ヒサシ・イワクマがマリナーズのユニフォームを着たのを初めて見た時、私たちは似た状況で表彰台に上がる人たちを思い出した。私たちは、笑顔と興奮を見た。イワクマの場合、おそらく私たちは少しの安堵も見た。

昨年は、イワクマにとって想像を絶する浮き沈みでいっぱいだった。彼はオークランド・アスレチックスとの交渉が破談になり傷心で日本に戻り、地震と津波の悲劇が彼がプレーするチームの町を襲い、3人目の子供の誕生に喜び、最後にはジャック・ズレンシックと夕食を共にし、求められていると感じた。その12ヶ月の浮き沈むを説明するには、これでも不十分だ。

「本当に大変な年だった」彼はシアトルで家探しをした翌日に言った。「地震と津波の事は忘れることはできない。この一年は本当にたくさんのことが一度に起こったけど、その最後でマリナーズと契約できた。だからそれは僕にとって新しいチャレンジだ。僕はその新しいチャレンジが楽しみだ」

メジャーリーグに適応するというチャレンジがどれくらいのことなのかを、これから数ヶ月私たちは見ることになる。例えチャレンジがどれくらいか判明しても、イワクマはなぜ野球をするのかを見失うことは無いだろう。彼にとって、それは楽しいことなのだ。

「野球は僕にとって大切だし、僕はいつも楽しんでいる」イワクマは言った。彼は父の影響を受けて、そのスポーツを見るようになった。

「僕は自然とテレビで野球を見るようになって、それがたまたま父と一緒だった。それが僕が野球を好きになった理由」彼は言った。「僕の父は、野球が大好きなんだ」

彼は小さい頃に投手になると決めた。彼の野球のヒーローは、ヒサノブ・ワタナベ、80年代後半に西武ライオンズで活躍し、彼の大試合での投球は有名だ。

「僕が覚えているのは、彼はとてもダイナミックで強くでパワフルな投手。僕はそれに夢中になった」イワクマは言った。

彼は、高校3年時にスカウトの目に止まった。それ以降、彼はプロになることを考えるようになった。彼は、1999年にドラフト指名され2001年の5月29日にデビューした。その時の彼は、全く違う投手だった。

「僕の武器は初めは速球だったけど、学んだ投球は、内角や外角、高めや低めに投げることだった」彼は言った。「長いイニングを投げるために、球数を抑えてカウントを稼ぐことを学んだ。それが野球の魅力的なところ」

イワクマは”シュート”を投げる。それは彼によれば、基本的にツーシーム・ファストボールかシンカーだ。それは彼が普段の投球で最も多く投げる球だ。

「シンカーには自信がある。僕がシンカーを投げると多くの人は思っていないけど、僕の感覚ではいつもファストボールが沈む感じだ」彼は身振りをしながら言った。「バッターが振って、球が転がれば、(ブレンダン・)ライアンのところに飛んでいく」

イワクマはこの週末に開催されたファン・フェストでライアンと会い、しばらく一緒にいた。ライアンはチームメイトを見て、彼の言葉で言えば”とても打ち解けやすくて、精力的で、熱心で、楽しい”と言った。 繰り返す、楽しい。それは彼と彼の野球人生にとって当然で重要なことながら、昨シーズンの日本では失われたものだった。

イワクマの日本のチーム、楽天ゴールデンイーグルスは海に近い仙台が本拠地で、昨年3月に東日本を襲った地震とそれに伴う津波で被害を受けた。イワクマは地震の時、400マイル離れた明石にチームと一緒にいた。日本の野球シーズンの開幕は3週間遅れ、イワクマはその開幕戦で投げた。

「それは僕とチームにとって大きな事だった」彼はその経験について言った。「僕は自分の町にとても責任を感じた。なぜなら僕たちは、地元のために試合に勝つことが目的で一緒に集まっているから。チームとして出来るのは、それが全て。野球選手としても同じ。僕たちは、僕たちの全てと勝利を地元に捧げるために、プレーをしているんだ。僕たちの町が前に進むのを手伝って、お互いに笑顔でいる、それが僕たちが考えていた全てのこと」