金ピカ先生 1951年、東京都生まれ。本名・佐藤忠志。慶應大学法学部卒、筑波大学大学院修了。77年代々木ゼミナール講師。『仁義なき戦い』風のスタイルと教授法で大活躍。88年東進ハイスクール講師。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などに出演。

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■あのころの代ゼミは光り輝いていた

――日本三大予備校の一つ、代々木ゼミナールが今年8月、全国27校のうち20校を閉鎖する方針を明らかにした。少子化による受験生の減少などが背景にあるとみられるが、大手予備校の規模縮小は受験業界に影響を与えそうだ。「年収2億円、伝説の講師」と評された、元代ゼミ講師の金ピカ先生こと佐藤忠志氏(63歳)が、知られざる「代ゼミ史」を実況講義する。

代ゼミはよくここまでもったな、というのが正直な印象です。というのは、18歳人口は平成4(1992)年に206万人とピークに達しました。第二次ベビーブーム世代が18歳になった昭和60(85)年からの7年間を、受験業界では「ゴールデン7」と呼んでいたのです。その後、受験人口は減少していくことがわかっていて、大手予備校はそれに合わせた校舎展開をしていた。ところが代ゼミは、校舎の拡張・拡大路線を続け、今もそのままです。莫大な校舎の維持費や人件費などがかさんだが、我慢に我慢をした。結果、減少した18歳人口に耐え切れなくなったのでしょう。

かつての代ゼミは、予備校界に燦然と輝く太陽でした。

昭和52(77)年のことです。神奈川県の大船で、400坪の土地に地上4階地下1階の校舎を建設し、近くの100坪には地上3階建てをつくりました。さらに800坪の駐輪場。この3つが1年でペイできたほどの商売でした。貸し倒れがないため、銀行は黙っていません。今のセンター試験の前身、共通一次試験を勝ち抜くためには多くのデータが必要でした。要は、規模が大きいほうが勝つ。それに合わせて銀行は融資をしたのです。そんなとき、代ゼミの理事長がふと次のようなことを漏らしたことがあります。

「こんなに大きくなるとは……」

ハード面だけではありません。当時、人気のあった講師は自分の名前をつけた冠講座を担当し、テキストもオリジナルでした。そこには当然、誤植などのミスがつきものですが、代ゼミには実力派の事務職員がいて完璧な校正をし、間違いが一つもなかったのです。しかも、スタートする2週間前にはテキストが配布できた。別のある予備校では、講習日に間に合わなかったり、初級編と上級編の表紙が逆になるなどのミスが頻発していたと聞きます。

私の定員500人のクラスは、受付開始から2時間であっという間に満杯です。徹夜で並ぶ生徒もいて、焚き火をしたり「トイレ貸してくれ」だので、近所から苦情がきたほどだったのです。

なぜ、それほど人気があったのかとよく聞かれます。それは、次のような根本的な考え方にあります。

予備校は、車でいえばスペアタイヤです。使わないに越したことはない。両親が余計なお金を使い、生徒は余計な時間を使っているのだから、今までわからなかったことを十分に理解して帰っていただく。これは当然のことです。私は予備校の講師を、それまでの上から目線のものではなく、生徒の目線に立ったサービス業と捉えたのです。

もう一つ。私は中1から英語ができなくて落ちこぼれでした。ですから、勉強ができない子がなぜできないか、どこで躓いているのか、ということが手に取るようにわかるんです。だから、英文法は文法用語を使わない解説をしました。

もっと凄いことも言いました。

「君たち、大学に行くのなら英語ができたほうが有利だけど、できなきゃ、英語ができる奴を使えばいい。君たち、女にモテたいだろ。偏差値が低くても身長が低くても、デブでも、金さえあれば女は寄ってくるんだ。金はどうしたらできるか。勉強ができたほうがいい。だったら、やってみろ」

そう言い切りました(笑)。受験を控え不安な気持ちでいっぱいな受験生の気持ちを、これで鷲づかみしましたね。下品な言い方かもしれませんが、私は当時、それなりに年収があったので(推定2億円)、リアリティーがあったと思いますよ。それと、実際に受験で成功させていた実績が大きかった。英語の偏差値34の生徒を、慶応大学へ入学させるなどよくありました。

■大学入試とは仁義なき戦いだ!

入試直前の2月には「仁義なき戦い」と名づけた講座を開いていました。これは私の実体験がもとになっています。浪人中の年末、祖父と一緒に行ったアメ横で、「このままじゃあ、また落ちるんだろうな。でも二浪はできねえしな」と考えていたとき、英語の長文問題で、本文を読まないで設問だけ読んで答えを出す方法を編み出したんです。そして実際の入試では、スーツにレイバンのサングラス、小脇に「ジャパンタイムズ」を抱えて悠々と葉巻をくゆらせていた。80分の試験を40分で終え、これ見よがしに答案を出して教室を出たんです。つまり自分の点数がこれ以上上がらないと判断したら、周りの点数を落とすことを考えたんです。ですから「仁義なき戦い」なんです。

予備校の生徒とは1年間ほどの付き合いですが、いまだに連絡をくれます。教師冥利に尽きますね。

努力したのは私だけではありません。ある夏休み、理事長が腰から手ぬぐいをぶら下げて横断歩道で交通整理をしていました。要するに、代ゼミは生徒に最高の環境を提供しようとやってきた。だからこそ人気があり、生徒が集まったんです。

ですが、18歳人口の減少を見据えた状況判断を誤ったのでしょう。そうなると、悪循環です。安い先生を使い、授業の質が落ちる。さらに生徒が集まらない。そして、一気に規模縮小です。まあ「13日の金曜と仏滅と三隣亡が一緒にきた」ような感じですかね。

かつての予備校には、大学を卒業してからでさえも学びたいような、個性的な先生がごろごろいた。そうならないと人は集まってきません。できないのであれば、早く業種を転換したほうがいいでしょう。

(青柳雄介=構成 村上庄吾=撮影 時事通信フォト=写真)