■CD販売が停止、ドラマは放映中止、映画は代役に……

ミュージシャン・俳優のピエール瀧が2019年3月12日にコカイン事件で逮捕されて以来、各方面に影響がおよんでいる。

ソニーミュージックは瀧の所属する電気グルーヴのCDの販売や楽曲の配信を停止、店頭在庫も回収という措置をとった。出演中だったNHKの大河ドラマ『いだてん 東京オリムピック噺』も、逮捕直後の再放送では瀧の出演シーンがカットされ、NHKオンデマンドの配信も一時停止された。

『いだてん』や、公開を控えていた出演映画『居眠り磐音』では代役が立てられ、撮り直しが決まったが、一方で映画『麻雀放浪記2020』は瀧の出演シーンもそのままで予定通り4月に公開すると発表されている。

芸能人の不祥事による活動自粛はこれまでにも何度となく繰り返されてきた。そのたびにテレビをはじめメディアは対処に追われている。ここでは芸能人の活動自粛について、いくつか過去の事例をあげながら、メディアの対処などがどう変化してきたかを見てみたい(なお、文中にあげた過去の不祥事について、原則として芸能人の実名は出さないことにした。ただし、場合によっては具体的な名前を出さないと説明しにくいものもあるため、そこでは実名を出させてもらった。その点あらかじめお断りしておく)。

2017年11月14日、「めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT〜輝け、いのちの樹。〜」の記者会見に出席した歌手の槇原敬之さん(写真=時事通信フォト)

■漫才師の横山やすしは2年間、一切の活動を自粛

芸能人が不祥事で活動を自粛するケースはすでに1960年代から見られる。その理由は賭博や交通事故、わいせつ事件などさまざまだ。なかには、1968年に恐喝事件を起こした関西のコメディアンのように、その後復帰できないまま借金苦のなかで死去した例もある。

1970年には、漫才師の横山やすしが飲酒・無免許運転で接触したタクシーの運転手を殴打し、翌年、暴行傷害と道交法違反で懲役3カ月・執行猶予2年の判決が下る。事件後、やすしの所属する吉本興業は彼を謹慎処分とし、テレビ出演のほか、劇場出演も地方営業も、執行猶予中の2年間、一切の活動を自粛させた。いまから見ても、かなり厳しい処置である。

吉本興業は、所属芸人への給与支払いをいち早く導入するなど、興業の世界では早くから近代化を推し進めてきた。やすしへの処分はその表れともいえる。また、従来、芸能界は一般社会とは隔絶した世界として扱われる傾向が強かったのが、テレビの普及にともない、芸能人がより身近な存在となり、一般人と同じ倫理観や遵法精神が求められるようになっていたことは間違いない。

■弟の逮捕で美空ひばり本人が紅白不出場に

不祥事とはやや異なるが、1972年に歌手・美空ひばりの弟が暴力行為で検挙、翌年には賭博容疑で逮捕され、ひばりの公演が全国各地の公共施設から次々に締め出された。公演の出演者の一人として弟が名を連ねていたのがその理由だが、やがて弟とは関係のないひばり個人のテレビ出演にも影響がおよび、1973年末のNHKの紅白歌合戦は不出場となる。

ひばりの弟の検挙・逮捕には、当時、警察庁が暴力追放キャンペーンの一環として、芸能人や興業関係者に対し、暴力団との関係を絶つよう指導を行っていたという背景があった(本田靖春『戦後 美空ひばりとその時代』講談社)。

その後も、不祥事で芸能人が活動を自粛する事態はたびたび起こった。1976年には、ある歌手が愛人を殺害した事件を受け、レコード会社が彼のレコードを回収し、廃盤にしている。ただし、本人が活動をとりやめるだけでなく、その作品にまで措置がとられるケースは当時としては異例だった。

1977年に、大麻事件で歌手などがあいついで摘発されたときには、ある歌手のレコードがヒットチャートで急上昇したということもあったらしい。ただし、テレビやラジオでは、有罪が確定した歌手については当分のあいだ出演はもちろん、レコードもかけないとの方針がとられた(『女性セブン』1977年11月10日号)。

■「テレビ局側がまだまだ商売になると判断したから」

もっとも、自粛期間はケースによってまちまちであった。先の大麻事件では、処分は同じ起訴猶予でも、半年足らずで復帰した者もいれば1年かかった者もいた。

1981年には、当時の人気グループ、ザ・ドリフターズのメンバーが賭博で摘発されたが、1カ月の謹慎で復帰した。このとき、ある雑誌が「芸能人 罪はいつどうして許されるのか?」と題する記事を掲載している(『新鮮』1981年5月号)。記事中には、ある芸能プロのマネージャーの発言として、《ドリフの復帰が早かったのは、彼らの人気は今がピークだし、テレビ局側もまだまだ商売になると判断したからですよ》とのコメントが出てくる。

