「孤独」ではなく「単独」を楽しめるのが大人だという(写真:Lyo/PIXTA)

「おひとり様」「孤食」「孤独死」など、近年、「ひとりでいること」について考えさせられる言葉がメディアを賑わせていますが、明治大学教授の齋藤孝氏は、これまでも折に触れて「孤独」の意味について考え続けてきました。

齋藤氏によれば、一般に、ネガティブなイメージで捉えられがちな「孤独」な状態は、実は人生を豊かにするための大切な時間だといいます。

※本稿は、齋藤氏の著書『40代から人生が好転する人、40代から人生が暗転する人』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

40代は「ぼっち」だって全然かまわない

私はこれまで、折に触れて「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉をとおし、孤独の意味について触れてきました。実はこの「孤独」についても、これからの40代がしっかりと向き合うべきテーマであろうと思います。

人生の中で自分にとっての「孤独」の場を用意しておくことはとても有意義なことです。1人ぼっちでいることをネット用語で「ぼっち」などと言うようですが、「ぼっち」だって別にかまわないのです。むしろ積極的にスケジューリングをして、1日30分でもいいので「マイぼっちタイム」を設けてみてください。

私の場合、川辺のほとりで本を読むのが昔から好きで、静岡県の中学校に通っていた頃から、よく犬を連れて安倍川へ行っては、1人で本を読んだものです。これが至福の時間だったのです。

こうした時間というのは、仲間とワイワイ騒いで楽しむのと本質が異なり、自己の内面から満たされる1人だけで楽しめる時間です。特に私は、なぜか昔から川を見ると心が落ち着く習性があるようで、サラサラと流れる川の音と周囲の景色を見るだけで、心をすっぽりとその時間にはめ込むことができました。

これはきっと、人それぞれの心象風景によって落ち着くポイントも違うのだろう思います。

残念ながら今の私の自宅の近くに川は流れていないのですが、ここ数年はカフェに1人で入るときが心を整える時間になっています。

仕事の帰りなどに良さそうなカフェがあると迷わず入り、そこで1時間くらいを過ごしながら、メモを見返したり、打ち合わせの内容を整理したりするのを常としています。

カフェに入る前と後では心の状態があきらかに違っていますし、もちろん仕事も整理されています。私にとっては現代生活のオアシスと呼んでもいい空間なのです。

カフェ以外ではサウナも私は昔から大好きで、お金が無い若い頃も近くのサウナ施設の会員証を奮発して購入し、足しげく通ったものです。

今は若者の間でも大変に流行っているようで、2021年には「ととのう」が新語・流行語大賞にノミネートされています。最近ではサウナ漫画から派生した「サ道」という言葉も浸透しているようです。単独の時間で心を整えるという意味では、このサウナという空間もいいものでしょう。

40歳が近づいたら孤独を楽しめる大人になろうということです。1人の時間を楽しめる人は、喜びを自分で生み出せる人です。そもそも、孤独でいること自体が寂しいのではなく、「孤独感」が人の心を寂しくさせるのです。川辺で、1人で読書をすることは、別にネガティブなことでも、気の毒なことでもありません。

「孤独」ではなく「単独」を楽しめるのが大人

知り合いの編集者で、ある町で10年ほど田舎暮らしをした人がいるのですが、1人でお店などにいると必ず「あれ、1人でどうしたの」「誰かを誘いなよ」「1人じゃ寂しいじゃん」と言われてしまい、暮らし心地はよかったものの、それだけは最後まで困ってしまったと言っていました。

東京では1人でお店に入り、食事をすることは普通でしたし、お酒を飲むときも立ち飲み屋などで静かに自分の時間を過ごすのが常だったそうですが、その地域では1人で喫茶店でご飯を食べたり、1人で映画を見たりする文化がほぼ無かったのだそうです。

そのたびに「いや、別に寂しくはないんだけどね……(笑)」と返していたそうですが、いつしか町民からは「彼はいつも1人でいる人」とカテゴライズされていたといいます。

その町に住んだ10年あまりで「1人で寂しそう」と何十回言われたかわからないとのことでした。とはいえ、その町も住む人も今も大好きだそうで、仕事の都合で東京へ戻ったものの、今もほぼ毎年そこへ足を運んでいるとのこと。良いか悪いかではなく、文化と習慣が違ったということなのでしょう。

もし、その町の方に彼の心情を伝えるのならば、「孤独」を「単独」と置き換えてみると、ある程度は理解してもらえるのかもしれません。

どこへいくのも友達とつるんで行動するのではなく、40歳にもなったら基本は単独で行動をし、1人でいる時間を楽しめるのが大人というものです。一般にブレない自分を持っているという人は単独でいることがストレスになりませんし、むしろ楽しむことができます。

誰かとの繋がりがないと社会と関われない人は、依存と同じで自己肯定感をすり減らしていくことになりがちです。自分だけの軸で生きられないため、他者からの評価も必要以上に気にしてしまいます。

日常の中で他者とのコミュニケーションは何よりも大事ですが、最後は自己完結できる単独のメンタルを持ちつつ、40代からの日々を送りたいものです。

人がウサギを狩るのは「退屈」だから

孤独を楽しむ人というのは、退屈な時間を恐れない人でもあります。「退屈を恐れる」と聞いてピンと来ない方も多いかもしれませんが、17世紀のフランスの哲学者、ブレーズ・パスカルはそう考えた1人でした。

パスカルはウサギ狩りをする人を例にあげながら、「人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしにしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から眼をそらしたいから、狩りに行くのである」という意味の言葉を残しています(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮社より引用)。

退屈であっても慌てない、「何かしなきゃ」と焦ることなく、「こういう時間もあっていい」と泰然と受け止め、むしろ楽しむことができる心の余裕を多くの40代が身につければ、ストレスを溜めて心をすり減らす中高年はこの国から減っていくはずです。

私の知人はとにかく散歩が大好きで、少しでも陽が出ていると外に出て、行き先も決めずにぶらぶらと漂い歩くのだそうです。この「漂う」というユルい感覚がいいのではないでしょうか。

その際、頭に浮かんでくることを基本的に否定せず、そのまま受け止めて緩やかに思考するようにしているのだそうです。

たとえば、休日にボーっとしている中で仕事のことが浮かんだら、「せっかくの休みなのに仕事のことなんて……忘れろ、忘れろ」と打ち消す人もいると思いますが、浮かんでくるということは脳にだってきっと何か都合があるはずです。

それはそれとして煩悩の1つとして受け止めながら、散歩中の景色を眺めつつぼんやりと考えるのだそうです。

「休みなのに仕事のことを考えてしまっている自分」を否定してストレスを感じるより、浮かんだものは浮かんだものとして受け止めるというのは、確かにおもしろい考え方なのではないでしょうか。

ひらめきは「退屈」から生まれるもの

事実、人の脳というのは、このようにぼんやりしているときに活性化する神経回路があり、これを「デフォルトモード・ネットワーク」(DMN)と呼ぶそうです。

脳科学研究の第一人者である東北大学教授の川島隆太先生によれば、この働きが活性化しているときに、脳内では蓄積された情報の整理が行われ、これによりクリエイティブな発想が生まれやすくなることがわかっているのだそうです。

豊かな発想を生むためには、ヒトの脳にも緊張と緩和、多忙と退屈の切り替えが必要なのでしょう。

従って、散歩中にボーっとしている中で仕事のことが浮かんだら、それが思いがけない創造性に富んだアイデアに転換していくことだってあるのです。電車に乗っているとき、カフェでぼんやりしているとき、突然「あっ、そうか」とひらめくのは、おそらくこのデフォルトモードが働いているからかもしれません。

だからといって「よし、ぼんやりして脳のDMNを活性化させるぞ!」と力んでしまっては、もはや「ぼんやり」の域から逸脱してしまっています。

身心をガチガチに硬直させながら「のんびりするぞ! ぼんやりするぞ!」とシュプレヒコールを上げてしまえば本末転倒です。座禅を組む前に興奮しながら「よっしゃ、これから悟るぞ!」と意気込んでしまうのと同じ過ちです。

大きく深呼吸をして、ただボーっとしてみよう

大きめの深呼吸を何度かしてみて、気張りを捨てて心を自然にそこへもっていくこと。


そうして考えると、のんびりと散歩や日向ぼっこをしたり、公園や川辺などでボーっとしたりしてみることは、禅の悟りを開く行為と地続きにあると考えてもいいのかもしれません。

実際、瞑想や座禅に集中できている人の脳を分析すると、デフォルトモード・ネットワークが活性化しているといいます。

つけ加えれば、散歩で日光を浴びるとビタミンDが活性化され、食事で摂取したカルシウムの吸収も促進されます。

40代になると特に女性は骨がもろくなると言われますので、身体の健康維持のためにも散歩はお勧めしたい習慣です。

多忙でストレスを溜めがちな40代だからこそ、メリハリをつけた日常で退屈を楽しんでほしいと思います。

(齋藤 孝 : 明治大学教授)