フィンランドでお世話になった家族は買い物の際、自然とオーガニックの卵を手にしていた(写真:筆者撮影)

あるときはキューバの家庭の台所に立ち、またあるときはブルガリアでヨーグルト料理を探究して牧場へ向かう。訪れた国と地域は25︎以上、滞在した家庭は150以上。世界各地の家庭を巡りながら一緒に料理をし、その土地の食を通じて社会や暮らしに迫る「世界の台所探検家」の岡根谷実里さん。今回はフィンランドとアイスランドの台所からお届けします。

買い物で「いい商品」を自然に選択

フィンランドの家庭に滞在中、買い物に行くと、いつもどきどきしていた。家族は「いい商品」を自然に選択するのだ。環境によいもの、動物の権利に配慮しているもの、倫理的なものーー。特別意識が高いわけではなく、声高にサステナビリティを唱えるのでもなく、自然にそちらに手が伸びるというか。

理由を聞くと、ちょっと考えながら説明してくれるけれど、論理的に考えて吟味して選んでいるというよりも、「だってこっちのほうがいいよね?」というくらいさらりと決めているように見えるのだ。


家のテラスで食事ができるのは夏の間だけ。短いこの季節を必死に楽しんでいた(写真:筆者撮影)

湖に囲まれたフィンランド東部に住むこの家族は、夫婦ともに獣医で、3人の子どもたちは小学校から大学まで皆公立の学校に通っている。特別豊かでも貧しくもなく、フィンランドに住む他の人たちと同じくらい森が好きで、よくベリーやきのこを摘みにいく。そんな家族だった。

野菜や穀物はできるだけ近隣で生産されたものを選ぶ。「多少高いけれど、農業は国土と風景を作るものだからね。私はフィンランドの風景が好きで、美しいライ麦畑がずっと続いてほしいから」。

卵は必ずオーガニック。EUのオーガニック基準では、オーガニック飼料を使うだけでなく、群れあたりの飼育羽数や飼育環境にも基準があり、鶏にストレスの少ない環境で育てられている。「何でもかんでもオーガニックを選ぶわけではないけれど、卵は高くてもオーガニックのものを買うと決めているの。鶏が生き生きと生活できる環境で育てられているからね」と彼女は言う。

日本の卵は鶏舎でのケージ飼いが一般的。一羽あたりの床面積はB5サイズ程度しかなく、過密な環境でのストレスや、つつきあいで羽は落ちてボロボロな姿になる。低コストで衛生的に卵を生産できる日本の鶏舎技術は世界でも高い水準で、「価格の優等生」と呼ばれる卵を供給し続けた貢献は大きい。

一方で、アニマルウェルフェア観点からは課題があるのもたしかで、EUではケージ飼いは禁止されている。なのでどの卵を買っても軽量ケージや平飼いなど「それなりにいい環境」で育ったことは保証されている。しかし彼女は獣医という職業柄もあって、家畜の飼育環境には関心が高く、それでは十分でないと感じるのだそうだ。

「オーガニックの規定を満たした養鶏場のほうが、より広々とした自由な環境で鶏を飼育している。私は喜んでそこにお金を使いたいと思うの」。スーパーに行けばひたすら一番安い卵を狙って買う自分は、一緒に買い物に行くたび常に恥ずかしくてならなかった。

商品パッケージにもさまざまな「メッセージ」

別の家族と年末のスーパーに行った時は、クリスマス後で安くなっているスモークサーモンを手に取った母さんがふと手を止めた。「こっちはノルウェー産だけれどあっちはフィンランド産でMSC認証付き。認証はあんまりわかんないけど、少しの値段差ならあっちにしようかね」と棚に戻して1割ほど割高な方に手を伸ばした。MSC認証とは、水産資源等に配慮した持続可能な漁業に関する認証だ。