「復帰が早かったのは、テレビ局側がまだまだ商売になると判断したから」とは、何ともミもフタもない。しかしこの指摘が核心を突いていたことは、それから5年後、1986年12月に起こったビートたけしによるフライデー事件後の、テレビ各局の対応が図らずも証明する。

これは、ビートたけしが写真週刊誌『フライデー』の取材姿勢に抗議して、1986年12月9日未明、弟子のたけし軍団のメンバー11人を率いて同誌編集部で暴行を働き、傷害の現行犯で逮捕されたという事件だ。この事件のあと、テレビ局の対応は一転二転する。

■「フライデー事件」ではビートたけしの出演番組はほぼ続行

事件の翌日には、所属事務所がたけしを当分のあいだ芸能活動も発言も自粛させると発表した。だが、テレビ各局はたけし出演の番組続行の意向を早々に表明し、すでに収録した番組については、収録日をテロップで明示したうえ、あいついで放送する。

結局、放送が中止されたのは、事件当日の再放送分などごく一部にとどまった。テレビ各局には、逮捕されたら出演を辞退してもらうという基準があるなか、異例の対処といえる。

フライデー事件直後のテレビ各局の対応をまとめた新聞記事(『朝日新聞』1986年12月15日付夕刊)では、在京民放各局の編成部長のコメントが掲載され、ある局の部長は《たけしの行為には問題はあるが、フライデー側にも行き過ぎがあると考えている。たけし側も反省しているようだし、警察や世論にも、たけしに対して同情的な面もあるなど、各方面の情報を総合して判断した》と、番組続行の理由を説明した。

また別の局の部長は《今回は社会的にも、ある程度許容される部分もあるのではないか》と述べている。一方で、同じ記事では、あるテレビ局の幹部が「年末年始のたけしの出演番組は民放各社合計すると30本近くあり、すでに各局とも番組をスポンサーに売っているので、番組がつぶれた場合は大きなダメージになる」と説明し、テレビ界におけるたけしの存在の重さをうかがわせた。

■事件6日後の番組収録に参加するも、結局「半年謹慎」に

たけしの復帰も早く、事件から6日後の12月15日から番組の収録に参加した。この日、番組収録を行った日本テレビはその理由を、本人が現場に現れたので「事実上、謹慎を解いたもの」と判断した、と説明した(『朝日新聞』1986年12月16日付)。だが、これに対し批判が強まる。そのなかで当のたけしは同月17日から5日間、体の不調を理由に収録を休む。22日には、収録の再開を前に事件後初の記者会見を行った。

この会見中、復帰が早いとの声もあるがとの質問に、《ボクはしばらくの間、謹慎だと思ってましたが、局の要請もあったし、事務所サイドでもいろいろあわてふためいたので、どっちがどういう結果になるか分からないけれども、ビデオ撮りぐらいはやろうかなと思いました》と答えている(筑紫哲也監修『たけし事件 怒りと響き』太田出版)。

しかしこの発言は、テレビ局側の「本人が謹慎を解いたので出演させる」という発言と大きく食い違った。記者会見の翌日、フジテレビが一転してたけしの出演番組の収録と放送を当面のあいだ見合わせると発表。「捜査当局の処分が決まらない段階で出演するのは妥当ではない」というのが、その理由とされた(『朝日新聞』1986年12月24日付)。

これを受けてNHKを含む各局も追随する(ただしTBSはすでに収録した番組は放送する意向を示す)。こうしてたけしは、1987年6月、東京地裁で懲役6カ月・執行猶予2年の判決が下った直後に活動を再開するまで、半年にわたって謹慎することになる。

■CD販売停止は1999年の槇原敬之覚醒剤事件から

元号が昭和から平成に変わった1989年6月、美空ひばりが死去し、政府から国民栄誉賞を贈られる。かつて家族の不祥事により公共施設から締め出された歌謡界の女王は、死して昭和を代表する国民的スターに祀り上げられた。

同じ年の4月、横山やすしは、飲酒運転による事故を起こし、吉本興業からすべての契約を解除される。前月にタレントの長男の傷害事件による4カ月の謹慎からテレビに復帰したばかりだったが、謹慎中にも交通人身事故を起こすなど、不祥事を重ねた末の事実上の「懲戒解雇」であった。

