングが合わないとなれないものじゃないですか。自分としては、こういう風にやれば、という算段が少しはあったから引き受けた。就任会見でも話しましたけど、自分を育ててくれたクラブなので、いま助けるのが恩返しになるとも思っていたので」

 
 最初のミーティングで、41歳の青年監督は選手たちに明確な目標を示した。

「なにを置いても残留を果たそう、それがミッションだと。その時点で15ポイントだったんで、あと24ポイント獲る。8勝9敗で乗り切って、最終的に39ポイントを目ざすというのを現実的な目標として掲げた。じゃあそのためになにをすべきか。本来の力を出せば辿り着けるから、日々の練習を大事にしよう、その質を上げようと話しましたね」