ホームラン歴代3位の奇才・門田博光が命懸けでフルスイングを教えた「唯一の愛弟子」
南海時代の門田博光。現役引退後にNPBの指導者になることはなかったが、社会人からNPB入りへと導いた愛弟子がいた(写真/産経ビジュアル)
今シーズン、日本野球機構(NPB)にファーム(2軍)リーグ限定で新規参戦した「くふうハヤテベンチャーズ静岡」(以下、くふうハヤテ)。同時に参戦した「オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」は独立リーグの老舗球団だったが、くふうハヤテは母体も何もない、まさしくゼロから立ち上げられたチームだ。
開幕から約3ヵ月が過ぎた6月末、くふうハヤテに密着取材し、野球人生をかけて新球団に入団した男たちの挑戦を追った。
前回に続き、かつて不動のショートとして活躍した横浜戦士、倉本寿彦に、NPB12球団復帰にかける思いを聞いた。(全15回連載の14回目)
■「どうせやめるんやろ」
大学ではドラフト指名漏れし、子供の頃から憧れたプロ野球選手になる夢を叶えるため、社会人野球(日本新薬)に進んだ倉本寿彦。「今年指名されなければ区切りをつける」と決めて挑んだ社会人2年目の2014年シーズン開幕直前、臨時コーチとして1週間だけ指導に来た門田博光氏との出会いが夢の実現に繋がった。
「門田さんについて、周りからは『すごく厳しい人』とか『人を寄せつけない』とか聞かされていました。でも実際お会いしてみると、僕自身は全然、気難しい人とは感じませんでした。
野球から離れたときはむしろ気さくで、ユーモアもある方だと知りました。僕としてはお話もしやすかった。事前に伺いたいと考えていたことは全部質問して、それに対して丁寧に細かく教えていただきました。結局、最終的には1週間、自分だけほぼ付きっきりで指導いただけました」
門田は44歳まで現役選手を続け、日本野球史に燦然と輝く数々の記録を残しながら、指導者としてNPBの現場に立つことはなかった。良くいえば我が道を歩み他人に媚びない。しかし捉え方によっては、頑固で偏屈な変わり者と思われた。そんな門田に、プロ野球選手を目指して「最後の挑戦」と覚悟を決めていた倉本は、臆することなく教えを求めた。倉本の覚悟を悟ったように、門田の指導は日を追うごとに熱を帯びていった。
「当時、門田さんに言われた言葉で今も強く印象に残っているのは、『どうせやめるんやろ』という言葉です。指導された後、『俺がいくら教えたところで続けずに、お前たちもどうせ途中でやめるんやろ』と。(門田は大坂ホークスドリームで)指導した経験はあった。でも結局、教えをやり通した選手は一人もいなかった、みたいなことを言われました。そのとき僕の心に火が点いたというか、『それなら自分は、1年間やり切ってみせる』と自分自身に誓いました」
倉本も、もちろん根拠もなく信じようと決めたわけではない。孫と祖父ほど歳の離れた門田の現役時代は過去の映像でしか見たことはないが、初めて指導を受けた日、倉本は、門田がお手本で見せてくれたティーバッティングでのスイングを見て、超一流打者ならではの感覚を察したからだ。
「衝撃的でした。めちゃめちゃきれいな一本足打法で、フルスイングしているのにしなやかで柔らかくバットをコントロールして、実際に見たことはなくても、活躍した現役時代の姿を連想させてくれました。
門田さんは当時、すでに糖尿病による腎不全などで体調はだいぶ悪いようで、人工透析が欠かせない状態でした。本来はバッティングどころか体をまともに動かせるような状態ではなかったように思います。それなのに、『倒れて血が出たら止まらなくなるから、あまりできないけど』と言いながらバットをフルスイングして手本を示した門田の姿に、倉本は「吸い込まれていきました」と話した。倉本は「もし夢を叶えられるとすれば、門田さんの教えを信じ、身につけることが唯一の方法」と思ったそうだ。
「門田さんからは練習のたびに『ひとりでバットを振る時間を大切にしなさい。どれだけ遅く家に帰っても、次の日、どれだけ朝早かったとしても、毎日真剣に、全力で100回、バットを振りなさい』と言われました。素振りをするときは必ずひとりで、バットが空気を切る音を確認するようにも言われました。
練習は、1kgの重くて長いバットを使って、重いボールをひたすら打ち返す練習を繰り返しました。当時は余計なことは考えず信じて続けましたが、原始的に思えるような練習も、のちのち振り返れば理にかなっていることばかりでしたね」