平成の30年間には、芸能界や音楽業界で清浄化が進んだ。芸能人と暴力団の関係についても規制が強まり、判明した場合は厳しく処分されるようになった。2011年には、タレントの島田紳助の暴力団関係者との交際が発覚し、本人がけじめをとって引退する。多くのレギュラー番組を持っていた大物だけに、その決断は衝撃を与えた。

薬物事件で逮捕されたミュージシャンのCDの販売が停止されるというケースもあいつぐ。これは1999年の槇原敬之覚醒剤事件を機に定着したものといわれる。このとき、CDの出荷停止と店頭からの回収を決めたレコード会社は「社会的活動を行っている当社が、反社会的不法行為を犯した槇原の商品を出荷するわけにはいかない」と説明した(『朝日新聞』大阪版1999年10月4日付)。

■結局は「商品イメージを傷つけないため」の行動

不法行為ではないにもかかわらず、世間の批判を受けて活動を自粛するケースもたびたび起こった。

2008年には、人気歌手のラジオ番組でのある発言がインターネット上で物議を醸す。これを受け、本人が公式ホームページで謝罪、所属レコード会社は活動自粛を発表した。しかし謝罪したことがかえって火に油を注いでしまう。スポンサー各社は出演CMを自粛、本人の掲載されている商品のHPも削除するなど対応する。テレビでも騒動後に放送された出演番組に抗議が殺到、これを受けてか別の番組が放送延期されるにおよんだ(『読売ウィークリー』2008年2月24日号)。

インターネットの普及により、一般人の意見がより影響力を持つようになったがための現象だろう。スポンサーがすぐに出演CMを自粛したのは、そうした一般からのクレームをあらかじめかわし、商品イメージを傷つけないための行動ともとれる。商業上の理由による対応という意味では、方向性は違うものの、テレビ各局がたけしを事件後早々に復帰させたのと変わりはない。

■活動再開のきっかけは坂本龍一のクリスマスコンサート

放言が原因の場合はともかく、警察沙汰を起こした芸能人が活動を自粛するのは、社会的影響を考えればやむをえないのだろう。活動自粛を余儀なくされた芸能人にとって、その期間は自分を見つめ直す契機なのかもしれない。ビートたけしは謹慎中、読書に明け暮れ、そこからのちの人気番組『平成教育委員会』につながるアイデアを得ている。

不祥事を起こした歌手が、謹慎期間を経て、音楽業界の賞を獲得した事例もいくつかある。槇原敬之覚醒剤事件で逮捕されてから4カ月後の1999年12月、懲役1年6カ月・執行猶予3年の判決を受けた直後、坂本龍一のクリスマスコンサートにサプライズ出演して、事実上活動を再開した。

本格復帰は翌2000年11月にアルバム『太陽』をリリースするまで待たねばならなかったが、その後、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」がヒットし、教科書にも掲載されるなど平成を代表する名曲との評価を得た。

社会復帰できるかどうかは結局は本人次第と言ってしまえばそれまでだが、個人が責任を負うのにはやはり限界がある。所属事務所やテレビ局、さらには社会全体でバックアップしていく体制を整えることも必要だろう。とりわけ薬物に関しては、事件を起こした本人が治療の必要な場合も多いだけに、なおさらのはずだ。

■「教授の優しさを大切に受け止めたかった」

ちなみに先述の槇原敬之坂本龍一のコンサートでの復帰は、坂本が槇原に直接メールで出演を打診して実現した。槇原は10代のときから敬愛していた坂本に、このとき初めて対面したという。周囲のスタッフからは「常識を考えたら出るべきではない」と大反対を受けながらも自らの判断で出演を決めた彼は、その心境をのちに次のように明かしている。

《そういう立場の僕をゲストに出すということは、教授[引用者注:坂本龍一のニックネーム]にとってマイナスのイメージにつながることでしょう? それにもかかわらず、僕を元気づけようとライブに誘ってくださった教授の優しさを大切に受け止めたかったんだ。教授が僕のことを“音楽をやっている者”としてちゃんと見ていてくださったということも本当に嬉しく思えたし、あの日は歌いながら本当に幸せな気持ちになってた》(松野ひと実『槇原敬之の本。』幻冬舎)(文中敬称略)

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近藤 正高(こんどう・まさたか)
ライター
1976年生まれ。愛知県出身。著書に『タモリと戦後日本』(講談社現代新書)、『私鉄探検』(ソフトバンク新書)、『新幹線と日本の半世紀』(交通新聞社新書)。「cakes」にて物故した著名人の足跡とたどるコラム「一故人」など雑誌やウェブへの執筆も多数。

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(ライター 近藤 正高 写真=時事通信フォト)