京都・東福寺(写真: ogurisu_Q / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第35回は伊周の失態と、一条天皇退位に向けた道長のエピソードを紹介する。

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伊周の傲慢さは「小心」の裏返し

状況が悪くなると、焦燥感からとんでもないことをやらかしてしまう。どうもそんな傾向がある人物だったらしい。藤原道長にとっては兄の息子、つまり甥にあたる藤原伊周のことだ。

伊周は摂政・関白となった父・道隆によって引き上げられて、一時期は道長を抜くほど出世したが、父が病死すると、道長が内覧・右大臣へと昇格。出世で道長に抜き返されたのは、傲慢な伊周への反発が宮中で高まっていたことも要因の1つだったようだ。伊周本人にその自覚があったのかどうかは怪しい。

この段階ではまだ挽回できたのに、伊周は花山院に矢を射かけるという前代未聞の事件を起こし(「長徳の変」)、居合わせた弟の隆家とともに、処分を受ける。

花山院に矢を射かけたのは、自分の意中の女性のもとに、花山院が通っていると思い込んだからだ。ところが、実際に花山院が通っていたのは、伊周が好きな女性の妹だったというから、あまりにも間が抜けている。

傲慢なふるまいとは裏腹に、伊周には事態を悪いほう、悪いほうに考える小心さがあったのだろう。それゆえに、風向きが悪くなると、暴走してしまう。人生を自らの手で台無しにすることは、このときだけではなかった。

強運の持ち主だった伊周

伊周が強運の持ち主だったことは間違いない。「長徳の変」で完全に失脚したかと思えば、道長の姉で一条天皇の母である詮子が病に伏せたため、その回復を願う恩赦で罪が許されて、京に戻ってこられた。

しかも、伊周の妹・定子は愚かな兄の不始末のせいで出家したにもかかわらず、一条天皇の心をとらえ続けて、懐妊したうえに、3人もの子を出産。

そのうち2人目は男の子で、一条天皇の第1皇子というから、伊周にとってはミラクルというほかはない。

その後、定子は亡くなるも、伊周はこの第1皇子である敦康親王の伯父として、影響力を再び持ち始めた。しかし、伊周が息を吹き返してきたそんなときに、道長の娘・彰子が懐妊。第2皇子の敦成親王が生まれることになる。


道長ゆかりの 京都・東福寺 五大堂同聚院(写真:鉄 / PIXTA)

ここでまた伊周の「暴走グセ」が出てしまう。それは寛弘5(1008)年12月20日、敦成親王の「百日(ももか)の儀」が開かれたときのこと。道長が孫の敦成親王を抱いて、その口に餅を含ませた。

和やかな雰囲気のなか、みなが盃を交わし合い、よい気持ちになり酔っぱらってきた頃、藤原行成が公卿たちの詠んだ歌に序題を書こうとした。

行成といえば、書の達人であり、彰子が一条天皇に入内するときに持参した屏風和歌でも、その腕前を披露しているくらいである。

ところが、このときに伊周が思わぬ行動に出た。行成から筆を取り上げたかと思うと、自作の序題を書き始めたのである。

道長が『御堂関白記』に「人々、相寄(あや)しむ」と書いているように場は騒然とした。それでも、いかんせん酒の席だ。みな酩酊しており、この段階ならば何とかできたかもしれない。

だが、伊周が行った「筆パフォーマンス」の内容は、誰も予想しないようなものだった。

伊周が行成から筆を取り上げて暴挙に出た

伊周は次のように、みなの酔いを吹き飛ばすようなことを書いた。

「第二皇子百日の嘉辰、宴を禁省に於いて合ふ。外祖左丞相以下、卿士大夫、座に侍る者済々たり。龍顔を咫尺に望み、鸞觴に酌して献酬す」

意味としては「百日の嘉日に、優れた方々の中に加わって天皇に間近に接し、盃をやりとりする」という他愛もないものだが、冒頭の「第二皇子」が問題だ。敦成親王が一条天皇にとって2人目の皇子であることをわざわざ強調し、第1皇子である敦康親王の存在を訴えているのだ。

さらに「隆周の昭王、穆王暦数長く、わが君また暦数長し」とし、天皇が昭王や穆王のように長く位にある……と書きながら、「隆周」に弟の隆家と、自らの伊周の名を潜ませている。

その後に「本朝の延暦延喜胤子多く我が君また胤子多し」と続けている。これは「桓武、醍醐天皇のように跡継ぎが多い」という意味となり、敦成親王だけではなく皇子女がたくさんいるんだ、ということを、改めてアピールしているのだ。

最後は「康きかな帝道。誰か歓娯せざらんや」としている。意味としては「安康な帝道よ。この御代を歓び娯しまない者があろうか」とお祝いにふさわしい言葉のようだが、この「康」には「敦康親王」の名が込められているという芸の細かさ。

こんなパフォーマンスをしたところで、「そうだ、第1皇子である敦康親王をもっと大切に扱おう!」とみなが思うわけもない。ただただひんしゅく買うだけの行動であるところが、なんとも伊周らしい。

伊周の外戚や縁者が、彰子や敦成親王、そして道長を呪詛したという疑いをかけられて、処罰されるのは、それからしばらくしてからのことだ。伊周がその首謀者として、処分されている。

一条天皇としては、彰子との間に敦成親王が生まれてもなお、亡き定子の忘れ形見である敦康親王こそ自身の後継者に、と考えていた。それだけに、伊周の力も必要としたに違いないが、みなから反感を買うなかで呪詛の疑いをかけられた状態では、フォローもできるはずがない。やむなく、一条天皇は伊周の朝参を停止させている。

伊周の失脚で一条天皇や敦康親王にも影響が

伊周が自身の言動のまずさから失脚するのは自業自得だが、そのことで、一条天皇や敦康親王の立場も悪くなる。そこまで思いが及べば、感情に流されずに、慎重な行動がとれたのではないだろうか。

道長は自身の孫である敦成親王を皇太子にするようにと、行成を通じて、一条天皇にアプローチしながら、盛んにある男のもとへと通うようになる。その男とは、のちに三条天皇となる居貞親王だ。

敦成親王が生まれるや否や、道長は「一条天皇の退位後」を誰よりも早く見据えて、動き始めたのである。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)