「邦画は全然ダメだ。僕らが8ミリで撮っている方が面白いんじゃないか?」黒沢清監督を動かした“不遜な思い”〉から続く

立教大学で蓮實重彦氏との運命的な出会いとともに、黒沢清監督は自主映画作りを続けていく。そんなときに手伝いを誘われた映画が、『太陽を盗んだ男』だった。好評インタビューシリーズの第6弾。(全4回の3回目/4回目に続く)

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『太陽を盗んだ男』(販売元:ショウゲート)

『太陽を盗んだ男』で初めてプロの現場を体験

―― 8ミリを撮りながら、黒沢さんもプロの現場に参加されるようになっていくんですね。

黒沢 それは本当にたまたま、長谷川和彦監督と知り合ったので、『太陽を盗んだ男』という映画を撮るから現場に付けと言われて。脚本を書いている時からずっと付き合っていたんですけど。僕が大学4年生の時です。全然大学には行けず、『太陽を盗んだ男』が終わって大学に戻ってみると、5年生になっていた(笑)。

―― それで5年かかったんですね。

黒沢 だから就職活動をする時期に全くそんなことは考える暇もなく、『太陽を盗んだ男』の現場に居たということでした。

―― 『太陽を盗んだ男』の現場ではどんなことを感じました? プロの現場を初めて見たわけですよね。

黒沢 いやー、やっぱり今思い出しても恥ずかしくなるほど生意気でしたよね。

―― 制作部だったんですか?

黒沢 制作進行の一番下っ端の弁当運びでした。いくつか「うわ、プロはすごいな」というのはありました。まず照明がすごいなと。「こんなでかい照明であんな遠くのものに当てるんだ」「これはかなわないな」と。ライトをスチロール板に反射して当てると、柔らかくなって全体に当たる間接照明。これを『太陽を盗んだ男』の現場で初めて知った。「反射光で当てるんだよ」というのは、僕が大学に戻ってSPP内でも広めたんです。そういう照明は本当に勉強になりました。

 ただ、長谷川さんが撮っているのを見ていて、制作進行なんだけど「このカットは要らないんじゃない?」とか、「僕だったらこう撮る」とか。それは自分がすでに8ミリを撮っていたという、何か妙な自信があって、結構客観的に「なるほどね。このカットは確かにいいかもな」とか、「これ要らない」とか、すごく冷静なつもりで見ていました。

―― 監督にはそう言わなかったんですか?

黒沢 時々言いました。「ここ、こう撮りませんか?」とか。

―― それを聞いてくれたんですか?

黒沢 「おお、そうか」って、それはいい感じだったんですよ。「なんだこいつ」とみんな思っていたかもしれませんけど、僕は何の疑いもなく、「長谷川さん、長谷川さん、これ、こう撮ったほうがいいですよ」と言うと、「おお、そうか。ちょっと考えておくわ」とか言って、長谷川さんも対処してくれて。そう撮ってくれたり無視されたりはしたんですけど、懲りずに時々は「ここ、こっちから撮ったほうがいいと思います」とか言ったりしてました。

―― それは現場の人たちから見ると、すごい驚きでしょうね。

黒沢 たぶん驚きだったと思うんですけど、「まあ、あいつは特殊だから」ということで、みんな苦笑いしつつ許されていたんでしょうね。それが許される環境だったんですよ。日活の流れをくむ、もともとは今村昌平組からつながっている人たちで作られたヒエラルキーなんですけど、長谷川さん自身が今村昌平の『神々の深き欲望』では、一番下っ端にもかかわらずメチャクチャ生意気なことを言って、驚かれつつ可愛がられたみたいな流れがあったので。これが東映だったりしたら大変だったと思うんですけどね。

―― 演出部に相米(慎二)さんがいたんですよね。

黒沢 チーフ助監督は相米さんでした。ただ、予定どおりには全然進まないんですよ。クランクアップがひと月ぐらい遅れたのかな。そうすると、一番上のプロデューサーはいるんですけど、制作担当の人とかは次の仕事が入っていて、現場からいなくなるんです。すると、僕は一番下っ端だったんですけど、だんだん責任が重くなってくる。撮影後半になってくると、長谷川さんだけでは撮り切れないというので、チーフ助監督の相米さんが別班B班で、後ろ姿が沢田研二そっくりという人を使って、双眼鏡で原発のほうを見ている姿とかを撮り始める。

―― あれ、吹き替えなんですね。

黒沢 そうなんです。沢田研二さんがいなくても撮れそうないくつかのカットは、B班の相米さんが撮ることになって。制作部も人がいないので、B班の制作主任が僕になったんですよ。

―― すごい大出世ですね(笑)。

黒沢 だから、後半は相米さんと僕と、本隊とは違うカメラマンの方と、沢田研二のそっくりさんと、どこかに泊まりに行って……僕がお金を持ってるんですよ。

―― ロケ場所も探したり?

