9連敗も故障者が復活すれば大丈夫!? 90年代ヤクルト「ガラスのエース」を振り返る
◆ 『俺たちの時代』を語りつくそう〜90年代ヤクルト「ガラスのエース」ランキング〜
今季、開幕時は好調なスタートをきったヤクルト。だが、5月に入って痛恨の9連敗を喫して大きく後退した。この間、すべての試合で先発した投手に負けがついており、改めて先発の重要性を考えさせられた。
ヤクルトといえば、1990年代は野村克也監督による「ID野球」の全盛期。1992年にセ・リーグ優勝を果たすと、1993、1995、1997年と3度日本一に輝いた。だが、戦力的に万全だったか? と問われたら、捕手の古田敦也を中心に、飯田哲也、池山隆寛、広澤克実、宮本慎也などハイレベルな野手陣が揃う一方、投手陣は質こそ高かったものの故障者が多く、やりくりに苦労していた。
そこで、今回はそんな90年代ヤクルトの「ガラスのエース」をランキングで紹介したい。現在も館山昌平や由規、村中恭兵など、主力級が一軍にいないヤクルトだが、過去の歴史を振り返ることで、今後に希望を抱きたい。
◆ 古田敦也大絶賛の超高速スライダーを誇った伊藤智仁 川崎憲次郎は90年代中盤故障に悩むも1998年に最多勝
さて、まず第1位は、今や伝説の域になっている伊藤智仁とした。1993年のルーキー時代にシーズン前半で7勝(2敗)を稼ぎ、防御率は0.91。そして、数字以上に語り継がれているのが、曲がりの大きく、かつスピードも抜群だった超高速スライダーである。なにしろ、プロの一流打者でさえ避けたボールが「グイーン」と曲がって「ストライ〜ク!」となるのだから驚愕このうえなかった。しかし、残念ながら伊藤はヒジを故障をして戦線を離脱。のちに肩も故障し、ファンはリリーフとして本格復活する1997年まで待たねばならなかった。その後は再び先発に戻るなど1999年までは頑張っていたが、その年のオフに肩を手術。以降は懸命な努力も実らず2003年を最後に現役を引退している。
続いて第2位は川崎憲次郎だ。速球派の本格右腕として1991年に14勝してエースの座をつかんだが、その後故障に悩まされるようになり、年間を通して活躍できないシーズンが多かった。1998年にシュートを軸にして新境地を切り開いて17勝を挙げ最多勝を獲得したが、プロ通算88勝というのは思ったよりも少ない印象。2000年秋にFA宣言をして中日に移籍後、故障でほとんど活躍できなかったことも含め、もっと勝ち星を挙げてもおかしくない投手だった。
◆ 90年代救世主伝説となった荒木大輔 岡林の「奮投」には誰もが拍手を送った
さらに第3位は荒木大輔を指名した。どちらかというと80年代の活躍がメインのため、順位は控えめの3位にしたが、「ヤクルトの投手→故障→リハビリ」と連想しがちなのは、荒木の存在あってのことだろう。特に1988年に右ヒジじん帯の手術をした後、復帰を急いで無理をしたため再手術となり、その後は走り込みのし過ぎで椎間板ヘルニアに見舞われるという不運ぶりには、当時のファンは「なんと不憫な……」と涙を流したものである。
それだけに、4球団がひしめく大混戦となった1992年のシーズン終盤、4年ぶりに一軍に昇格したときの盛り上がりは尋常ではなかった。この年、ヤクルトは14年ぶりの優勝を果たしたが、荒木は間違いなく救世主であった。
そして、今回はどうしてももうひとり加えたかったので4位に突入。そう、岡林洋一の存在を忘れてはならない。1992年のシーズンは終盤からリリーフに回り、「もう代わってあげてくれ! 他に投げられる人はいないのか?」とファンが目を覆うほど投げまくった。そして、優勝を争う阪神との天王山の直接対決で突如先発に復帰して1対0の完封勝利を収めると、チームはその勢いでリーグ優勝。日本シリーズでは、1、4、7戦に先発してすべて完投。あと一歩およばず日本一は逃したが、その「奮投」ぶりを誰もが賞賛した。だが、この年の無理がたたったのか、岡林も他のヤクルトの「ガラスのエース」たちと同様に故障してしまい、完全復活とならぬまま2000年に現役を引退した。
実はこの4人以外にも、90年代のヤクルトには、西村龍次や高野光、さらに「ギャオス」こと内藤尚行など、故障で戦列を離れた印象が残る投手が多い。だが、このうち何人かがうまく揃ったときは強力なチームとなり優勝している。シーズンはまだ長い。その間に館山や由規、村中らが復活すれば……。今年のヤクルトだって、突如90年代のような大躍進を見せる可能性は否定できないだろう。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)
