果してひとはカウンセリングで回復できるのか『セラピスト』
最相葉月『セラピスト』が、とても素敵な本だったので、人に会うたびにオススメしている。
今日4/10、NHKラジオ第一「すっぴん」「新刊コンシェルジュ」のコーナー(朝9時5分ごろ!)でもオススメするし(聞いてね)、『週刊スピリッツ』のコラムページ「イン・ハイ・スピリッツ」(4月14日発売号)でもオススメする(読んでね)。
この本は、もともと精神科医でもカウンセラーでもクライエントでもない著者が、カウンセリングの実態を多角的に書いた本だ。
こういった本は、案外めずらしい。
精神科医や専門家が書いた本は多い。
患者が書いた体験談も多い。
ジャーナリストが書いたものは、そもそも少ない。
あっても、精神医療に警鐘を鳴らすといったタイプがほとんどで、こういうスタンスで書かれたものは、いままでに読んだことがなかった。
最相葉月は、臨床心理学系の大学院に通い、学会に行き、セラピストやクライエントに話を聞く。
さまざまな取材をもとに「カウンセリングとは何か」「ひとはどのようにして回復するか」を探っていく。
第一章に登場するのは、木村晴子。
心理学者、河合隼雄の箱庭療法に感銘を受け、いち早く自分のテーマとして取り組んできたカウンセラーだ。
彼女の論文「中途失明女性の箱庭製作」を読んだのが、取材をはじめる直接のきっかけ。
“披露しようとしてつくっているわけではないどころか、玩具も箱庭も見えない人がどうやって箱庭を作るのか。なぜ治療ができるのか。これは、もう木村とその女性に会うしかないだろう。”
第二章は、大学院の臨床心理学系研究科に通って得た知見が紹介される。カウンセラーは、どうやって育てられるのか。どういった人がカウンセラーになろうとしているのか。
「普通の人は選ばないでしょう、こんな仕事」と河合俊雄は言う。
「自分がそうだった、という人もいるし、周囲が、という人もいる。だからといって、苦しんだ人がクライエントのことがよくわかり、優秀かというと、そうとは限らない。その人の傷がバイアスを与えて邪魔をしてしまうことがある。では、すくすくと育った人がいいかというと、今度は相手の傷がわからない。教育分析を受ける必要があるのはそのためです」
カウンセラーになるためには、自分自身のことを知ることが大切なのだ。
第三章は、日本にカウセリングが入ってきた経緯を探る。
第四章は、木村晴子の「中途失明女性の箱庭製作」論文のクライエント・箱庭製作者である伊藤悦子のケースが語られる。
視力に異常を感じたときのこと。三十六歳で両目を失明したとき、した後のこと。
点字で、河合隼雄の『ユング心理学入門』を読み、心理学と出会ったこと。
箱庭療法をやりたいと頼んでみたときのこと。
十五回にわたる箱庭療法のようす。
それらがていねいに描かれる。
第六章は、河合隼雄と中井久夫の出会いを中心に、日本における箱庭療法と絵画療法の歴史。
第七章は、アメリカ精神医学会による精神診断基準であるDSMについて。
「日本人は間やあいまいさを大切にする民族なのに、DSMによって患者ではないのに患者にされた人はたくさんいる」
と臨床心理士が語る。
第八章は、箱庭療法や絵画療法がやりにくくなっているカウンセリングの現在(一人のクライエントに時間をかけることが難しくなっている現状や、カウンセラーやクライエントの変化)を描く。
第九章のタイトルは「回復のかなしみ」だ。
ドキっとしたのは、“治るためには必ずといってよいほど、かなしみを味わわねばならないようである”って記述だ。
不登校の少年が、学校に行く決意をする日に夢を観る。
母と旅行に行こうとして犬も連れて行くが、バスで犬はダメって言われてしまう。
犬をバスからおろし、祖父にあずけて出発する。
犬とはもう会えないんだな、って思う。
そういう夢。
学校に行く決意をすることは、同時に、母性との決別でもあるわけだ。だから、かなしい。
大きなかなしみはしんどいけれど、かなしいって感情を、ムリになくそうなくそうとしなくてもいい。
途中に、著者自身が中井久夫の絵画療法を受けている「逐語録」がはさみこまれる。
「できましたね。何メートルぐらいあります?」
「五十メートル以上あると思います」
「ほう」
「だからてっぺんが見えません」
「紙を足したら上を描きますか」
「はい、……いや、どうなんだろう、うーん。自分の視点からは木のてっぺんが見えないというイメージがあるのです」
「なるほどね。……疲れました?」
「だいじょうぶです」
「だいじょうぶ、ということは、ちょっとがんばるということですか」
「はは……」
途中で、飼い猫のぷうが、のわーんと鳴く。
性急に結論を出すためではなく、ゆっくりと、いっしょに散歩するように。
“人の心にレッテルを貼るのではなく、言葉にできない思いを汲み取って相手の心の深層に近づいていく”。
そういったカウンセリングのようすが描かれる。
