■大きなサプライズとなったFW巻誠一郎の加入

「アーンド、ムァキ」

2006年のドイツW杯に臨む日本代表メンバー発表の際、当時監督を務めていたジーコの口から発せられたこのセリフが、1月15日に熊本県庁で行われたロアッソ熊本の新体制発表会見の席で再現された。

小野剛新監督以下、新加入選手が順に名前を呼ばれ、1人ずつステージ上に現れる。最後に名前をコールされて舞台袖から登場したのが、他の選手よりもひときわ引き締まった表情の巻誠一郎だった。シーズンシート購入者やファンクラブ会員の中から抽選で招かれた約300名のサポーターからも、驚きの声があがる。メディアにも事前のリリースは一切流されておらず、まさしく登場のタイミングでのクラブオフィシャルアカウントからのツイートが“第一報”となった巻の電撃移籍である。

今シーズンのユニフォームの背中に熊本県のキャラクター「くまモン」が入ることになったニュースと合わせ、大きなサプライズとなったわけだが、この会見のためにあえてリリースのタイミングをはかっていた、というわけではなかったらしい。

昨シーズン後半に監督代行を務め、今季から社長職に復帰したアスリートクラブ熊本の池谷友良社長が、「数時間前までは(新加入は)11人でしたが、なんとか契約にこぎつけ、12人の選手を新たに迎えることができました」と発表会の冒頭で話した通り、契約がまとまったのは、本当に同日午後のことだったという。

■看板ではなく、純粋に必要な戦力として

巻に関しては、千葉在籍時代から、熊本はシーズンオフのタイミングで(実際に具体的な交渉を進めたかはておき)獲得の意思表示をした経緯がある。

その当時の状況を振り返ると、「観客を呼べる選手、チームの看板となる選手を」という意図が大きかったのは事実であり、「オファーするのはタダ」というスタンスで、話題づくりの側面があったことも否定できない。しかしその後、熊本には南雄太(今季から横浜FCに移籍)、藤本主税、北嶋秀朗と、元日本代表の選手がほぼ毎年、立て続けに加入しており、過去に「フラれ続けた」背景もあって、「是が非でも巻の獲得を」という機運は県内でも徐々に沈まってきていた。

そうしたこともあり、「なぜ今か」という疑問を抱く向きも確かにあるのだが、今シーズンのチーム編成を踏まえると、当時よりも今回の方が、純粋に戦力としてフィットする可能性は高い。

巻の加入が発表されるまでの編成では、前線でボールを納めるポストプレーヤー、ゴール前で勝負できるストライカーがいない状況だった。

「キタジ(北嶋秀朗、今季からトップチームアシスタントコーチ兼アカデミースタッフ)が引退して、前で身体を張れるタイプのFWにあたってはいたんです。ただ、小野監督のラインで出てきた中国人選手は向こうのクラブの条件でダメだったし、ウーゴ(昨シーズン夏以降に加入)も金額的に折り合いがつかずに話がまとまらなかった。そうした状況で、昨年末に小野監督の口から直々に彼の名前が出てきた。それならクラブとしても取りに行くということで、年明けから複数回、直接会った。だからホント、話がまとまったのは昨日の午後なんですよ」

大仕事を終えた翌日、練習場で顔を合わせた飯田正吾強化部長は、少し疲れた表情でそう話した。

つまり、決して話題作りのためでも観客を呼ぶためでもなく、小野監督が目指すサッカーを実現するため、また中盤の選手達が持つ能力を最大限に発揮する上でも、前線で泥臭く仕事ができる巻誠一郎というFWが必要だとクラブが判断したということ。今までなかなか結ばれなかった双方にとって、ベストのタイミングだったのである。

■平均年齢で3歳若返り、地元出身選手が3割を超える編成に

「僕が熊本に帰って来て、『故郷に錦を飾る』というイメージを持っている人もいるかもしれません。でも実際にはそうではなく、熊本にロアッソ熊本とサッカーを広めるために、本気でJ1に上がることを目指したい。個人的にも、もう1度サッカー選手としての価値を上げたい、そんな強い意思を持って帰ってきました」

そう話した巻の加入は、今年の熊本のバズルを完成させるために必要な、最後の1ピースなのだ。

サイドバックを含めた最終ラインはやや層の薄さを否めないが、中盤から前は意外に充実している。経験豊富でゲームを落ち着かせることができる藤本主税、昨シーズン大きく成長した仲間隼斗と齊藤和樹、日本でのプレーも6シーズンめを迎えたファビオと、軸となる選手は残った。そこへ、札幌でも決定的な仕事をしてきた岡本賢明、さらに新卒では中大から澤田崇、流通経済大から中山雄登と、高さこそないもののスピードやモビリティに長けた、キャラクターの際立つ選手が加わっている。巻の働きで前線に起点ができれば、こうした選手達の良さをさらに引き出すことができると小野監督も見ているわけだ。

加えて、今シーズンの陣容では登録選手32名のうち熊本県出身選手が11名と実に3割以上を占めており、「日本一、地域に根ざしたクラブを目指す」という方向性がチーム編成にも表現されたと言える。巻は言わばその象徴であり、また昨シーズンから平均年齢で3歳ほど若返ったチームを精神的に引っ張る役割も期待されるだろう。

各チームが効果的な補強を進める中でやや地味な印象もある熊本だが、今シーズンも激戦となるJ2で、小さくないサプライズを起こす可能性は十分にある。

■著者プロフィール
井芹貴志

1971年生まれ。大学卒業後、情報誌の編集に11年携わり、2005年よりフリー。九州リーグ時代から熊本を取材し、「J's GOAL」「週刊サッカーダイジェスト」「エルゴラッソ」などで熊本を担当。