ナレ死したはずの片桐且元が寧(鈴木京香)に報告に来ている意外性。亡くなったのは報告してからということなのだろう。アタクシ、東京ウォーカー8月号の真田丸特集で、片桐且元が意外な伏兵になることと、きりが最後に笑うことを予想しておりました。

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NHK 大河ドラマ「真田丸」(作:三谷幸喜/毎週日曜 総合テレビ午後8時 BSプレミアム 午後6時)
12月18日放送 第50話   演出:木村隆文


有働さんに司馬遼太郎「関ヶ原」を朗読してほしい


内記「早蝉ですなあ」
作兵衛「今年は陽気がいいんで先走ったやつが出てきたんでしょう」
信繁「ではわたしもひとつせわしなく鳴いてくるか」
うーん、かっこいい!

ただただ面白かった。
大坂夏の陣、豊臣と徳川の決戦、真田幸村(堺雅人)の最期の1日を一気に見せた最終回。ドラマの最初と最後は、信之(大泉洋)と本多正信(近藤正臣)が締め、それ以外は、豊臣軍と徳川軍の状況を交互に見せながらノンストップで戦が進んでいく。この構成は一幕ものの舞台が原点であり最も得意とする三谷幸喜の真骨頂だ。

効果的だったのは有働由美子のナレーション。5月7日の早朝から幸村が家康と対峙して、安居神社まで逃れるところまで、要所要所を有働が状況説明していく。極力抑制していることが逆に心揺さぶるナレーションが司馬遼太郎の「関ヶ原」の筆致をも思わせた。有働は当初、ナレーションが講談調に煽るものかと思っていたが、三谷は有働の淡々とした読み方を好んだという。「あさイチ」でのはしゃいだナレーションよりも、彼女の本来の知性が生かされたナレーションだった。

「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」かと思った


生き残る者、亡くなる者・・・それぞれに鮮烈な瞬間があった。とりわけ三十郎(迫田孝也)と相対した源次郎(堺)が「小ものにかまうな」という別れ際は泣けた。


当初、優勢だった豊臣軍が、ちょっとしたことからぐらついていく。
「この小さな行動が歴史を変えた」「最後の戦国武将は、戦には流れが変わる瞬間があることを体で知っていた。彼はけしてそれを逃さない」このときのナレーションもぞくぞくする。
状況が反転するのは、ほぼドラマの尺の半分、折り返しの時間だ。このパターンは11、12話でもそうだった。最終回の場合、延長していたので、27、8分頃。

次第に不利になっていく戦況下、「さらば宇宙戦艦ヤマト」みたいな作兵衛(藤本隆宏)や内記(中原丈雄)の戦いっぷりも泣きポイントだ。作兵衛は大事な畑で死に、内記は殿・昌幸(草刈正雄)の位牌を抱えて死す。



燃える大坂城。きり(長澤まさみ)が千(永野芽郁)を連れて大坂城を出るとき、家康の陣に向かう信繁を見るのも切ない。

「逃げるは恥だが役に立つ」戦法


源次郎信繁はひたすらに馬を走らせる。
そして、ついに左衛門佐(信繁)対家康の時が来る。
信繁の生き方を否定する家康に、
「されどわたしはおまえを討ち果たさねばならぬのだ。我が父のため、我が友のため、先に死んでいった愛する者たちのために」と銃を構える。

だがその決死の行動は、2016年の世でもたぶん最も絶好調の男・星野源(秀忠)に阻まれる。家康・秀忠父子は「逃げるは恥だが役に立つ」戦法でみごとに逆転の好機を掴んだわけだが、三谷が台本をあげた頃は「逃げ恥」がここまでブームになるなんて思いもしなかったであろう。「逃げ恥」の存在を知っていたかもわからない。
不思議な導きにより、ドラマがいっそう盛り上がってしまった。でも駆けつけてきたときの星野源の顔は平匡さんとは程遠く、「地獄でなぜ悪い」(園子温監督)のときのようにクレージーだった。



 ひとの真の値打ちは時が決める 


サプライズ登場のダメ田十勇士(YouTubeでの「真田丸」宣伝用ドラマの登場人物たち)にも茶々(竹内結子)にも源次郎信繁(堺雅人)が語るのは、「生きよ」ということだ。
宣伝映像のダメ田十勇士は死ぬことを考えているが、本編では生きる方向性に変えたと吉川プロデューサーはいう。


皆に生きる希望を与えた信繁だったが、戦いに出向く前、内記(中原丈雄)には本音を吐露する。

信繁「わたしは わたしという男がこの世にいた証を何か残せたのか」
内記「ひとの真の値打ちというものは己が決めるものではございません」
信繁「誰が決める?」
内記「時でござる。戦国の世に義を貫き通し、徳川家康と渡り合った真田左衛門佐幸村は日の本一のつわ者として語り継がれるに違いありません」
信繁「どんな終わりを迎えても?」
内記「大事なのはいかに生きたかでございますゆえ」