マーガリンの蓋を開ければ、「この容器は従来のものより38%プラスチック使用量を削減しておりリサイクル可能です」という中蓋のメッセージに遭遇する。


マーガリンの蓋をあけると……なお「エルフ」はブランド名「Keiju」の誤訳(写真:筆者撮影、Google翻訳を使用)

チョコの箱を開けると、原料のカカオ豆がいかに公正で環境負荷の低い方法で生産されたかが語られている。お米のミルク粥の作り方を確認しようと米の袋の背面を返したら、レシピではなく「省エネクッキングのコツ」が指南された。なんてこった。


お米のパッケージの裏には、「もっと環境にやさしい行動をするには」のヒントが。(写真:筆者撮影、Google翻訳を使用)

はたしてこれらのメッセージは、人々の購買の後押しになるのだろうか。わからないけれど、まったく関心に上らない事柄だったらこんなにパッケージの目立つところに書かないだろう。恥ずかしながら、私はそこにグッと惹かれる人間ではない。だからそんな表示を見ると、自分が品格の低い人間だという事実を突きつけられているようで直視できず、目を逸らしてしまうのだった。

「ソーシャルジャスティス」って何?

北欧のアイスランドでお世話になったソフィアさんも、そんな「ちょっといいものを手に取る人」の1人だった。大学の教育学部で研究しているからか、わからないことは根気よく教えてくれる姿勢の持ち主で、社会的な視点ももっているので思い切って聞いてみた。

「どうしてちょっと高いものを、自分には別に得がないのに選ぶことができるの?私にとっては安いとか、おいしいとか自分にとっての利益が大事で、人のために追加でお金を払おうと思えないんだけど」

すると彼女は私の目を見て言った。「ソーシャルジャスティス(social justice)って聞いたことある?アイスランドはじめ北欧諸国で基盤となる考え方だよ。私の専門の教育分野でもこの概念は大事で、社会のあらゆる場面で礎となっているんだ」。


彼女の働く大学内のカフェテリア。6種類のゴミ箱があり、「責任ある分類を」と書かれていた

ソーシャルジャスティス?直訳すると、社会正義。聞いたことがあるような、ないような。なんとなく意味は想像できるけれどよくわからない。

しかし、調べてみると、たしかにこのソーシャルジャスティスという考え方は生活や社会の隅々に通じていて、買物はじめ食のシーンで感じていた日本とヨーロッパの違いの原因が、少し理解できるような気がした。

ソーシャルジャスティスという言葉の発祥は、18世紀末に遡る。イギリスから産業革命が始まる中で、資本家による労働者の搾取に対して抗議の表現として登場したもののようだ。19世紀に入り、産業革命とともに労働問題がヨーロッパ全土に広がっていくと、進歩的な思想家や政治活動家の革命的なスローガンとして広まっていった。

そんなうねりのなかで、1919年国際労働機関(ILO)が設立される。ILOは、労働者の労働条件と生活水準の改善を目的とする国際連合の専門機関で、国連組織の中で最古の機関である。そのILO憲章の冒頭に掲げられているのが、以下の一文だ。

「世界の永続する平和は、ソーシャルジャスティスを基礎としてのみ確立することができる」

労働者の権利を保障するために生まれたソーシャルジャスティスという概念は、100年あまりの時を経て、世界平和の礎ともなる考え方として明文化されたのだ。

労働は、あらゆる生産活動の原動力だ。そこに畑があっても、人が動かないと小麦は育たないしパンはできない。人が働くことで物やサービスがうまれるわけで、その労働の対価が最終的な値段に反映されていると考えると、安いものの裏には不当な労働がある可能性がある。

「環境正義」という概念の根本にあるもの

食も例外ではない。安価なチョコレートの裏に正当な労働はあるのか。低賃金で長時間働いたり、劣悪な環境だったり、子どもを働かせたりはしていないか。フェアトレードという概念にも通ずるそういった意識が生まれてくるのは、歴史の流れを考えると自然なことかもしれない。

