今年のJFLは12月11日の試合で終了となり、最終的な上位の順位は優勝がSAGAWA SHIGA、2位が長野パルセイロ、そして3位に町田ゼルビア、4位に松本山雅となり、Jリーグ準会員である町田と山雅の2チームはこれで昇格条件をクリアしたことになり、Jリーグ理事会にて新規加盟が正式に承認され、晴れてJリーグ(J2リーグ)の一員となった。そしてこの2チームがJFLを卒業すること、さらにはジェフリザーブスが今季限りで活動を停止するため、JFL側の空きが3枠となり、リザーブスを除いた17チームで最下位となるソニー仙台も正式に残留決定、そして全国地域リーグ決勝大会で優勝したY.S.C.C、そして準優勝の藤枝MYFCだけではなく、3位のHOYOもJFLへ自動昇格となることが決定した。


さて、今回とりあげたいのは松本山雅FCである。


JFL昇格2年目にして、ついに念願のJリーグ昇格(新加盟)を決めたこのチーム。
人の死を話題にするのはあまり好きではないが、多くのメディア的には「松田直樹さんのためにも…」的な表現もあるが、私はこのチームがここまで来たのは松田直樹の力があったから今の順位で終えたとは思ってはいない。当然、松田直樹さんの急死がチームの結束力を高め、そして「マツさんのために結果を出す」という選手の想いがあったことは間違いない。ただ、それは今年の後半戦3ヶ月程度の話。


では、松本山雅というクラブは何が原動力となってここまで来た(成長した)のか?


それは松本にあるクラブを夢の舞台(Jリーグ)に導きたいという、サポーターや支援する人たちの想い、そして最大のライバルでもある長野パルセイロというクラブの存在がこのチームを強くしていったと思っている。


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明確にJリーグを目指すと決めた2005年当時、まさかここまで大きなクラブになるとは思わなかった。当時のカテゴリーは北信越リーグの2部。初めて松本山雅というチームを見たのは、この年の天皇杯長野県予選準決勝であり、相手は後に最大のライバルとなる長野エルザ(現パルセイロ)だった。


山雅を見ようとしたきっかけは中井大悟である。


最近、山雅のサポーターになった方からすれば誰? といったところからもしれない。在籍したのはこの年だけだったから。ただ、彼は元ザスパ草津の選手ということもあり、彼のプレーを見ようと長野まで出かけたのだが、試合は3-1でエルザが勝利し、やはり1部と2部ではまだまだ力の差があるな… と率直に感じた。


しかし、ただ一つ驚いたのは松本山雅のサポーターの数だった。この当時でも別に地域リーグや県リーグクラスでサポーターがいることは別に珍しくはなかったが、その数は地域リーグ2部クラスのチームとしては別格だった。JFLですら、50人近くのコアサポーターがいるチームが少ない時代だったのに、すでに山雅はこの当時からそれぐらい、もしくはそれ以上のコア住民が存在しており、これは将来的に「化ける」かもしれないと予感させた。


そしてクラブだが、地元にJクラブを熱望するサポーターの後押しを受け、この前年にあたる2004年にアルウィン・スポーツプロジェクト(ASP)を立ち上げ、クラブの基盤整備を行いながら正式にJリーグ昇格を目標に定めていく。さらに現場の強化も図るため、2005年からはG大阪や水戸でプレーした辛島啓珠氏を監督に迎え、Jリーグ経験者を補強するなど積極的な補強策も打ち出していく。結局、2005年は天皇杯出場こそ逃したものの、北信越2部リーグで優勝を果たし1部昇格を決め、後に「無駄に熱いリーグ」と呼ばれる北信越4強(松本山雅、長野パルセイロ、ツエーゲン金沢、JAPANサッカーカレッジ)時代がスタートしていくこととなる。


さて、あの天皇杯予選で見せた「熱いもの」が本物であることを、2006年の開幕戦でしっかりと見せつけることとなる。ライバルであるエルザと開幕戦で対戦した山雅。今では「クラシコ」の影響もあり、全国的な知名度を得るようになった信州ダービーだが、この試合こそ原点となった試合でもあり、アウェーの地(南長野)でありながら、オレンジの数を圧倒した緑の波に驚きを感じるだけではなく、2部時代とはまったく違う「強い山雅」を見せつけることに成功。そしてこの後の山雅は、ライバルのパルセイロとの対戦では無類の強さを発揮していく。


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しかしだ、2006年の北信越リーグで優勝を果たしたのはJAPANサッカーカレッジ(以下JSC)。そして地域決勝に出場したJSCだが、決勝ラウンドに残ることが出来ず、翌年(2007年)の地域決勝での北信越枠はまたも「1」のままとなってしまい、たった1つの枠をまたも4強で争うこととなる。


