徳川家斉の子どもの数はなんと53人(写真:makomak / PIXTA)

江戸後期の将軍、徳川家斉(いえなり)は「無類の子だくさん」として知られている。その数、男女合わせてなんと53人。長い日本の歴史を通して見ても、稀有な存在だ。
彼がそこまでして子どもを欲した理由は何か、そしてその強靭な体力を維持できた秘密とは?
「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。
本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「徳川家斉」を解説する。

現代日本の少子化をあざ笑う“上様”

現代の日本は、少子高齢化・人口減少社会といった多くの深刻な問題を抱えています。

厚生労働省の平成28(2016)年人口動態統計の年間推計によれば、戦後の第1次ベビーブーム期には「4.3」を超えていた合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産むと見込まれる子どもの数)は、2015年にはわずか「1.45」になっています。

そんな現代の社会問題をあざ笑うかのように、今から200年前の「化政文化」といわれた江戸文化の爛熟期にあった日本に、なんと53人もの子どもをつくった“本物のビッグダティ”が存在しました。

その人物こそ、誰あろう江戸幕府第11代将軍「徳川家斉」です。

今回は、彼がなぜそんな「快挙」を成し遂げられたのか、その背景と気になる強壮の秘訣について解説します。

今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

「江戸のビッグダディ」はレベルも段違い

Q1. 徳川家斉って誰ですか?

江戸時代後期の人物で、徳川幕府第11代将軍です。

1773年、一橋徳川家の第2代当主、一橋治済(はるさだ)の長男として生まれ、その後嫡子を失った10代将軍、徳川家治(いえはる)の養子となり、1787年に家治の急死の後を受けて15歳で将軍に就任しました。

以降、徳川幕府の歴代最長となる50年の将軍在位期間を経て、息子の徳川家慶(いえよし)に将軍職を譲り、1841年に69歳で死去しました。

Q2.「子どもが53人もいた」というのは本当ですか?

本当です。記録を見るかぎり、徳川家斉には17歳から55歳までの間ほぼ毎年、子どもが誕生しており、男子26人、女子27人の名前が確認できます。

さらには、生まれる前に流産した子どもが7人ほどいたらしく、ここまで多くの子どもをつくった人は、将軍家をはじめ同時代の諸大名の中でも群を抜いています。

注:「2女子」と「5男子」は誕生直後に死亡したため、俗名がない出所:別冊太陽『徳川十五代』(平凡社)をもとに編集部が作成

Q3. 徳川家斉の奥さんは、いったい何人いたのですか?

正妻である第8代薩摩藩主、島津重豪(しげひで)の娘の広大院を筆頭に、「側室が24人」、彼女らの使用人として働く女性の中からも「“お手付”がさらに20人以上」いたといわれています。

ただし、これらは諸説あり、正確な人数は不明です。

Q4. 徳川家斉は奥さんたちと、どのように暮らしていたのですか?

当然のことながら、将軍には多くの大名に課せられた参勤交代の義務はありませんので、つねに江戸城内で同居していました。

江戸城本丸の広大な御殿は、幕府の執務を行うエリアと将軍の居住エリアとに大きく分かれており、後者の一画に将軍の妻や側室が生活する、いわゆる「大奥」がありました。

大奥は将軍のプライベート空間も兼ねており、住み込みで働く女性たちの数は、時代にもよりますが全体で600〜700人にものぼりました。

Q5. そもそもなぜ家斉は、子どもをつくってばかりいたのですか?

「世継ぎづくり」は、将軍や大名の最重要公務だったからです。

この頃は、幕府や各藩では実務の主導はほとんど家臣が行い、将軍や大名に求められていたのは、彼らの職場である「家」の存続が安泰となるよう、お世継ぎをしっかりつくることでした。

家斉自身も将軍の「養子」であり、幕府存続の責を背負ったことで、子づくりにより拍車がかかったものとみられます。

「世継ぎ」が生まれなければ「お家断絶」

Q6.「世継ぎ」が生まれなかったら、どうなるのですか?

本来の江戸幕府のルールでは、大名ならばお家断絶です。

後出しで後継者を指定できる「末期(まつご)養子」という裏制度もありましたが、弊害も少なからずあり、もちろん基本的には「自前」での世継ぎの擁立がベストでした。そのため、家臣らは主君を「お世継ぎづくり」に専念させました。

「徳川御三家(ごさんけ)」「御三卿(ごさんきょう)」というのも、本来はこうした問題への「保険」としてつくられた制度です。

Q7. たんに徳川家斉が「女性好き」だったのでは?

もちろん、そういう側面もあったはずです。

現に、17歳の徳川家斉が正妻である広大院と結婚の儀をあげたその翌月に、側室のひとりから長女の淑姫(ひでひめ)が誕生しています。

しかし、それ以外の「もっと本質的な理由」も存在します。

Q8. それにしても53人はあまりにスゴいのでは?

それには、当時の医療事情も関係しているでしょう。というのも、江戸時代の日本人は、「平均寿命が30〜40歳」といわれていました。

その理由として、「生後1年間の乳幼児死亡率が20〜25%」という高さが強く影響しています。また、予防医学や衛生面での対応が未発達なため、健康は個人の生命力や日常的な生活力に頼るほかありませんでした。

これは将軍家でも例外ではなく、実際、徳川家斉の子どもも約半数の25人が成人できずに夭折しています。

とくに、そのほとんどが彼の前半生に集中しており、後継者だけでなく十分な「スペア」確保の必要性から、子づくりにより積極的となったとも考えられます。

平均寿命は30〜40歳、高い乳幼児死亡率

Q9. 一般よりも、江戸城内の医療体制は整っていたはずでは?

