レオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が有名になったのはルーヴル美術館の元職員が盗んだのが原因
フランス・ルーヴル美術館で展示されているレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』は、世界で最も有名な美術作品として知られていますが、20世紀初頭までは世間一般にはあまり知られていない作品の1つでした。『モナ・リザ』を有名にしたのは1911年に起こった盗難事件がきっかけといわれており、歴史関連メディアのヒストリーチャンネルがこの盗難事件の詳細をまとめています。
The Heist that Made the Mona Lisa Famous | HISTORY
1911年8月20日の日曜日の夕方、小柄で口髭を生やした男がパリのルーヴル美術館に入館しました。当時の美術館のセキュリティは緩く、男は簡単に物置に潜んで一晩を過ごすことができました。翌朝7時15分頃、美術館が閉館中で人通りの少ない時間帯に、男は美術館職員と同じ白いエプロンを身につけて物置から出て、周囲を確認してから『モナ・リザ』のある場所へ向かい、絵画を壁から外して近くの階段へ運び、保護用のガラスケースから木製のキャンバスを取り出しました。
しかし、逃走ルートとなる中庭へ続くドアが施錠されていたため、男は白い布に包んだ『モナ・リザ』を床に置き、ドアのノブを外そうとしました。そこに美術館の配管工が現れましたが、配管工は男を閉じ込められた美術館の職員だと勘違いし、ドアを開けるのを手伝ってしまいました。犯人は礼を言って立ち去り、エプロンの下に『モナ・リザ』を隠して美術館を出て行きました。
盗難の発覚は翌日の正午頃。来館した画家が警備員に『モナ・リザ』の所在を尋ねたところ、本来展示されていた場所には釘の跡しか残っていなかったことが判明。その後、階段の裏でガラスケースが発見されました。
この事件はフランス中に衝撃を与え、パリの雑誌・イリュストラシオンは「どんな大胆な犯罪者が、どんな謎めいた人物が、どんな狂った収集家が、どんな熱狂者が、この略奪を行ったのか」と問いかけました。大勢の刑事がルーヴル美術館に派遣され、指紋採取や証人への聞き込みが行われ、検問所では車両、船客、歩行者の検査が行われ、警察は『モナ・リザ』の謎めいた微笑みをあしらった手配書が配布されたとのこと。盗難発覚から1週間後に美術館は再開しましたが、何千人もの人々が、絵画のあった場所を見るために訪れました。
犯人はヴィンセンツォ・ペルージャという男で、かつてルーヴル美術館で職人として働いており、『モナ・リザ』の保護ケースの製作にも関わっていた人物でした。
当時29歳だった彼は、盗んだ絵画をパリ郊外にあるアパートの1室に置いたトランクにおよそ2年間も隠し持っていました。後に、ペルージャは「彼女の微笑みの虜になり、毎晩私の宝物を目で愛でた」と語っています。なお、ペルージャは元職員として2度も事情聴取を受けましたが、重要な容疑者とは見なされなかったとのこと。
1913年12月、ペルージャは「レオナルド」という偽名でフィレンツェの美術商アルフレド・ジェリに手紙を送り、『モナ・リザ』をイタリアに返還したいと申し出ました。ウフィツィ美術館のジョバンニ・ポッジ館長と相談したジェリは、フィレンツェでの面会に同意。ホテルの一室で、ペルージャの赤い布に包まれた品物こそ、間違いなく『モナ・リザ』でした。ジェリは『モナ・リザ』の購入に同意するふりをしましたが、実際には絵画の真贋を確認した後、当局に通報し、12月11日午後、ペルージャは逮捕されました。
裁判でペルージャは、「ナポレオン時代にイタリアから略奪された絵画を祖国に返還しようとした」と主張しました。しかし、実際には『モナ・リザ』はダ・ヴィンチが1516年にフランスに持ち込み、フランソワ1世が正当に購入したものでした。しかし、この愛国的な主張は多くの支持を集め、美術商への売却を計画していた証拠が提示されても、ペルージャはイタリアでは英雄として評価されたそうです。
『モナ・リザ』は1914年1月にルーヴル美術館に返還され、最初の2日間で12万人以上が観覧に訪れました。現在では、防弾ガラスと温度管理された展示ケースで保護され、年間800万人もの来館者を魅了し続けています。
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