さて、辛島体制3年目となり、一つの節目になると思われたこの年から、ライバルであるエルザは現在のチーム名である「パルセイロ」に変更し、監督にあのバルディエール・バドゥ・ビエイラ氏を監督に招聘。またツエーゲンも池田司信氏を監督に招聘するなど、それぞれのチームが活発な補強策を打ち出していくなかで、山雅は他チームほど目立った補強は無かったものの、片山真人いった即戦力となる新卒選手を獲得し、昨年からの堅守速攻の形に磨きを掛けてきた。


チームの精神的支柱でもあった土橋(現パルセイロ)や白尾といったJリーグ経験者と若い選手の力が見事にかみ合い、この年に山雅は北信越リーグを制してついに地域決勝の舞台に立つこととなる。また、この年の地域決勝の舞台はホームでもあるアルウィンであり、完全ホームで戦える山雅にとってはこの上ない会場であった。また、この大会の会場に立候補した県協会のやる気、熱意に対して山雅は勝利で応える必要があったのだが、あの運命の第3戦のMioびわこKusatsu戦で手痛いでは済まされない敗北を喫し、まさに「北信越リーグ全体」が敗れた日となってしまった。


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あの試合、前半立ち上がりにガチャが決定機を迎えたが、あの場面で決まっていれば大きく歴史は変わっていたかもしれない…


一次ラウンド敗退を受け辛島監督はチームを去り、そしてガチャはJ2岐阜へ「個人昇格」していくこととなるのだが、あの場面でゴールが決まり、山雅が勝利していれば上でも記したが大きく歴史は変わっていたはずであり、仮に2007年の大会でチームがJFL昇格していたらガチャの移籍はなかったかも知れない。そして辛島体制がもう一年続いていたかも知れない。さらにもっと言ってしまえば、もう少しJ2昇格が早まっていたかも知れない。だが、あそこで敗れたことが結果的にガチャは貴重な経験をしてチームに帰ってくることになるし、松田直樹の加入へと繋がっていく。


また、あの時点でスムーズに行かなかったからこそ、後の「山雅劇場」と呼ばれる劇的な展開の多いチームになっていったのかも知れない。山雅劇場という言葉には、いい意味も悪い意味も含まれているが、時として心臓に悪い試合もいくつもあったが、その反面で記憶にいつまでもの残る劇的な試合を演出してきたのである。よく言えば劇的。悪く言えば試合巧者ではない山雅。だが、そんな不安定さすら、サポーターを虜にするものだった。


チームは2008年も昇格に失敗し、チームにとって背水の陣で挑んだ2009年シーズンは序盤戦に不安定な試合が続いてしまい、早い段階で優勝争いから脱落。しかし、早い段階で脱落したことにより、チームは全社での敗者復活に照準を合わせてカウンター戦術をベースとした「負けないサッカー」を大会に合わせて準備していく。


そして地域決勝の切符を賭けて挑んだ2009年の全社は、まさに北信越リーグのためのような大会となるのだが、この大会でも大きな力となったのは、大黒柱である柿本倫明の活躍でもなく、吉澤英生監督の采配でもなく、1回戦、2回戦を除けば平日の昼間という通常では応援に駆けつけるのに困難な日程であり、さらには松本から遠く離れた地である千葉県の市原市で行われているにも関わらず、どの試合でも100人以上のサポーターがチームの熱烈な声援だった。


2回戦のFC岐阜second戦や、ベスト8の日立栃木(現栃木ウーヴァ)戦などは、敗戦を覚悟しなければならないほど紙一重の試合であったが、どの試合でも絶大な声援がチームを後押しし、松本山雅というチームは苦しい場面でも心が折れることは無かった。


そして迎えた準決勝。この試合こそ松本山雅というチームの歴史上、もっとも大一番となる試合であった。


この大会でベスト4に残った4チーム全てが地域決勝の出場権を持っていないチームが揃い、決勝に進出しない限り出場権を得られないこととなったのだが、山雅の相手は最も負けたくない相手であった長野パルセイロだった。


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組み合わせが決まった時点から、準決勝で当たることはわかっていたが、いざ実際にそうなるとやや複雑な心境となる。山雅もパルセイロもどっちにも上(JFL)に行ってもらいたいという気持ちはあるが、この組み合わせが決まったときから、どちらかに「死」が待っていたのである。


