『まるでダメ男じゃん!:「トホホ男子」で読む、百年ちょっとの名作23選』豊崎由美/筑摩書房
祖父江慎+cosfishのブックデザイン、しりあがり寿のカヴァー絵にも注目。

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大森望との『文学賞メッタ斬り』シリーズが2012年に終了した書評家・豊崎由美さんだけど、先般の「芥川賞・直木賞記者会見ライブビューイング」のレヴューを読むと、生メッタ斬りは健在なようだ

その豊崎さんの新刊『まるでダメ男〔オ〕じゃん! 「トホホ男子」で読む、百年ちょっとの名作23選』(筑摩書房)の題名は、小説という分野の存在理由と楽しみかたを、言い当てているようなところがある。
この本で豊崎さんは、フローベールの『ボヴァリー夫人』(1856)から西村賢太の『どうで死ぬ身の一踊り』(2005)までの150年間にたわる〈ダメ男小説〉23篇の、楽しみかたを教えてくれるのだ(ただしテネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』だけは戯曲)。
目次には『ボヴァリー夫人』を筆頭に、『カラマーゾフの兄弟』『舞姫』『トニオ・クレーゲル』『坊っちゃん』『グレート・ギャッツビー』(本書で底本とした小川高義訳には〈ッ〉が入るんだなー)『シャイニング』『存在の耐えられない軽さ』など、定番然とした名作の名前、谷崎潤一郎やノーベル賞作家バルガス・リョサなど、人目を引く作家名が並んでいる。
あとがきでは宇野浩二の『屋根裏の法学士』にかこつけて、豊崎さん自身のダメ要素が告白されている。

さて、名作というものは、名作名作と奉られていることによって敷居が無駄に高くされてしまっているものだ。本書では、いくつかの作品を対象とする章において、〈矢印で読む名作の粗筋〉という手法を駆使して、作品の敷居をぐんと下げて、「で、結局はどういう話なの?」という乱暴な問いにも答えてくれている。

豊崎さんの読みにかかれば、成人して作家となったトニオ・クレーゲルの、いい齢こいて中2のまんま感(←僕はこれ、我がこととして共感できる)とか岩野泡鳴『毒薬を飲む女』の主人公の〈ジコチュー〉っぷり、ギャッツビーの〈夢みる夢男くん〉具合などが白日のもとにさらされる。
『カラマーゾフの兄弟』なんかは〈橋田壽賀子ドラマもまっ青なダメ男見本市〉と言われてしまう。
 なにしろ『毒薬を飲む女』の主人公は
〈とんかち! とんかち!〉
って言ってるし、ゴンブローヴィッチの『フルディドゥルケ』に登場するピンコと〈おれ〉も
〈ふくらはぎ、ふくらはぎ!〉
って言ってるし、ってこれだけ読んでもなんのことかわかんないだろうけど、
〈とんかち! とんかち!〉
〈ふくらはぎ、ふくらはぎ!〉
って言ってる人間が碌なモンじゃないってことくらいはわかるよね。

そのいっぽうで、小説の技法や構造もしっかりチェックしていて、そうか、こういうところに目をつけると、小説もっと楽しいよなーと勉強になる。『ボヴァリー夫人』における〈情報の遅延〉、『坊っちゃん』や近松秋江の『黒髪』連作における〈信用できない語り手〉、檀一雄『火宅の人』における〈他者〉の不在など。

もっとも感動したのは、谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』のダメ男庄造の、どこがダメかをめぐる、豊崎さんの解釈だ。
庄造は雌猫リリーを妻・福子よりも大事にしている。福子も、前妻・品子も、リリーに嫉妬しているほどだ。
そもそも前妻と別れて福子と結婚したのは、たんに母親の意見を容れただけだし、そうなった原因は、前妻の性格のキツさもあるけれど、そもそも庄造がまじめに働かないからなのだ。
福子は品子から、雌猫リリーを譲ってほしいという手紙を受け取る。手紙には〈用心しないと貴女も猫に見換えられる〉という文句があり、福子もそれには思い当たるところがあったのだろう、リリーを品子に譲るよう庄造に言う。
夫婦喧嘩のあと、庄造はいやいやリリーを品子に譲ることになる。しかし品子は結婚していたころ、嫉妬からリリーをいじめていたことがあるのだ。そんな女のところにリリーをやるなんて……とやきもきし、生きた心地もしない。

僕は庄造がダメ男であることは百も承知だった。いわゆるマザコンで、甲斐性なしで、猫バカ。わかりやすい三重苦だ。けれど豊崎さんは、『猫と庄造と二人のおんな』の展開を叮嚀にたどり、つぎのように解釈を反転する。
〈『猫と庄造と二人のおんな』は、一見、猫と可愛がるくらいしか能がない庄造くんの、いつまでも子どもっぽいばかりのダメ男ぶりを茶化しているように見えて、実は、妻に言われるがまま愛猫を手放すことのダメさ加減をこそ断罪した小説なのです〉。
なるほどなー。たしかに、そのほうが小説本文の木目に逆らわない読みかたなのだ。

また豊崎さんの読みは、実験的な要素のある小説(ゴンブローヴィッチ、バルガス・リョサ、クンデラ)および私小説(岩野泡鳴、島崎藤村、近松秋江、川崎長太郎、檀一雄、西村賢太)において、ひときわの冴えを見せる。
だから、両方の特徴がある(私小説でありながら実験小説でもある)藤枝静男の『空気頭』を論じた章は、とにかくおもしろい。主人公のマッドな医師は、性欲を追求するあまり、バッチいトンデモ人体実験を自分の体でやらかしてしまう。これを〈今ならイグノーベル賞が取れるかも〉と言っちゃうのは笑った。

豊崎さんにこう言われてみると、ダメ人間というのはおそろしくコンテンツ力を持っていることがわかる。
コンテンツ力といえば昭和の漫画。そういえば『猫と庄造と二人のおんな』は『ブラック・ジャック』に、『ガラスの動物園』は『七色いんこ』にと、手塚治虫の人気作品のモティーフとして取りあげられたことがあった。

物語文学にもいろいろあるけれど、古代・中世の叙事詩(『オデュッセイア』とか『マハーバーラタ』とか『ロランの歌』とか)と近代小説とは、いろいろ違っている。
大きな違いのひとつは、前者では常人を超えた偉大な人々(英雄)のことを語っていたのにたいして、後者では、どちらかというと「ふつうの人」がメインになっているということだ。
『まるでダメ男じゃん!』を読んで思い知らされる。「ふつうの人」とは、原則として、「ダメな部分を抱えている人」ということなのだ。近代小説の歴史はダメ人間の歴史、というわけである。
(千野帽子)