この人生の関する問答が、ドラマの最後の最後のナレーション「これより七年後、真田信之は松代藩十万石の大名となった。そして幕末、松代藩は、徳川幕府崩壊のきっかけを作る、天才兵学者 佐久間象山を生み出すことになるのだが、それはまだ先の話である」に見事に繋がっている。
1615年、大坂夏の陣で、1573年の三方ヶ原の戦い(昌幸が家康を追い詰めた。4話でその因縁が語られている)以来、徳川をぎりぎりまで追い込んだものの志半ばで倒れた幸村だったが、彼の行いは未来(佐久間象山)をつくった。
昌幸仕込みの喧嘩殺法で追手を倒しながらも、もはやこれまでと覚悟し、切腹するとき、家族たちに思いを馳せる源次郎信繁は、りっぱに家族や仲間を守ったのだ。

結果、亡くなってしまう茶々にしても、これまでずっと死に取り込まれていたのが、最後の最後、秀頼(中川大志)に「“勝て”とは言っておらぬ。“生きよ”と言うておる」「望みを捨てなかったもののみ、道は開けるのです」と前向きに語りかけ、49話の江とは違う領域に行ったことを感じさせる。そのときの顔は、いまだかつてない晴れ晴れとしたもので、竹内結子が鮮やかに変化を演じた(メイクも違うのかも)。


勝ち負けではない、生きることとはこの瞬間に結果が出るとは限らない。時間をかけて、のちのち芽が出ることもあるという、じつに美しいまとめになっているが、その象徴・佐久間象山は、三谷幸喜が最初に書いた大河ドラマ「新選組!」(04年)でも重要な役割を果たしていた。「新選組!」の第1話、石坂浩二演じる佐久間象山は、黒船を近藤勇(香取慎吾)たちが見に行ったときに出会い、含蓄ある台詞を語る。彼の死に方も未来を考えているもので、29話で暗殺される際の言動は極めて興味深い。

最後のナレーションは、「新選組!」をもともと愛していたファンは改めて振り返ることができ、未見の者もここで12年前の作品に目を向ける可能性を開く最後の一撃となった。
「真田丸」は「新選組!」のリベンジだったと制作側が語っているが、時代考証と創作のバランスがこれまでの大河ドラマとは違ったため理解されにくかったことを、12年を経て、新しい試みは、時が経てば受け入れられることをみごとに証明してみせた。


三谷は「ニセ物が本物以上に活躍する話」が好きだという。「真田丸」がはじまった頃、日の本一のつわ者の“任”ではない男・幸村が、本物のつわ者になっていく話になるのだろうと感じていた。もちろんそうではあったけれど、幸村以上に「真田丸」自体がその象徴だった。
「真田丸」は史実に基づいた話ではあるが、ノンフィクションやドキュメンタリーではなく、ドラマである。だが、事実をベースに創意工夫が施された人物の言動が、まるで実在の人物のように見えて、本気で泣けてきてしまう、愛おしく見えてしまう瞬間が「真田丸」にはいくどもあった。もはや史実か創作かなんか関係なくなってしまう瞬間が。
セルフパロディや仕掛けなどもふんだんに盛り込みつつ、徹底して王道の娯楽世界だったことが、1年間、視聴者を思う存分楽しませた。

三度目の大河ドラマを書きたいと三谷幸喜は語っているが、その前に、ぜひ朝ドラを書いてほしい。
「新選組!」で女性が大河ドラマを楽しむ習慣をつくった三谷が、今回も、女性が共感できる女性をたくさん書いていた。
名前がなく、誰々の娘”とか“誰々の妻”もしくは“母”という役割でしか呼ばれない女たちを、そういった状況から解き放つことが僕の仕事だと思った、という三谷の談話
は、朝ドラにピッタリではないか。「サザエさん」の脚本も書いていた三谷幸喜だから、ぜひ朝のホームドラマもお願いしたい。
その話でいくと、妻にもならず、子供も産まなかったきりの生き方が徹底的に肯定されたことこそ、「真田丸」の最たる意義だった。
さらに言えば、役割でしか見ないということは、歴史ではこうだったと決めつけてそこから一歩も出られないことだ。史実で決められてしまった正義や悪などの役割から人物を解放し、ひとりひとりの“生”の可能性を掘り下げることが、「新選組!」からはじまって、「真田丸」でさらに深まって、創作が本物に見事に肉薄した。

最後に、「真田丸」が盛り上がったのは、三谷をはじめとした制作スタッフの力ももちろんながら、NHKの広報スタッフの方が、メディアを含み視聴者が発信することに関しての制限をかなり解除していたことも要因だろう。エキレビ!のレビューにも写真を貸してくださったことを感謝する。