地域決勝への出場権を賭けた大一番の相手が、永遠のライバルであり、最も負けたくない相手となった両者。結果は山雅の完勝で終わり、地域決勝への切符がもたらされたが、敗者であるパルセイロはバルディエール・バドゥ・ビエイラ監督との別れを選択することとなる。


それにしても、山雅がここまで強くなった裏には、切磋琢磨するライバルたちがいたことを忘れてはいけないだろう。JAPANサッカーカレッジ、ツエーゲン金沢、さらに長野パルセイロ。これらのチームが凌ぎを削ったからこそ、山雅というチームは強くなれたし勝負強くなることが出来たのである。


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そして運命の地域決勝だが、最大のライバル・パルセイロを破った山雅に敵はいなかった…


また、決勝ラウンドの地が再びアルウィンであったことも山雅に追い風となり、地域一熱いサポーターが全試合で完全ホームの状況を作り上げ、それに対してチームは優勝という最高の答えを出し、ついにこの年にJFL昇格を決めたのである。


松本山雅というチームを強くしたのは、「夢は叶うもの」という思いを持ち続け、チームをサポートし続けた素晴らしいサポーターのおかげであることは間違いない。2006年から本格的に「上への挑戦」が始まった山雅だが、結果的に3年連続で上がれず2009年シーズンも北信越リーグでは4位に終わっていた。しかし、選手以上に「諦めない心」を持ち続けたサポーターは、結果を出せないチームに愛想を尽かすどころか、年々サポーターを増やし続けてきた。そして彼らの熱き声援をバックに、結果は出せなくともチームは成長を続け、毎年のように規模も大きくなっていった。


Jリーグでなくとも熱いチームがここにある。
今、チームが弱くても、サポートし続ける熱いハートがあればチームを強くしていくことが出来る。
そして夢は叶うもの
地域的ハンディがあっても、信じる心を持ち続けていけば道は切り開ける


クラブが主導してJを目指したのではなく、地域の盛り上がりから頂にたどり着いた山雅。そんな熱きサポーターの声(力)があったからこそ、松田直樹さんもこのチームに惹かれていったのであろう。


また、山雅サポーターの活動はホームタウンである松本市だけではなく、塩尻や諏訪といった近隣市町村から、伊那や飯田といった「南信地方」まで活動の範囲を広げ、「山雅熱」を縦に長い長野県の南の方まで広げている。このように、サポーター主導の草の根活動の広がりが支援の輪を広げ、クラブ、チームをサポートする人を次々と増やしているのだが、ただサッカーファンや山雅ファンを増やしているだけにとどまらず、地域同士の繋がり、そして世代を超えた人々が交流するコミュニティーとなるなど、サッカーを愛する、山雅を応援するという枠を超え、サッカーから始まる新しい文化交流の場にもなり始めている。


このように、世代や地域の枠を超え、多くに人が一つになれるツールとして存在感を増して行っている松本山雅。


さて、ついに来年からJリーグの舞台に立つこととなるのだが、いきなり現場(チーム)が結果をだすことは難しいと考える方が無難。だが、日本一熱い地方クラブの「サポーター力」を、ぜひとも先輩Jクラブに見せつけて欲しいところである。まだアルウィンのほとんどが空席だった時代でも、熱い声援をチームに送り、これは近い将来、日本のサポーター文化を変える存在になれると感じたサポーターの力がさらに発展していくことをぜひとも願いたい。


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このクラブをJまで導いたのは、これまで歴史を築いてきた多くの選手たちの力であることは否定しない。しかし、クラブを熱烈にサポートしてきたサポーターの力を抜きにして、今回の昇格決定を語れないと思うのだ。そして山雅に続けとばかりに、地方からJの舞台を目指すチームがどんどん出てきて欲しいと感じるところでもある。そして、山雅の永遠のライバルである長野パルセイロが1年でも早くJの舞台にたどり着いて欲しいほしいと思うのだ。


今、日本のダービーマッチでは「さいたまダービー」や「静岡ダービー」「大阪ダービー」などいろいろあるが、Jリーグの舞台で信州ダービーが実現すれば、本当に日本一のダービーマッチになっていく可能性は大だと感じている。やはり、互いを刺激しあえる存在は、同じカテゴリーにいてほしいものであるし、もっと全国の人にこのダービーマッチのおもしろさを知って欲しいと思うのだ。


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まあ、話がややそれてしまったが、松本山雅というクラブに関わるすべての人(応援する人も含めて)に、心からJリーグ昇格(新規加盟)おめでとうございますと言いたい。そしてチームがより高い頂(J1カテゴリーやアジア王者)にたどり着くことを祈っております。