この考えを発展させると、人権や差別といった問題に関心は広がり、さらに、動物に不当な苦痛を強いていないか、自然資源を搾取していないか、といった人間以外の周辺環境に広がっていく。

1980年代のアメリカでは「環境正義(environmental justice)」という概念が生まれ、社会運動となっていった。なるほどと思ったのは、その根本にあるのが「自然環境を搾取してはいけない」という自然界への正義心ではなく、「搾取することによって悪化した環境の被害を真っ先に被るのは社会的に弱い立場の人たちだから」という、人間社会に対する正義心であるという点だ。自分のためではないけれど、やっぱり自分たち人間のため、自分の生きる社会のための利益なのだ。


アイスランドの自然は、森と湖に囲まれたフィンランドとは全く違う茫洋とした風景だが、これもまた壮大で美しい(写真:筆者撮影)

欧米社会は、社会を自分と同一視する傾向、言い換えると市民が社会を作るという意識が非常に強いように思う。フランス革命・イギリス革命・アメリカ独立革命といった市民革命によって封建・絶対主義から解放され権利を勝ち取ったという歴史があるためか、市民というのは単に「住んでいる人」という意味ではなく、「社会を作る人」なのだという気概は日本よりはるかに強いものを感じる。

日本はそういった意味での革命が起こらず、古代より皇室が途絶えることなく続いてきた。確かに明治維新を経て政治は民主政治に移行したのでこれを革命とみることもできなくはないが、明治維新では西洋の革命に見られるような旧体制の打破や血生臭い争いは最小限に抑えられ、旧体制を残しつつ改変していくというものであったので根本的に性質が異なる。

そういうわけで、実は世界で最も長い連続性をもつ国なのである。欧米に比べて、選挙の投票率が低かったり政治参画意識が薄いと言われるのも、単に「意識が低い」という話ではなく、そういった歴史の連続性の中で生きていることが一因にあると考えることができるのではないか。深読みしすぎかもしれないが、そう考えると自分が悪い人間なんじゃないかという後ろめたさも少し救われるのでそう信じたい。


ソフィアさんも私も、リコリスという黒いキャンディが大好きで、長いのを切って夕飯後延々と食べ続けた(筆者撮影)

「環境が悪くなるのも、過酷な労働も、しわよせを受けるのはこの社会の中で弱い立場の人たちでしょう。移民もジェンダーもアニマルウェルフェアも、全部そう。自分がものを買うことで悪い社会に加担してしまいたくない、そういうことだと思うんだよね」。ソフィアさんの言葉は、確かに少しわかる気がした。

「社会のため」は「自分のため」?

「自分が住む家が汚れていたらいやじゃない?」の延長で「この社会が不当な営みの上に成立していたらいやじゃない?」という感覚なのだろうか。自分の生活する範囲をより広くとらえていると考えるとわかる気がする。

では日本にそういう思想がないかというとそうではなく、例えば被災地支援やコロナ禍での生産者支援としての「食べて応援」などは、集団意識を大事にすると言われる日本人らしい社会へのコミットメントではないだろうか。

ソーシャルジャスティスという言葉をまだ十分には理解できていないけれど、食が社会を作ることにこんなにも広く関わっていたのかと驚くとともに、食を通して社会が動かせるという確かな手応えと希望を感じたのだった。


帰りの空港に向かう道を運転してくれた。禿げた大地に見えて、雪が溶けた下からは青い草が顔を出していた(写真:筆者撮影)

ちなみに、ヨーロッパにおけるパッケージなどの変化の背景には、EU(ヨーロッパ連合)が掲げる欧州グリーンディールという政策イニシアティブなどの政治的な原動力もあることも無視できない。これについてはまた別の機会に触れることとしたい。


過去の連載はこちら

参考文献:
社会正義とILO(ILO駐日事務所)
Social and environmental justice (Forest Research)
「世界の奇跡」日本の天皇が滅びなかったワケ(宇山卓栄、東洋経済オンライン)

(岡根谷 実里 : 世界の台所探検家)