昨年10月に戦力外通告を受けDeNAを退団し、今季はくふうハヤテで戦ってきた田中健二朗(写真/くふうハヤテ提供)

写真拡大 (全3枚)


昨年10月に戦力外通告を受けDeNAを退団し、今季はくふうハヤテで戦ってきた田中健二朗(写真/くふうハヤテ提供)

今シーズン、日本野球機構(NPB)にファーム(2軍)リーグ限定で新規参戦した「くふうハヤテベンチャーズ静岡」(以下、くふうハヤテ)。同時に参戦した「オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」は独立リーグの老舗球団だったが、くふうハヤテは母体も何もない、まさしくゼロから立ち上げられたチームだ。

開幕から約3ヵ月が過ぎた6月末、くふうハヤテに密着取材し、野球人生をかけて新球団に入団した男たちの挑戦を追った。

今回は、NPB1軍への復帰を目指して、ファームでパーフェクトピッチングを続けていた田中健二朗(元DeNA)の戦いに迫る。(全15回連載の7回目)

【写真】「永久欠番」の名監督になっていた元阪急の2番打者

■防御率0.00

NPB12球団復帰について聞くと、田中健二朗は開口一番こう答えた。

「ただただ野球がしたい。しがみついてでも続けたい」

インタビュー用に用意された部屋に現れた田中は、リングに上がるボクサーのような鋭い眼光。近寄りがたさを感じると同時に、NPB12球団復帰をかけて、今どれだけ強い覚悟を持ち挑んでいるかが伝わってきた。

取材時の6月末時点では、ウエスタンリーグ15試合に登板して防御率0.00。調整もありこの所、登板からは遠ざかっているが、開幕以来、未だ1点も与えない完璧な投球を続けていた。

「決して好調でもないですし、やりたいことが全て完璧にこなせているかと言えばそうではない。たまたま運良く乗り切れた場面もありました。防御率が0.00だからといって、特に自分の中では意識していません。

もちろん失点したくないと思ってマウンドに上がります。ただ、そこに執着するよりも、毎回良いパフォーマンスを出せるように準備をして、課題を探ることを第一に考えます。『コンディションの悪い状態でも抑えられる』ということが大切なので」

横浜一筋で歩んだ田中のプロ野球人生は波瀾万丈。幾度となく訪れた苦難を乗り越え、這い上がってきた16年間だった。

愛知から越境で常葉菊川高校(静岡県菊川市)に進学し選抜優勝、夏はベスト4にチームを導き、2007年、高校ドラフト1巡目指名で横浜に入団。しかし、左肩を痛めた1年目は2軍でも登板機会はなく、1軍公式戦デビューは3年目の2010年。先発して初勝利を飾るも、翌2011年は1軍出場1試合に終わった。

実力は評価されながらも結果はなかなか出ない。開花したのは入団8年目、2015年シーズンだった。中継ぎでシーズン前半だけで35試合に出場しオールスターゲームにも選出された。しかし後半は調子を落として2軍降格。そのままシーズンを終了した。

翌2016年は初めてシーズンを通じて1軍に定着し、キャリアハイの61試合に登板(23ホールド)。球団初のクライマックスシリーズでも活躍し、2017年シーズンも60試合に登板するなど2年連続で好成績を収めた。しかし、2018年シーズンは怪我の影響で出場11、防御率も6.57と成績は急降下。翌シーズン途中に左肘のトミー・ジョン手術を受け、リハビリに専念するため育成契約になった。

当時すでに30歳過ぎ。戦力外通告も覚悟したが、「まだまだ終われない」と野球に対する情熱は失せることなくリハビリに励んだ。2021年シーズン、9月12日の阪神戦で1092日ぶりに1軍のマウンドに上がる。翌2022年シーズンは47試合に登板し、完全復活をアピールした。

「第二の全盛期」を迎えるのか。期待も高まった2023年シーズン開幕前、左太腿の肉離れで出遅れ1軍登板はわずか11試合で終戦。そして10月3日、ほか10選手とともに、田中は戦力外通告を受けたのだった。

「(戦力外通告されたときは)不満や悔しさを爆発させるようなことはありませんでした。プレーする姿を誰かに見せたいという思いよりも、このままでは終われない、自分自身が野球を続けたい、投げられると思えるうちは勝負したい、という気持ちが強かった。今は来季のことを聞かれても、本当に何をしているのかわかりません。野球以外に何がしたいかと聞かれても、何も浮かんではこないですし」