チームの臨時コーチとして来たはずの門田は、数日後には他の選手には目もくれず倉本だけを教えるようになった。スイングは360度の円を描くようにして、思い切り体を捻りながら振る。空振りをしたときは吐いてしまうほど全力で振り切るように指導された。何をするにも全力、全力、全力。100パーセントではなく120パーセントの力を振り絞る。ただし無駄に長時間の練習はさせなかった。
初日、「どうせやめるんやろ」と口にした門田は、倉本には「自分で決めたことは貫け」と話した。わずか1週間だったが、倉本にとっては野球人生で最も充実した濃密でかけがえのない時間になった。
倉本は若手選手にも積極的にアドバイスを送るなど、くふうハヤテでは頼れる兄貴分として慕われている
■生き残るために捨てた恩師の教え
2014年シーズン、倉本は門田の現役時代を彷彿とさせる一本足打法で7本塁打を記録する活躍で、都市対抗野球でも大会優秀選手に選出された。ちなみに通算本塁打は、高校時代は3年間で3本。大学時代は4年間で5本だった。
倉本は、門田本人から直接言われたことはなかったが、「自分と似たような、フルスイングを常とするホームランバッターに成長してほしい」という思いを人づてに聞いた。プロ野球で567本もホームランを打った門田だが、高校時代は1本も打てず、その後の努力で稀代のスラッガーになった。そんな自分とどこか重ね合わせて見ていたのかもしれない。
倉本自身も、門田の現役時代の打撃フォームを繰り返し見て研究し、偉大なる恩師に少しでも近づけるようにと努力を重ねた。韓国・仁川で開催されたアジア競技会では侍ジャパンに選出されて主力で活躍した。実績が認められ、倉本は同年10月のドラフト会議で横浜DeNAベイスターズから3位指名された。
プロ入りが決まった際、倉本は門田に直接会って報告しようと思い連絡した。門田の体調はさらに悪化し外出もままならない状態だったが京都で落ち合い、ふたりで食事することができた。
「あらためてドラフト指名されたことをお伝えしてお礼すると『まだまだ』と言われました。でも喜んでくださっている雰囲気は伝わってきました」
プロ1年目、倉本は大洋時代の野口善男(1971年)以来、球団としては44年ぶりに新人ショートの開幕スタメンの座を獲得した。しかし守備では一定の評価は得たものの、規定打席には未到達で打率.208、本塁打2。打撃面では満足できる成績は残せなかった。
2年目の2016年シーズン、倉本はプロで生き残るため大きな決断をした。長くて重いバットをフルスイングして本塁打を狙う一本足打法から、前年終盤から模索し始めた、短いバットで確実に安打して出塁を狙う、摺足(すりあし)打法に本格的に方向転換すると決めたのだ。しかしそれは恩師門田の教えを捨てることを意味していた。
「模索し始めたのは前年、2015年シーズン最後、残り15試合くらいのときですね。NPBには僕よりもホームランの打てるバッター、長距離を狙えるバッターはいくらでもいることを思い知らされました。その中で、僕が内野手として出場機会を得て生き残るためには、バッターとしてもっと出塁できなければ厳しい、と痛感しました。
同じ左バッターで、その年、首位打者と最多安打を記録することになるヤクルトの川端(慎吾)さんのように、たくさんヒットの打てる打者になりたいと思っていたのですが、運良く(川端から)アドバイスいただける機会を得ました。さらにありがたいことに、川端さん本人から直接、バットをいただくことができました。
重さは変わりませんが、短くて重心がグリップの近く、手元にあるので飛距離は出せない。でもこのバットがドンピシャにはまって打てるようになりました。なるべくボールから目線をぶらさず、確実にコンタクトできるように一本足から摺足の二段ステップに変えて、打球方向もライト方向狙いから、レフト方向狙いに変えることを試し始めました。次のシーズンはこのスタイルで勝負すれば生き残れるかもしれない、という手応えをつかみました」
倉本は考え抜いた末、翌シーズンからは長くて重いバットを使い、一本足打法でフルスイングする打ち方から、短いバットで確実に安打を狙う打ち方にすると決めた。門田に報告すると、短くこう言われて電話を切られた。
「好きにせい」
(つづく)
●倉本寿彦(くらもと・としひこ)
1991年生まれ、神奈川県出身。横浜高では後輩の筒香嘉智らと共に夏の甲子園でベスト4。創価大から社会人の日本新薬を経て2014年ドラフト3位でDeNA入団。1年目は65試合にスタメン出場。2年目にショートのレギュラーに定着し、3年目の2017年シーズンは全試合出場した。22年に戦力外通告を受けて日本新薬に戻った後、くふうハヤテに移籍しNPB12球団復帰を目指している
取材・文・撮影/会津泰成