朝ドラ「ごちそうさん」異例の向田邦子賞受賞。“物を食らう物語”であり“理系の血筋”の物語であった
すぐれたテレビドラマの脚本と作家を選ぶ第32回向田邦子賞がきのう(4月2日)発表された。受賞が決まったのはNHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」の森下佳子。朝ドラ作品の受賞は、第20回(2001年度)の「ちゅらさん」の岡田惠和以来ということになるが、放送終了から賞の選考会まで1週間も経っていない作品が選ばれるのは(脚本はそれ以前に完結していたとはいえ)きわめて珍しいのではないだろうか。ついでにいえば、現在放送中の朝ドラ「花子とアン」の脚本を担当する中園ミホは昨年の向田賞受賞者(受賞作は「はつ恋」「ドクターX〜外科医・大門未知子〜」)である。
さて、「ごちそうさん」を初回からずっと見続けてきた私だが、3月29日放送の最終回はあいにくオンタイムで見ることがかなわず、ようやく今週に入ってNHKオンデマンドで視聴した。それも「笑っていいとも!」のグランドフィナーレを見たあとという、よいのか悪いのかわからないタイミングで。「いいとも!」では泣かなかった私も、「ごちそうさん」にはつい涙がこみあげてきた。
自己弁護しておくと、これは物語の展開からいって、ずっと見てきたのに泣かないほうがおかしいのである。朝ドラの最終週というと、主な事件はたいてい解決していて、ほとんど後日談みたいなもので終わる作品も少なくないが、「ごちそうさん」は最後の最後まで緊張感を保って、最終回でドカンとクライマックスが来るという、あまりないパターンだった。それだけに、見ているほうとしても、いままで堪えていたものが一気に放出される結果になったわけだ。
それにしても、放送開始前、「ごちそうさん」には正直いってあまり期待はしていなかった。あの社会現象となり、自分もどっぷりハマった「あまちゃん」のあとということもあるが、主演が杏というすでに十分色のついた女優だったというのも大きい。それでも、いざドラマが始まり、ヒロイン・め以子が成長して子役から杏が演じるようになったときには、すっかり話の展開に目が離せなくなっていた。
これは、私の友人が以前から指摘していたことだが、杏は下町のきっぷのいい姉さんキャラを演じると上手い(近年の「妖怪人間ベム」のベラ、大河ドラマ「平清盛」における北条政子の役などもその延長線上にあるといえる)。その意味では、今回の役はまさにどんぴしゃであったわけである。もちろん、「ごちそうさん」の魅力は、ヒロインばかりにあるのではない。以下、いくつかポイントをあげながら、半年間のドラマを振り返ってみたい。
■ゆっくりと流れる時間、じっくりと描かれたエピソード
「ごちそうさん」第1回は、昭和20(1945)年の夏、焼け野原になった大阪でヒロインのめ以子が鍋で料理をつくり、群がる子供たちに食べさせるシーンから始まった。ドラマの終盤にふたたび出てくるであろうこの場面から、このドラマではめ以子の生まれた明治から大正、昭和の戦後まで描かれることがほのめかされていたことになる。
ただし、全体のタイムスパンに比して、物語のなかで流れる時間はきわめてゆったりとしたものだった。子役扮するめ以子の幼少期こそ第1週で終わったものの、その翌週から年末にかけての放送では、大正11(1922)年から13年元旦までの実質2年間しか描かれていない。途中でそのことに気づいて、はたして3月までに戦争が終わるのかよけいな心配をしてしまったほどだ。が、それは逆にいえば、「ごちそうさん」では一つひとつのエピソードが丁寧に描かれていたことの証しでもある。
「あまちゃん」みたいに1話のなかでめまぐるしく場面が変わったり、本筋とは関係ない細かいネタが仕込またりもしていなかった分、高齢層にも比較的ドラマを追いやすかったはずだ。「ごちそうさん」が高視聴率をマークしたのも、そうしたことに加え、戦前・戦中・戦後のできごと、小姑による嫁いびりなど、過去の朝ドラでおなじみの要素がふんだんに盛りこまれていたため、往年のファンを獲りこめたというのも大きいのだろう。