今季、開幕時は好調なスタートをきったヤクルト。だが、5月に入って痛恨の9連敗を喫して大きく後退した。この間、すべての試合で先発した投手に負けがついており、改めて先発の重要性を考えさせられた。
ヤクルトといえば、1990年代は野村克也監督による「ID野球」の全盛期。1992年にセ・リーグ優勝を果たすと、1993、1995、1997年と3度日本一に輝いた。だが、戦力的に万全だったか? と問われたら、捕手の古田敦也を中心に、飯田哲也、池山隆寛、広澤克実、宮本慎也などハイレベルな野手陣が揃う一方、投手陣は質こそ高かったものの故障者が多く、やりくりに苦労していた。
◆ 古田敦也大絶賛の超高速スライダーを誇った伊藤智仁 川崎憲次郎は90年代中盤故障に悩むも1998年に最多勝
さて、まず第1位は、今や伝説の域になっている伊藤智仁とした。1993年のルーキー時代にシーズン前半で7勝(2敗)を稼ぎ、防御率は0.91。そして、数字以上に語り継がれているのが、曲がりの大きく、かつスピードも抜群だった超高速スライダーである。なにしろ、プロの一流打者でさえ避けたボールが「グイーン」と曲がって「ストライ〜ク!」となるのだから驚愕このうえなかった。しかし、残念ながら伊藤はヒジを故障をして戦線を離脱。のちに肩も故障し、ファンはリリーフとして本格復活する1997年まで待たねばならなかった。その後は再び先発に戻るなど1999年までは頑張っていたが、その年のオフに肩を手術。以降は懸命な努力も実らず2003年を最後に現役を引退している。
続いて第2位は川崎憲次郎だ。速球派の本格右腕として1991年に14勝してエースの座をつかんだが、その後故障に悩まされるようになり、年間を通して活躍できないシーズンが多かった。1998年にシュートを軸にして新境地を切り開いて17勝を挙げ最多勝を獲得したが、プロ通算88勝というのは思ったよりも少ない印象。2000年秋にFA宣言をして中日に移籍後、故障でほとんど活躍できなかったことも含め、もっと勝ち星を挙げてもおかしくない投手だった。
◆ 90年代救世主伝説となった荒木大輔 岡林の「奮投」には誰もが拍手を送った
さらに第3位は荒木大輔を指名した。どちらかというと80年代の活躍がメインのため、順位は控えめの3位にしたが、「ヤクルトの投手→故障→リハビリ」と連想しがちなのは、荒木の存在あってのことだろう。特に1988年に右ヒジじん帯の手術をした後、復帰を急いで無理をしたため再手術となり、その後は走り込みのし過ぎで椎間板ヘルニアに見舞われるという不運ぶりには、当時のファンは「なんと不憫な……」と涙を流したものである。
それだけに、4球団がひしめく大混戦となった1992年のシーズン終盤、4年ぶりに一軍に昇格したときの盛り上がりは尋常ではなかった。この年、ヤクルトは14年ぶりの優勝を果たしたが、荒木は間違いなく救世主であった。
そして、今回はどうしてももうひとり加えたかったので4位に突入。そう、岡林洋一の存在を忘れてはならない。1992年のシーズンは終盤からリリーフに回り、「もう代わってあげてくれ! 他に投げられる人はいないのか?」とファンが目を覆うほど投げまくった。そして、優勝を争う阪神との天王山の直接対決で突如先発に復帰して1対0の完封勝利を収めると、チームはその勢いでリーグ優勝。日本シリーズでは、1、4、7戦に先発してすべて完投。あと一歩およばず日本一は逃したが、その「奮投」ぶりを誰もが賞賛した。だが、この年の無理がたたったのか、岡林も他のヤクルトの「ガラスのエース」たちと同様に故障してしまい、完全復活とならぬまま2000年に現役を引退した。
実はこの4人以外にも、90年代のヤクルトには、西村龍次や高野光、さらに「ギャオス」こと内藤尚行など、故障で戦列を離れた印象が残る投手が多い。だが、このうち何人かがうまく揃ったときは強力なチームとなり優勝している。シーズンはまだ長い。その間に館山や由規、村中らが復活すれば……。今年のヤクルトだって、突如90年代のような大躍進を見せる可能性は否定できないだろう。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)