黒沢 そう。僕が探してきて。

―― すごいですね(笑)。現場初体験の大学生なのに。

黒沢 僕が出世してそうなったんじゃなくて、『太陽を盗んだ男』がだんだん自主映画化していったわけです。

―― 大作なんだけど。

黒沢 そうなんですよ。日本映画において、商業映画の現場も僕がやっていた8ミリ自主映画の現場も、実はそう変わらず地続きでつながるんだなというのは実感しましたですね。

―― 『太陽を盗んだ男』は高校の時に見てすごく感激して、映画館にも2回行きましたけど、お客さんはあまり入ってなかった。

黒沢 そうでしょうね。とにかく大変でしたけれど、僕にとっては貴重な経験になりました。

『セーラー服と機関銃』で相米組に参加

―― その流れで『セーラー服と機関銃』にも付かれたんですね。

黒沢 『太陽を盗んだ男』の後、チーフ助監督の相米さんが『翔んだカップル』でデビューするんですね。そうすると、『太陽を盗んだ男』の演出部が、みんな『翔んだカップル』の相米組に付くんです。僕はてっきり、『太陽を盗んだ男』は制作部だったんですけど、『翔んだカップル』では演出部、助監督の一番下っ端で付くのかなと思っていたら、「お前まで相米に付いたら、長谷川和彦に付く人がいなくなるだろう」と言われました。長谷川さんが次にやろうとしているものがいろいろあったんですけれども、それの脚本作りのお世話をする長谷川さん付きの助監督ということになったんです。

―― 相米さんの配慮で「そっちへ行け」と?

黒沢 相米さんの配慮なのか、誰の配慮なのか。それで、長谷川さんの専属助監督。そうしたら、『翔んだカップル』の後、『セーラー服と機関銃』をやるとなった時、みんなが「このままだと黒沢は全く仕事がないな」とかわいそうに思って、長谷川さんも「ちょっと行ってこい」というので、『セーラー服と機関銃』は特別に長谷川付きの助監督が相米組の一番下っ端に付かせていただいたという流れで付いたんです。

―― なるほど。

黒沢 『セーラー服と機関銃』が終わったら、また僕は長谷川さんに付いて、相米さんはその後、相米組の助監督の方たちとどんどん撮っていくんですが、僕はずっと長谷川さん付きの助監督、長谷川さんが次撮るための準備の助監督ということで、今日まで来ているという。

―― まだ続いている感じですか(笑)。

黒沢 長谷川さん、撮らないから(笑)。だから、長谷川さんがガンガン撮っていたら、僕の人生は変わっていたかもしれません。相米さんの助監督をずっとやるようになっていたら、また人生変わっていたかもしれませんけど。相米組にも1本しか入れず、長谷川組に回されてしまったので、今日の僕になっていったという変な偶然があるんですね。

ディレクターズ・カンパニーのメンバーに

―― その期間中に立教にもよく来ていて、8ミリも撮られていたということですよね。

黒沢 そうですね。ですから、商業映画の世界では妙な付き人のようなポジションでいつつ、大学は5年で卒業したものの、当然就職などというものはできず。と言いながら、のんびりしていたんですけどね。「映画作りたいな」という思いと、「この先どうやって仕事をしていったらいいんだろう」という思いとが、のんびりとした中で入り交じり、映画を撮るならやっぱり8ミリ、SPPを基盤にして作るかなと。で、SPPの皆さんと短編を作らせてもらったり。『逃走前夜』とかですね。

―― 花火を打ち合ったりしていた映画ですね。

黒沢 SPPの人たちに荒川の河原まで来てもらって、一斉に花火をぶつけるというのを撮らせてもらったりしたんですけど。そんなことをしつつ、半分は商業映画に足を踏み入れていました。

―― その時期にディレクターズ・カンパニーというのができた。

黒沢 そうです。相米さんの『セーラー服』が終わったちょっと後だったと思いますけど、長谷川さんがディレクターズ・カンパニーを作るというので、僕はその時は完全に助監督というような立場で、「お前も参加しろ」と言うから。しかも、当時はまだわずかですけれども月給がもらえる。月8万とかそんなものですけど。そんないい話はないというので、「入ります、入ります」と言って、ディレクターズ・カンパニーに参加させていただいたんです。でも、助監督ではあるんですけど、一応監督扱いされて。

―― 監督の会社だから、監督の一人として黒沢さんがいて、でも8ミリしか撮ってない監督です、という感じでしたね。

黒沢 変な感じでした。他のちゃんとした、根岸吉太郎さんとか、相米さん、長谷川さん、高橋伴明さん、大森一樹さんとかに交じって、「『しがらみ学園』の黒沢です」といって並んでいるんですけど、事務所に行くと長谷川さんの助監督という立場なんですよ。でも、月給をくれるというのは大変ありがたいことでした。

〈「こんなものは公開しない」日活が異例の納品拒否した黒沢清監督のロマンポルノ作品が『ドレミファ娘の血は騒ぐ』になったわけ〉へ続く

(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)