■明治・大正・昭和を舞台にしながら“現代”を描く
もっとも、「ごちそうさん」は朝ドラの伝統をなぞっていただけではない。大正〜昭和を舞台としながら、21世紀の私たちが抱える課題もかなり反映していたように思う。前作の「あまちゃん」では、東日本大震災が描かれた。しかし当然ながら、物語の展開上、描かれなかった部分もたくさんある。「ごちそうさん」ではそういった部分も含めて、震災後の現状を、過去に仮託したようなところが多分に見受けられた。
わかりやすい例としては、大正12年9月の関東大震災で、東京からの避難者のための炊き出しにめ以子が加わったときのエピソードがあげられる。このときの、家族が死んだことに自責の念に駆られる女性(星野真里)とめ以子とのやりとりは、被災者の心のケアなど現在に通じる問題を提示していたように思う。
関東大震災ではまた、め以子の夫で大阪市役所の建築課に勤める西門悠太郎(東出昌大)が被災地に足を運んだところ、それまで自分が考えていたように建物をコンクリートにするだけでは必ずしも被害を防げるわけではないことに気づき、本当に安全な建物はどうあるべきか思い悩む。
ほかにも、悠太郎の実父で、家族を棄てて長らく行方をくらましていた正蔵(近藤正臣)が、なぜそこまで追い詰められたのか、あとになって勤務していた会社が起こした鉱毒事件がそもそもの原因であったことが判明する。正蔵は、会社側の担当者として鉱毒の被害者たちへの対応に苦悩したあげく、職も家族もなげうって失踪してしまったのだ。正蔵がことあるごとに夢に見てうなされる、鉱毒により健康や住んでいた土地を奪われた人たちの姿は、どうしても先の原発事故で被害を受けた人たちと重ね合わせずにはいられなかった。
さらに、大好きだった物理への道を断念して自ら結婚を選んだ、め以子の長女・ふ久(松浦雅)は戦後、久々に向学心を抱き、太陽光など自然エネルギーによる発電について研究したいと言い出す。このセリフは時代設定上、ちょっと無理があるのではないかとも思ったのだが(当時、新しい発電技術として多くの研究者が考えていたのはやはり原子力発電のはずなので)、まあ、のちの夫への求婚の言葉が「うち、師岡君のこと複製したい」だった彼女のことだから、誰も発想しないような発電方法を思いついたとしても、不自然ではないかも!?
こうして見ていくと、「ごちそうさん」は、め以子を軸とした“物を食らう物語”であるとともに、正蔵〜悠太郎〜ふ久と脈々と続く“理系の血筋”をもう一つの軸とした物語でもあったのだとつくづく思う。それでいえば、亡くなる間際、悠太郎に案内されて地下鉄の工事現場に赴いたときの正蔵の「開発やら技術なんちゅうもんの裏には良心が貼りついててほしいと思うんや」というセリフも強く印象に残った。
■ヒロインの脇で光った若手の演技
朝ドラの愉しみの一つに、脇役のなかに若手の演技派女優を見つけるというのがある。「ちりとてちん」ではそれが宮嶋麻衣(「ごちそうさん」でもめ以子の学友として出演)であったし、「あまちゃん」ではとくに松岡茉優の演技に心を惹かれた。そして「ごちそうさん」でいえばこのポジションは、やはり悠太郎の妹・希子を演じた高畑充希以外には考えられない。
最初のうちは、感情を押し殺しほとんどしゃべらない希子だったが、め以子のおかげでしだいに心を開いていく。そんな希子も、のちにアナウンサーとなり、後先考えないで行動してしまうめ以子を諌めるほどになる。ドラマのなかで、これほど劇的に変貌をとげた人物はいない。そのビフォー・アフターの演じ分けた高畑は、やはりただものではないと見た。
振り返れば、次から次へと名シーンや特筆すべき要素が思い出される「ごちそうさん」。朝ドラでは久々に明治・大正が舞台となり、戦時下のくだりでも、先にエキレビでとりあげた空襲時の地下鉄のエピソードなど、これまでにない描写が見られた。今週から新たに始まった「花子とアン」では、東京大空襲のシーンから始まったのも、それを意識してのことだろうか。