■「健二朗さんのアドバイスが自分を見直すきっかけになった」

くふうハヤテの若手選手はみな、NPB12球団にドラフト指名されることを目指して入団した。それは極めて狭き門であり、誰ひとり夢を叶えられないままチームを去るかもしれないが、NPB12球団にドラフト指名されることが、彼らにとっては本当の意味で「プロ野球選手になる」という夢を叶えることを意味する。

一方、田中のようにNPB12球団で実績を残した選手は、戦力外通告という非情な現実と向き合い、復帰を目指すと同時に、現役生活にどうけじめをつけるかを考えるためにここに来た。同じようにNPB12球団入りを目指していても、若手選手とは違う複雑な胸中、葛藤を抱えながら野球に取り組んでいる。

近鉄一筋、田中と同じく16年間、生え抜き選手として活躍し、球団消滅と時を同じくして現役に見切りをつけた監督の赤堀元之に、プロ野球選手の引き際について聞いてみた。

「怪我等の理由でできないか、もしくは野球に対して情熱がなくなったときか、どちらかだと思います。身体が元気なら納得するまで続けたほうが良い。踏ん切りを付けるならパッとやめたほうが良い。誰かに言われて辞めるよりも、自分自身で整理して辞めたほうが良いと思います。

僕自身が現役引退を決めたときは、トライアウトを受けようかとも考えましたが、仰木(彬)監督からコーチ就任のお話をいただいて、これからは野球とどう向き合うべきかを考えることができました。肩の調子も良くありませんでしたし、野球に情熱を注ぐ方法は指導者という道もあると新たな考えが生まれた。ならばきっぱり辞めようと決めました。

選手を育てるという、新しい形で野球に情熱を注げる道を用意していただけたことが良かったんですけどね。それがなければ、本当にどうしたのかなと思います」

赤堀のように、現役引退と同時に指導者の道を用意される例はごく稀(まれ)で、よほどの実績と人望がなければあり得ない。それはそれとして、野球選手に限った話ではないが、人生の岐路に立ったとき、どんな答えを出すかよりも、誰かに決断を委ねるのではなく自分自身で答えを出すことが、後悔を残さない唯一の方法かもしれない。

NPB12球団への復帰を目指す田中は、「今はそこしか見ていない」「僕は教える立場にない」と答えた。そんな田中について、開幕戦で大量失点して降板した若手の早川太貴は「健二朗さんがアドバイスしてくださって、それが自分自身を見直すきっかけになりました」と話した。監督やコーチとは違った形で、田中は若手選手の成長に大きく貢献していたのだ。図らずも若手に貴重なアドバイスとして伝わっていることについて、田中に聞いた。

「NPB12球団を目指す若い選手を見ていると、『もう少しこうすれば良いのに』と思うことがよくあります。それは自分自身も勉強になるというか、新たな発見もあるので、面白いなと思ったりしています。彼の良い所はどこかなと観察して、少しアドバイスしただけで球速が上がったり、コースを攻められるようになったりもします。

逆にできないときは『若い頃の自分と重なる部分もあるよな』とか、忘れていた大切な感覚を思い出させてくれたりもします。そういった部分は少なからず、良い刺激になっています。

(チームメイトの)福田(秀平)さんだったり、藤岡(好明)さんだったり、倉本(寿彦)だったり、僕も含まれるのかもしれませんが、(NPB1軍経験者の)野球に取り組む姿勢から何かを感じて自分に合うもの、『これだ』と思えることを見つけて欲しいなと思います」


田中のアドバイスがきっかけで調子が上向いてきたという若手の早川太貴

今年9月で35歳。NPB12球団で実績があり、くふうハヤテでも結果を残す田中に声がかかるかどうかは各球団の戦力事情にも左右される。もちろんNPB12球団復帰が最良の答えだ。

「(くふうハヤテに入団したことは)もちろんプラスになっています。どう表現したら良いか少し難しいですが......。間違いなく、貴重な経験になっています」

田中は力強く答えた。

支配下選手登録の期限である7月31日までに、NPB12球団からの連絡は田中のもとに届かなかった。15試合連続無失点、防御率0.00という文句のつけようのない成績を残しながら、6月以降は体調が整わず戦列を離れたことも影響したかもしれない。

これで今シーズン中、NPB1軍の舞台に復帰することは完全になくなった。それでも田中は現役続行を決意した。まずは復調してマウンドに戻ること。そしてチームのために投げることが、田中の目標だ。

(つづく)

●田中健二朗(たなか・けんじろう) 
1989年生まれ、愛知県出身。左投左打。2007年ドラフト1位で常葉菊川高から横浜(現DeNA)に入団。2016年には61試合に登板し球団初のクライマックスシリーズ出場に貢献。NPBでは通算16年で通算274試合に登板、14勝13敗1セーブ、64ホールド

取材・文・撮影/会津泰成