当然、医師は常駐し、処方される薬なども含め体制そのものは国内最高水準です。

ただ、大奥の女性がその頃使用していた化粧品(白粉〈おしろい〉)に有毒な鉛が含まれており、これが懐妊時の胎児に影響を及ぼして、家斉に限らず徳川家の子女の多くが幼くして落命した原因だったという指摘もあります。

Q10. 当時の「平均寿命が30〜40歳」というのも衝撃ですね

「七つ前は神の子」といわれ、「7歳をむかえるまでは、人間の形はしていてもまだ魂が遊離しやすい不安定な存在」だというのが、当時の子どもに対する人々の考え方でもありました。

そこから、「3歳男女児の髪置(かみおき)」「5歳男児の袴着(はかまぎ)」「7歳女児の帯解(おびとき)」といった子どもの成長の節目を祝う「七五三」の慣習が生まれます。

ちなみに、「平均寿命が30〜40歳」といっても、無事成人できた人の多くはもっと長生きをしていました。必ずしも、誰もがその年齢で亡くなっていたというわけではありません。

Q11. 成人できた徳川家斉の子どもたちは、どうしていたのですか?

徳川家斉の子どもは「53人中、28人が成人」しました。

子ども53人中、成人したのは28人

そのうち、後継者である12代将軍の家慶(いえよし)以外の男子は、水戸を除く各徳川家や諸大名家へ養子に出され、女子も後述する加賀藩への輿入れの例のように各徳川家および諸大名のもとに嫁ぎました。

将軍の子女を迎えるにあたり、幕府、受け入れ先双方に莫大な費用がかかり、それがほぼ毎年のペースで続いたため、幕府と諸藩の財政は逼迫しました。

Q12. 徳川家斉が実践していた「健康の秘訣」も知りたいです

徳川家斉は健康にも気を配っており、秘訣は以下の3つだったようです。

【1】早起きと散歩

毎日必ず一番鶏の鳴く夜明けには起床し、軽く身支度を整えると、そのまま城内の広大な庭園を隅々までみっちり「散歩」するのを日課としていました。体内の気や血液のめぐりが向上するそうです。

【2】冬でも薄着

1年を通して「薄着」で過ごし、どんなに冷え込む季節でも普段は小袖に胴着のみ、部屋にある炬燵(こたつ)はいっさい使用せず、手炉(しゅろ=持ち運びできる極小ストーブ)で軽く温まる程度でした。

【3】適度な運動

1年を通して月に数回、猛暑や極寒、悪天候を問わず「鷹狩り」に情熱を傾けました。場所は主に江戸近郊や郊外で、自分専用の愛鷹も所持しています。さしずめ現代のゴルフ愛好家と感覚は同じでしょう。

ほかにも、若い頃は打毬(だきゅう=東洋版ポロ競技)のようなかなり激しいスポーツも得意としており、体力づくりに余念がなかったようです。

Q13.徳川家斉が「精力を維持できた秘訣」も知りたいです!

実は、私たち現代人も、彼とほぼ同じ方法を実践することが可能です。最後に、その秘訣を紹介しましょう。

徳川家斉が「生涯強壮を維持できた秘訣」のひとつが、「白牛酪(はくぎゅうらく)」です。

「白牛酪」は、牛乳と砂糖でつくられた「乳製食品」で、当時は滋養強壮のほか若返りに効果がある薬として珍重されました。

江戸幕府の開府後すぐに、里見氏の旧領安房国嶺岡(千葉県南房総市の一地区)を幕府直轄の牧場としました。8代将軍吉宗はこれを積極的に拡大して、在位中の1728年にインドから3頭の「白牛」が輸入されました。これが飼育され、つくられたのが「白牛酪」です。

「白牛酪」のつくり方は、熱した牛乳に砂糖を混ぜ、攪拌(かくはん)しながらさらに弱火で煮詰めて、固まり状になったところを型などに入れ、冷ましたら出来上がりです。味はミルク風味のキャラメルに近いそうです。

徳川家斉は、後に医師の桃井源寅(もものい みなもとのいん)に『白牛酪考』という本を書かせ、広く宣伝しますが、効果については本人が「実証済み」ですから、誰もその内容を疑うことはなかったでしょう。一般庶民にも販売されるようになりました。

家斉の娘のためにつくられた東大「赤門」

文政10(1827)年11月27日、家斉の21女・溶姫(ようひめ)は、第13代加賀藩主前田斉泰(なりやす)の正室として、15歳で江戸本郷にある加賀藩上屋敷に輿入れしました。

溶姫を迎え入れるにあたり、慣例により敷地内に別途、将軍の娘である彼女のための御殿が新築され、これにあわせてつくられたのが、現在「赤門」で知られる東京大学のシンボル「御守殿門(ごしゅでんもん)」です。

一般的に、赤門は「加賀前田屋敷の表門」と誤解されることが多いですが、正しくは「前田屋敷溶姫御殿の表門」です。

日本の歴史には、現代人も驚くような「ユニークな人物」がたびたび登場します。

ぜひ、日本史を学び直し、社会人に必要な「知識と教養」を身に付けると同時に、「人間を知る契機」にしてください。歴史を知ることは「人を知る」ことにほかならないからです。