「(朝ドラにおいて)毎回、ライバルは直前の番組」とは、朝ドラに何作かかかわったNHKのスタッフの言葉だが(田幸和歌子『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』に出てくる)、「あまちゃん」で描かれなかった要素が「ごちそうさん」に盛りこまれたように、「ごちそうさん」とは時代背景も重なる「花子とアン」では新たにどんなものが加えられるのだろうか。朝ドラファンとしては、そんなふうに歴代の作品とくらべながら見ずにはいられない。
(近藤正高)
自己弁護しておくと、これは物語の展開からいって、ずっと見てきたのに泣かないほうがおかしいのである。朝ドラの最終週というと、主な事件はたいてい解決していて、ほとんど後日談みたいなもので終わる作品も少なくないが、「ごちそうさん」は最後の最後まで緊張感を保って、最終回でドカンとクライマックスが来るという、あまりないパターンだった。それだけに、見ているほうとしても、いままで堪えていたものが一気に放出される結果になったわけだ。
それにしても、放送開始前、「ごちそうさん」には正直いってあまり期待はしていなかった。あの社会現象となり、自分もどっぷりハマった「あまちゃん」のあとということもあるが、主演が杏というすでに十分色のついた女優だったというのも大きい。それでも、いざドラマが始まり、ヒロイン・め以子が成長して子役から杏が演じるようになったときには、すっかり話の展開に目が離せなくなっていた。
これは、私の友人が以前から指摘していたことだが、杏は下町のきっぷのいい姉さんキャラを演じると上手い(近年の「妖怪人間ベム」のベラ、大河ドラマ「平清盛」における北条政子の役などもその延長線上にあるといえる)。その意味では、今回の役はまさにどんぴしゃであったわけである。もちろん、「ごちそうさん」の魅力は、ヒロインばかりにあるのではない。以下、いくつかポイントをあげながら、半年間のドラマを振り返ってみたい。
■ゆっくりと流れる時間、じっくりと描かれたエピソード
「ごちそうさん」第1回は、昭和20(1945)年の夏、焼け野原になった大阪でヒロインのめ以子が鍋で料理をつくり、群がる子供たちに食べさせるシーンから始まった。ドラマの終盤にふたたび出てくるであろうこの場面から、このドラマではめ以子の生まれた明治から大正、昭和の戦後まで描かれることがほのめかされていたことになる。
ただし、全体のタイムスパンに比して、物語のなかで流れる時間はきわめてゆったりとしたものだった。子役扮するめ以子の幼少期こそ第1週で終わったものの、その翌週から年末にかけての放送では、大正11(1922)年から13年元旦までの実質2年間しか描かれていない。途中でそのことに気づいて、はたして3月までに戦争が終わるのかよけいな心配をしてしまったほどだ。が、それは逆にいえば、「ごちそうさん」では一つひとつのエピソードが丁寧に描かれていたことの証しでもある。
「あまちゃん」みたいに1話のなかでめまぐるしく場面が変わったり、本筋とは関係ない細かいネタが仕込またりもしていなかった分、高齢層にも比較的ドラマを追いやすかったはずだ。「ごちそうさん」が高視聴率をマークしたのも、そうしたことに加え、戦前・戦中・戦後のできごと、小姑による嫁いびりなど、過去の朝ドラでおなじみの要素がふんだんに盛りこまれていたため、往年のファンを獲りこめたというのも大きいのだろう。
■明治・大正・昭和を舞台にしながら“現代”を描く
もっとも、「ごちそうさん」は朝ドラの伝統をなぞっていただけではない。大正〜昭和を舞台としながら、21世紀の私たちが抱える課題もかなり反映していたように思う。前作の「あまちゃん」では、東日本大震災が描かれた。しかし当然ながら、物語の展開上、描かれなかった部分もたくさんある。「ごちそうさん」ではそういった部分も含めて、震災後の現状を、過去に仮託したようなところが多分に見受けられた。