最相葉月『セラピスト』を、ゆっくりと読むこともカウンセリングになる、とぼくは思う。
(米光一成)
今日4/10、NHKラジオ第一「すっぴん」「新刊コンシェルジュ」のコーナー(朝9時5分ごろ!)でもオススメするし(聞いてね)、『週刊スピリッツ』のコラムページ「イン・ハイ・スピリッツ」(4月14日発売号)でもオススメする(読んでね)。
この本は、もともと精神科医でもカウンセラーでもクライエントでもない著者が、カウンセリングの実態を多角的に書いた本だ。
こういった本は、案外めずらしい。
精神科医や専門家が書いた本は多い。
患者が書いた体験談も多い。
ジャーナリストが書いたものは、そもそも少ない。
あっても、精神医療に警鐘を鳴らすといったタイプがほとんどで、こういうスタンスで書かれたものは、いままでに読んだことがなかった。
さまざまな取材をもとに「カウンセリングとは何か」「ひとはどのようにして回復するか」を探っていく。
第一章に登場するのは、木村晴子。
心理学者、河合隼雄の箱庭療法に感銘を受け、いち早く自分のテーマとして取り組んできたカウンセラーだ。
彼女の論文「中途失明女性の箱庭製作」を読んだのが、取材をはじめる直接のきっかけ。
“披露しようとしてつくっているわけではないどころか、玩具も箱庭も見えない人がどうやって箱庭を作るのか。なぜ治療ができるのか。これは、もう木村とその女性に会うしかないだろう。”
第二章は、大学院の臨床心理学系研究科に通って得た知見が紹介される。カウンセラーは、どうやって育てられるのか。どういった人がカウンセラーになろうとしているのか。
「普通の人は選ばないでしょう、こんな仕事」と河合俊雄は言う。
「自分がそうだった、という人もいるし、周囲が、という人もいる。だからといって、苦しんだ人がクライエントのことがよくわかり、優秀かというと、そうとは限らない。その人の傷がバイアスを与えて邪魔をしてしまうことがある。では、すくすくと育った人がいいかというと、今度は相手の傷がわからない。教育分析を受ける必要があるのはそのためです」
カウンセラーになるためには、自分自身のことを知ることが大切なのだ。
第三章は、日本にカウセリングが入ってきた経緯を探る。
第四章は、木村晴子の「中途失明女性の箱庭製作」論文のクライエント・箱庭製作者である伊藤悦子のケースが語られる。
視力に異常を感じたときのこと。三十六歳で両目を失明したとき、した後のこと。
点字で、河合隼雄の『ユング心理学入門』を読み、心理学と出会ったこと。
箱庭療法をやりたいと頼んでみたときのこと。
十五回にわたる箱庭療法のようす。
それらがていねいに描かれる。
第六章は、河合隼雄と中井久夫の出会いを中心に、日本における箱庭療法と絵画療法の歴史。
第七章は、アメリカ精神医学会による精神診断基準であるDSMについて。
「日本人は間やあいまいさを大切にする民族なのに、DSMによって患者ではないのに患者にされた人はたくさんいる」
と臨床心理士が語る。
第八章は、箱庭療法や絵画療法がやりにくくなっているカウンセリングの現在(一人のクライエントに時間をかけることが難しくなっている現状や、カウンセラーやクライエントの変化)を描く。
第九章のタイトルは「回復のかなしみ」だ。
ドキっとしたのは、“治るためには必ずといってよいほど、かなしみを味わわねばならないようである”って記述だ。
不登校の少年が、学校に行く決意をする日に夢を観る。
母と旅行に行こうとして犬も連れて行くが、バスで犬はダメって言われてしまう。
犬をバスからおろし、祖父にあずけて出発する。
犬とはもう会えないんだな、って思う。
そういう夢。
学校に行く決意をすることは、同時に、母性との決別でもあるわけだ。だから、かなしい。
大きなかなしみはしんどいけれど、かなしいって感情を、ムリになくそうなくそうとしなくてもいい。
途中に、著者自身が中井久夫の絵画療法を受けている「逐語録」がはさみこまれる。
「できましたね。何メートルぐらいあります?」
「五十メートル以上あると思います」
「ほう」
「だからてっぺんが見えません」
「紙を足したら上を描きますか」
「はい、……いや、どうなんだろう、うーん。自分の視点からは木のてっぺんが見えないというイメージがあるのです」
「なるほどね。……疲れました?」
「だいじょうぶです」
「だいじょうぶ、ということは、ちょっとがんばるということですか」
「はは……」
途中で、飼い猫のぷうが、のわーんと鳴く。
性急に結論を出すためではなく、ゆっくりと、いっしょに散歩するように。
“人の心にレッテルを貼るのではなく、言葉にできない思いを汲み取って相手の心の深層に近づいていく”。
そういったカウンセリングのようすが描かれる。
最相葉月『セラピスト』を、ゆっくりと読むこともカウンセリングになる、とぼくは思う。
(米光一成)