現役時代の苦労の差が監督としての接し方に表れる。江本孟紀が分析する元中日・立浪和義と日ハム・新庄剛志との違い

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2024年9月、中日ドラゴンズの立浪和義監督が退任を表明した。

“ミスタードラゴンズ”の看板を背負い、2021年10月に新監督に就任したが、結果を出すことができずにユニホームを脱いだ。

野球解説者としても仕事を共にした経験のある江本孟紀さんの著書『ミスタードラゴンズの失敗』(扶桑社新書)では、立浪さんの3年間を振り返り、これからの先の中日ドラゴンズを分析している。

同じように現役引退後にコーチ経験がないまま監督に就任した日本ハムファイターズの新庄剛志監督との違いは何だったのか。一部抜粋・再編集して紹介する。

郡司を活躍させることができた新庄監督

立浪監督と同じ時期に監督に就任したのが北海道日本ハムファイターズの新庄剛志監督。両者は指導力、采配面ともに大きな差が浮き彫りになってしまった。

日本ハムも2022年、23年シーズンは中日と同様、2年連続最下位を喫した。

一転して2024年シーズンはそれまでの2年間の成績を払拭するように、パ・リーグで2位と大躍進を遂げた。

新庄監督の采配で注目したいのが、「若くて実績のない選手を抜擢し続けたこと」である。

チームの中心打者として君臨している万波中正(2018年ドラフト4位)を筆頭に、入団6年目の捕手の田宮裕涼(同年ドラフト6位)、上川畑大悟(2021年ドラフト9位)、水野達稀(同年ドラフト3位)と、枚挙に暇がないほど多くの若手選手が、グラウンドで躍動している。

こうしたなか、注目すべきは、おもにサードを守る郡司裕也である。

彼は慶応義塾大を経て、2019年ドラフト4位で中日に入団。

中日時代は捕手として期待されていたが、思うような成長の跡が見られず、2023年6月19日にトレードで日本ハムに移籍してきた。

6月30日に一軍に昇格すると、いきなりこの日のオリックス戦で「2番・DH」で起用され、7月2日にはプロ入り初となる猛打賞を記録。さらに2日後のソフトバンク戦では、和田毅からプロ入り初本塁打を放った。

結局、この年は自身最多となる55試合に出場し、打率2割5分4厘、3本塁打、19打点という数字を残した。

新庄監督はポジション以外での起用も考えた

「郡司は移籍したから活躍することができた」
「中日にいたら、今ごろまだ二軍暮らしが続いていたかもしれない」

そんな揶揄をされていたものだが、郡司を活躍させたことで、立浪監督と新庄監督の違いが如実に表れた。

立浪監督は「捕手として郡司として通用するかどうか」を見ていたが、新庄監督は「郡司は捕手以外のポジションで活躍できるのか」という視点で判断していた。

実際、2024年シーズンは春季キャンプから郡司をサードで起用した。

期待していた清宮幸太郎が自主トレ中の負傷でサードができなくなったことから、郡司自ら挑戦を熱望していたのがその理由だが、新庄監督は彼のアピールを否定することなく、「サードをやってみようか」と提案した。

その結果、春季キャンプ、さらにはオープン戦でも結果を出し、開幕5戦目のソフトバンク戦で第1号の本塁打を放つと、その後はレギュラーの座を射止めた。

彼がブレイクした一方でこんなことを考える。

もし郡司が中日にいたままだったらどうなっていただろうか。

一つ言えるのは、立浪監督にサードで起用するという発想はなかった―。これは断言できる。

現役時代に屈辱を味わった新庄監督

新庄監督と立浪監督は、3年目になって両者の「監督の差」が浮き彫りになったが、なぜ新庄は監督として成果を出すことができたのか。

私は大きく二つの理由があると見ている。

一つは、同じように現役引退後コーチ経験がないまま監督に就任した広島の新井(貴浩)監督と同様に、「現役時代に味わった苦労の差」によるところが大きい。

たしかに新庄監督は立浪監督と同様、現役引退後はコーチとして一度もユニフォームを着た経験がない。彼が引退したのは2006年であることを考えると、現場へのブランクは立浪監督よりも3年長い。

15年もの間、日本ハムを除く11球団から指導者としてのオファーがなかったところに、突如として日本ハムからの監督就任要請。世間も驚いただろうが、球界の人間もあっと言わせるには十分すぎるほどのインパクトがあった。

一方で、新庄監督の現役時代に目を向けると、決してエリートだったわけではないことがわかる。

1989年のドラフト5位で阪神に入団してから2年間は二軍でじっくり鍛えられ、3年目となる92年にメキメキと頭角を現してきた。

そのルックスと奇想天外な考え方は、それまでの阪神にはないキャラクターとして多くの阪神ファンの心をつかみ、一躍スターダムにのし上がっていった。

嫌な気持ちを味わってほしくないという思い

けれども、そこから先は決して順風満帆だったとはいえない。

1995年に当時の監督だった藤田平と衝突し、この年のオフには「野球のセンスがないって見切った」と言って、突然の引退宣言をしてしまう。

この発言はのちに撤回されたが、その後は打撃では思うように成績が上がらず、1997年のオールスターでは、阪神ファンのみならずセ・リーグの応援団から応援をボイコットされる。「新庄帰れ」コールまで起こった。

それにとどまらず、「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と掲げた横断幕までスタンドに現れた。これほどまでに屈辱的な出来事はない。

新庄自身、当時の心境を引退会見のときにこう話している。

「あのときのショックな気持ちはいまだに忘れない。選手は一生懸命にプレーしているので、たとえ不調であっても応援してほしい」

野球を真面目にプレーし、思うような結果が出ていなかっただけである。それにもかかわらず、味方であったはずの阪神ファンからもこのような仕打ちを受けたのだから、プライドはズタズタになったに違いない。

だからであろう、選手に対して厳しいことを言っても、決して腐すような言い方はしない。

新井監督と同様、自身が体験した嫌な思いを、選手には味わってほしくないと考えた末の発言をするあたり、彼の歩んできた過去の苦労の一端がうかがえる気がした。

江本孟紀
現在はプロ野球解説者として活動。ベストセラーとなった『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(ベストセラーズ)、『阪神タイガースぶっちゃけ話』(清談社Publico)をはじめ著書は80冊を超える