わかりやすい例としては、大正12年9月の関東大震災で、東京からの避難者のための炊き出しにめ以子が加わったときのエピソードがあげられる。このときの、家族が死んだことに自責の念に駆られる女性(星野真里)とめ以子とのやりとりは、被災者の心のケアなど現在に通じる問題を提示していたように思う。
関東大震災ではまた、め以子の夫で大阪市役所の建築課に勤める西門悠太郎(東出昌大)が被災地に足を運んだところ、それまで自分が考えていたように建物をコンクリートにするだけでは必ずしも被害を防げるわけではないことに気づき、本当に安全な建物はどうあるべきか思い悩む。
ほかにも、悠太郎の実父で、家族を棄てて長らく行方をくらましていた正蔵(近藤正臣)が、なぜそこまで追い詰められたのか、あとになって勤務していた会社が起こした鉱毒事件がそもそもの原因であったことが判明する。正蔵は、会社側の担当者として鉱毒の被害者たちへの対応に苦悩したあげく、職も家族もなげうって失踪してしまったのだ。正蔵がことあるごとに夢に見てうなされる、鉱毒により健康や住んでいた土地を奪われた人たちの姿は、どうしても先の原発事故で被害を受けた人たちと重ね合わせずにはいられなかった。
さらに、大好きだった物理への道を断念して自ら結婚を選んだ、め以子の長女・ふ久(松浦雅)は戦後、久々に向学心を抱き、太陽光など自然エネルギーによる発電について研究したいと言い出す。このセリフは時代設定上、ちょっと無理があるのではないかとも思ったのだが(当時、新しい発電技術として多くの研究者が考えていたのはやはり原子力発電のはずなので)、まあ、のちの夫への求婚の言葉が「うち、師岡君のこと複製したい」だった彼女のことだから、誰も発想しないような発電方法を思いついたとしても、不自然ではないかも!?
こうして見ていくと、「ごちそうさん」は、め以子を軸とした“物を食らう物語”であるとともに、正蔵〜悠太郎〜ふ久と脈々と続く“理系の血筋”をもう一つの軸とした物語でもあったのだとつくづく思う。それでいえば、亡くなる間際、悠太郎に案内されて地下鉄の工事現場に赴いたときの正蔵の「開発やら技術なんちゅうもんの裏には良心が貼りついててほしいと思うんや」というセリフも強く印象に残った。
■ヒロインの脇で光った若手の演技
朝ドラの愉しみの一つに、脇役のなかに若手の演技派女優を見つけるというのがある。「ちりとてちん」ではそれが宮嶋麻衣(「ごちそうさん」でもめ以子の学友として出演)であったし、「あまちゃん」ではとくに松岡茉優の演技に心を惹かれた。そして「ごちそうさん」でいえばこのポジションは、やはり悠太郎の妹・希子を演じた高畑充希以外には考えられない。
最初のうちは、感情を押し殺しほとんどしゃべらない希子だったが、め以子のおかげでしだいに心を開いていく。そんな希子も、のちにアナウンサーとなり、後先考えないで行動してしまうめ以子を諌めるほどになる。ドラマのなかで、これほど劇的に変貌をとげた人物はいない。そのビフォー・アフターの演じ分けた高畑は、やはりただものではないと見た。
振り返れば、次から次へと名シーンや特筆すべき要素が思い出される「ごちそうさん」。朝ドラでは久々に明治・大正が舞台となり、戦時下のくだりでも、先にエキレビでとりあげた空襲時の地下鉄のエピソードなど、これまでにない描写が見られた。今週から新たに始まった「花子とアン」では、東京大空襲のシーンから始まったのも、それを意識してのことだろうか。
「(朝ドラにおいて)毎回、ライバルは直前の番組」とは、朝ドラに何作かかかわったNHKのスタッフの言葉だが(田幸和歌子『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』に出てくる)、「あまちゃん」で描かれなかった要素が「ごちそうさん」に盛りこまれたように、「ごちそうさん」とは時代背景も重なる「花子とアン」では新たにどんなものが加えられるのだろうか。朝ドラファンとしては、そんなふうに歴代の作品とくらべながら見ずにはいられない。
(近藤正高)