「本に溺れる」をコンセプトにした松本十帖の「オトナ本箱」スペース。以前の大浴場を利用し、まるで湯船に浸かったかのように過ごせる(写真:松本十帖提供)

国内・海外旅行が再び熱を帯びている。旅行をするときに、あなたは観光地に何を求めるだろうか。グルメ、ホテル・旅館の雰囲気、行き先の地ありきなどなど……さまざまな理由があるかもしれない。例えば、その街の歴史やカルチャーに魅せられる旅はいかがだろうか。

そんな旅の目的地として、長野県松本市、浅間温泉の複合施設「松本十帖」を紹介する。1万冊以上の本を揃えるブックホテルや温泉、カフェなどが点在し、その街ならではの文化を体感できる場所だ。では、たずねてみよう。

文豪たちがこもる街、松本浅間温泉

長野県松本市の北東部に存在する浅間温泉。“松本の奥座敷”と呼ばれるこの地は、飛鳥時代の開湯から1300年以上続く、由緒正しき温泉街だ。

かつては松本城の殿様が足を運び、温泉で体を癒やし、明治・大正時代には、竹久夢二、与謝野晶子、若山牧水、正岡子規ら多くの文人がこの地に滞在し、作品を生み出していた。


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温泉街といえば、かつては団体旅行を受け入れる旅館が集まったエリア、という印象がある。実際に団体旅行が影を潜めてからは、どの温泉街も寂れ、街は活気をなくしていった。もちろん松本浅間温泉も例外ではなかった。

そんな中、2018年3月に始まったのが、300年以上の歴史を持つ老舗旅館「小柳」の再生プロジェクト「松本十帖」だった。

【写真】松本十帖の広々とした部屋からは、松本市街を一望できる。大人の遊びココロを探す「オトナ本箱」や、大浴場をリノベーションしたブックプール「こども本箱」も魅力

松本十帖を担う、株式会社自遊人(小柳・支配人)の小沼百合香(こぬまゆりか)さんは

「リノベーション前の『小柳』は、あまり街に開かれておらず、“敷居が高い”と言われるような宿だったのです。

『小柳』の再生を引き受けたときに、宿泊者以外の観光客や地元の方々が足をのばせる、開けた場にすることが必要だと思いました。場を開くことで訪れる人の流れが変わり、街の空気が変わっていくのではないかと考えたからです」と話す。


遮るものが少ない広々とした部屋。松本市街を一望できる(写真:松本十帖提供)

広大なエリア内には2つの宿泊施設「小柳」と「本箱」があり、そのほかブックストアや温泉、2つのカフェ、レストラン、ベーカリーなどが点在している。

「温泉街を人々が回遊すること」をイメージしているからだ。またこれまでは閉じていた旅館を街に開放するため、施設入り口を4カ所設けた。


個室でも浅間温泉を楽しむことができる(写真:松本十帖提供)

一見するとそれぞれの機能がそろってこそ松本十帖なのだが、ふと眺めると、街に溶け込みそれぞれが独立している施設のようにも映るから面白い。

文化と哲学を感じる「本」をテーマに場を開く

松本十帖の楽しみ方は訪れた人に委ねられている。その可能性は無限大だ。だが、このエリアで印象的なのは、“文化”を起点にしていることだろう。

2つのホテルのうち、1つは”本”をテーマにしたブックホテルだ。「豊かな知と出会う」をコンセプトに、5つの読書空間と、ブックストア「松本本箱』を併設する(宿泊者以外のストア利用は要予約)。

旧小柳の装いを残しつつリノベーションした館内は、5つの本のエリアから空間が作り上げられている。エントランスから館内に通じるゾーンには「本の道」コーナー。

抜けて現れるのは、厳選して選ばれた知の結集たちが集う「げんせん本箱」に、アートやファッションなど、大人の遊びココロを探す「オトナ本箱」が並ぶ。


「オトナ本箱」スペース。タイルのテーブルやのれんが大浴場の面影を感じさせる(写真:松本十帖提供)

もちろん子どものための憩いのスペース「こども本箱」も。そして、レストラン「三六七(367)」にもブックコーナーを併設。信州の風土や歴史を目と舌とで味わうのだ。

このようにテーマで空間が分かれており、写真集や画集、エッセイや入門書を中心に約1万冊がそろう。選書したのはブックディレクターの幅允孝(はばよしたか)さんが率いるチーム『BACH』と、日本出版販売の選書チーム『ひらく』。

どこも落ち着いた色合いのトーンでしんと静まる空気、本を熟読するのにふさわしい空間だ。ホテル宿泊者はブックストアの閉店後も共用部で自由に本を読むことができる。


大浴場をリノベーションしたブックプール、「こども本箱」。2000冊の絵本が並ぶ(写真:松本十帖提供)

昨夏、私は系列のホテルである「箱根本箱」に滞在した。1日中本の空間、それも寝ても覚めても浸ることができるのは至福の極みだ。1万冊もあると何を選べばいいのか迷う。その迷うことすら楽しい。

お気に入りのジャンルに手をのばすもよし、直感で選ぶもよし。限りない時間と空間を独り占めすることができるのは、「本箱」ホテルだからできることなのだろう。

静かな古民家カフェで、自分の時間に集中

日帰りで訪れる人も本箱ストアに足をのばしたら、ぜひそのままカフェ「哲学と甘いもの。」へ。

ホテルから湯坂を上って徒歩2分ほどの場所に緑の屋根が印象的な古民家がひっそりと存在する。


夕暮れ時の「哲学と甘いもの。」は、漏れる照明が美しい(写真:松本十帖提供)

大正時代の2軒長屋を改装した建物の扉をガラリと開けると、清閑なる空間が広がる。ここのテーマは「自分を見つめる」「人生を考える」場所。

書棚には多数の哲学書が並ぶ。ブックストアで購入した本を読むこともいいだろう。思考を巡らせるため、パソコンのキーボード音は禁止、おしゃべりは「ヒソヒソ声」のみ。じっくりと自分の時間に集中できる。


静寂の中で淹れる1杯は、香りや音が際立つ(写真:松本十帖提供)


自家製プリン。きりりとしたカラメルが甘さをやわらげる(写真:松本十帖提供)

疲れた体に染み渡るのが甘いものだ。自家製プリンは程よい固さで、きりりと苦いカラメルが脳に体にと刺激を与える。

かつての文豪たちがどのように過ごしたのか、そんなことを頭に思い浮かべながら知識の空間に浸るのを一度は体験してみると、松本という「街の見え方」が変わるかもしれない。

(永見 薫 : ライター)