実は出世できるはずがなかった井伊直弼…彼はいかにして巨大な権力を持つ地位へ上り詰めたか?
「十四男」という立場
井伊直弼といえば、徳川幕府の大老として、日米修好通商条約を調印した人物としてよく知られています。
さらにその後、安政の大獄と呼ばれる条約反対派への大弾圧を行ったことで、後世に悪名を刻んでしまった人物でもあります。
安政の大獄によって彼は反対派の憤激を買い、桜田門外の変で暗殺されました。
『井伊直弼画像』井伊直安作、豪徳寺所蔵(Wikipediaより)
そんな直弼は、幕末の日本にあって、一時は巨大な権力を握っていたのですが、実は本来なら大老どころか、藩主にもなれるはずのない人物だったのです。今回はそんな彼の足跡をたどってみましょう。
直弼は、十一代彦根藩主・井伊直中の十四男坊として生まれました。
これだけ後の方の子供となると藩主となる望みはあまりに薄く、その待遇は藩主の息子としては最低のものだったとされています。
十七歳のときには、彦根城外に小さな屋敷と三〇〇石の捨て扶持を与えられて、静かに暮らしていました。
最後の跡取り
当時、大名家で嫡男以外が一発逆転を狙うには、他の大名家の養子になるしかありませんでした。
跡取りのいない大名家の養子になれば、その大名家の跡取りになれます。しかし、十四男である直弼にはその口もありませんでした。不遇の身分だったと言ってもいいでしょう。
現在の彦根城の天守
そんな冷や飯食いの生活が一転するのは、二十歳のときのことです。跡継ぎである世子・直元が病死したのです。
そのとき、直弼の兄たちはすべて他家へ養子に出ており、井伊家には直弼しか残っていませんでした。そこで直弼は、藩主だった兄・直亮の養子となり、井伊家の跡取りとなったのです。
その後、直弼は直亮からイジメを受けましたが、そこは耐えるしかありませんでした。耐えれば、藩主の座が待っているからです。
そして直弼三十五歳のときに直亮が死去、ついに十四男坊が彦根の藩主の座へと就くことになったのです。
時代の流れに乗る
そんな直弼に大老の座が回ってきたのは、井伊家の家格と、時代の流れによるものが大きかったと言えそうです。
井伊直弼像
一八五三年(嘉永六)、ペリー艦隊が浦賀にやって来ると、国情は騒然としました。
幕府内部では大老待望論が沸き起こりましたが、このとき、直弼も候補に挙がります。なにせ井伊家は徳川譜代大名の名門であり、歴代大老十一人のうち五人を輩出しているという実績を持っていたからです。
他にも大老候補のライバルがいましたが、直弼は権謀術数を駆使して、大老の座を射止めたのでした。
このようにして見ていくと、彦根藩主の十四男という不遇の立場からのしあがっていったのは、その知略と強運のおかげでもあったと言えるでしょう。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia