『星影さやかに』(古内 一絵)

 しん、とした気持ちで読み終わった。

 ああ、そういうことはあったに違いない、と思った。

 わたしや作者の古内一絵さんが子どものころ、大人たちはほぼ全員、戦争の生き残りだった。

 戦争に行ったか行かなかったか。男だったか女だったか。戦争当時何歳だったか。都会にいたか田舎にいたか。内地と外地とどちらにいたか。軍人だったか、徴兵された兵士だったか。軍隊でのランクはどうだったか。どこに派遣された部隊だったか。子どもだったとして親の職業はなんだったか。そうした細かい違いが、個々人の「戦争体験」を千差万別なものにしていたが、それでも、二十代くらいのお兄さん・お姉さんを別にすれば、大人はみんなあの大戦を生き延びていた。

 だから、いまよりも、戦争体験は身近にあった。

 とくに八月は新聞もテレビも学校図書館も、戦争体験談でいっぱいになった。戦時中や戦後の食糧難の飢餓体験が語られ、原爆が語られ、空襲が語られ、軍隊でのいじめや暴力が語られ、小さな軍隊のようになってしまった学校教育の息苦しさが語られた。戦争中の加害体験より被害体験のほうが多く語られはしたものの、学校で八月の登校日に聞かされる話は、恐ろしいものばかりだった。

 そうした体験を語った人たちの多くが鬼籍に入り、もう生きている人で戦争を知っている人は八十代、という時代になった。そんなころになって、わたしは、それこそ大勢の人が、じつはなにも語らずに亡くなっていることに気づき始めた。それこそ加害体験は墓場まで持って行った人のほうがたくさんいたのだろう。戦場での体験によるPTSDの話を聞くようになったのはごく最近のことだ。ほんとうは一つでも多くの体験を聞いておくべきなのだろう。でも、もうすぐ、戦争を知っている人は、いなくなる。

 この小説は、古内さんのお父さんと、お祖父さんの実話を元にして書かれたものなのだという。フィクションの背景にある事実の重みが、静かな描写に説得力を与えているのだと思った。

 小説に流れる時間は、戦中と戦後、そして少し時間を隔てて東京オリンピックのあった年になる。宮城県の農村が舞台で、近くに軍事目標もないらしい地方の「戦中」は、終戦の前の年であっても、比較的穏やかな日々として描写される。B29は飛ばないし焼夷弾も降らない。たった一回の、敵機による機銃掃射が印象的に描かれるが、その他は、国民学校の記述に戦時らしさがあるくらいだ。

 昭和十九年の描写の中でも印象的なのは、章タイトルにもなっている秋の山の美しさ。「カエデの紅、ミズナラの黄金、ブナの橙、アカシデの朱、コシアブラの白銀――」、「山一杯に、祭りのぼんぼりが灯っているよう」と描かれる山の錦は、いまも変わらず美しいのだろうか。主人公の良彦(よしひこ)は、その夢のように美しい秋の山の只中を走る線路の向こうに、真っ黒に口を開けるトンネルを見てたじろぐのだが。

 終戦二年後に描かれるのは、田んぼにのたうつ泥鰌(どじょう)だ。戦後の農地改革の影響で荒れてしまった土地の姿に言及されるものの、元気のいい良彦が、誰に教わるでもなく大量に捕獲し、家族の食卓に供する泥鰌は、やはり強い生命力を感じさせる。そのさらに三年後の章タイトルになっているのは薯蕷(とろろ)だが、考えてみれば泥鰌も薯蕷も、そして秋のきらびやかな山も、自然というものの強さの象徴ともいえる。人が愚かしい戦争に振り回されていても、変わらずそこにあり、傷ついた者たちに力を与えるのは、そうした自然の強さなのだろう。

 それ以外に、際立って印象的なのは、女ながらにして一家の長であった多嘉子(たかこ)の野辺送りの場面だった。前日の準備から始まって、白装束に三角布、鉦(かね)と撞木(しゅもく)、北風に葬儀旗がはためき雪が降りしきる中を、粛々と葬儀の列が進む。「墨絵のような眺め」のその光景は、脳裏に美しく刻まれて離れない。

 東京オリンピックの年の逸話に挟まれた、この戦中戦後の家族の物語は、昭和十九年、二十二年が良彦の視点、二十五年が良彦の母・寿子(ひさこ)の視点、そして二十六年が良彦の父・良一(りょういち)の視点から紡がれる。東京で中学の教師をしていたのに、生徒たちに「この戦争に日本は勝てる見込みがない。だから、未来のある諸君は、断じて戦争にいくべきではない」と言ってしまって、それが原因で職を失い、故郷に帰ったという良一。「神経症」を患い、「非国民」と呼ばれもした良一が、なぜそうした行動に出たのか、その謎が明かされるミステリーとしても、読み応えのある小説となっている。

 しかし、丁寧に描かれる農村の日々の核となっているのは、むしろ良一の母・多嘉子や、祖父・洪庵(こうあん)のエピソードであるところがおもしろい。話は幕末や明治の初めにさかのぼっていく。

 たしかに、戦時中を高齢で生きた人々にとっては、幕末はそんなに遠い時代ではなかったはずだ。二〇二四年から見れば第二次大戦終結の一九四五年は七十九年前だが、一九四五年の七十九年前は一八六六年で、明治維新まであと二年だと考えるとちょっとびっくりする。それは当時の子どもにとって、親や祖父母が生きた時代そのものなのである。

 良彦にとっては、おっかなくうるさい婆さんでしかない多嘉子が、戦時中もどこか達観した態度を保ち、息子が「非国民」と後ろ指をさされても動じないのは、幕末の戦争に嫌というほど翻弄された父・洪庵の姿を、そして戦の本質を、その目で見てきたからなのだった。

 こうしてみると、『星影さやかに』の登場人物たちは、多嘉子を始め、高慢な姑(しゅうとめ)によく仕えた嫁の寿子も、喜勢子(きせこ)とその夫も、良彦も美津子(みつこ)も、奥州の自然のように強い人々であると感じられる。それは血筋なのかもしれないし、豊かでありつつ厳しくもある自然と対峙しながら生きてきた人たちの持つ、芯の強さなのかもしれない。

 そんな中にあって、ひとり良一だけが、病んでいる。「神経症」を患い、希死念慮(きしねんりょ)に脅かされている。

 でもそれは、果たして彼の弱さなのだろうか。

 良一が病むきっかけとなったエピソードを読んだとき、戦慄(せんりつ)した。もちろん、その具体的なエピソードそのものに震撼させられたのだが、同時に、いつだったか資料を漁っているときに見つけた、昭和二十一年の『文藝春秋』に掲載された徳永直(とくながすなお)の文章「追憶」を思い出したからだ。社会主義者だった徳永が、戦後ようやく、検閲に怯(おび)えることなく書くことのできた随筆だった。そこには、関東大震災直後の、朝鮮人が襲ってくるという噂がどのように伝播したか、そしてそれがどのようにデマだとわかったかが、克明に書かれていて、しかしそれは「まる廿三年が経つて」しまわなければ書けなかったことだと記されている。つまり、関東大震災から終戦までは、徳永直にとってひと続きだったのだ。真実が隠蔽されるという意味で。朝鮮人や社会主義者がいわれもなく殺される世の中になったという意味においても。戦争はまさしくその延長にあった。戦争では真実が隠される。真実を口にした者には重い制裁が科される。

 良一の、関東大震災での経験は凄まじい。それはもう一夜にして人間が一変してしまうほどの体験だっただろうと想像される。良一はそれを抱えて戦争の時代を生き、戦後もそれを引きずった。「神経症」という形で。彼は戦地には行かなかったが、従軍し復員した人の多くが抱えたというPTSDに似たものを、背負うことになったんだろう。

 そしてその彼の「神経症」が、彼に真実を告げさせた。「この戦争は勝てる見込みがない。断じて戦争にいくべきではない」。そんなことを、誰も口にできなかった時代に、良一に真実を語らせてしまったのは、「神経症」そのものだ。だとするならば、患ってしまったのは彼の弱さだろうか。真実を口にする者が病まざるを得ない時代に病んだのは、あるいは、一種の強さともいえるのではないだろうか。

 戦後はもうすぐ八十年を迎える。

 すごいことだ。終戦の年に生まれた人が八十歳になってしまう。

 冒頭にも書いたが、戦争体験のある人がいなくなってしまう。

 古内一絵さんはきっと、そういう状況の中で、残しておくべき物語を見つけたのだと思う。そして、丁寧に取材して、物語として紡ぎあげたのだと思う。

 この小説が書かれてよかった。

 しん、とした気持ちで読み終わって、そう思った。