後期高齢者になった「天才研究者」が書斎にひきこもり、認知症テストを拒否…「変な死に方をされたら困る」と怯える74歳妻と、看取り医がみた「異常行動」

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「天才研究者」たちの老後

茨城県つくば市で訪問診察を続ける『ホームオン・クリニック』院長・平野国美氏は、この地で20年間、「人生の最期は自宅で迎えたい」という様々な末期患者の終末医療を行ってきた。患者の願いに寄り添ったその姿は、大竹しのぶ主演でドラマ化もされている。

6000人以上の患者とその家族に出会い、2700人以上の最期に立ち会った“看取りの医者”が、人生の最期を迎える人たちを取り巻く、令和のリアルをリポートする――。

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私が訪問診療を続ける茨城県つくば市は、1970年に公布された筑波研究学園都市建設法に基づいて形成された計画都市である。

半世紀たった今では国や企業の研究開発拠点が150ヵ所以上ある「科学のまち」へと発展し、約2万人の研究従事者、8000人の博士号取得者が、世界最先端の研究をこのまちで続けている。ノーベル賞受賞者も輩出した。

一方で50年が経過したことで、かつては日本の頭脳だった天才研究者たちも後期高齢者となり、中にはそのままつくば市で暮らしている方もいる。私の患者、79歳の浅田博之さん(仮名)もその一人だった。

浅田さんは物理関連の優秀な元研究者だ。所属していた研究機関を63歳で退職しているが、退職後は私大で教授となり、別の研究機関にも出向して研究を続けた。現役を退いたのも70歳のときである。

一方で、極度に人付き合いが苦手だったこともあり、引退後は徐々に家にひきこもるようになっていったという。

夫は認知症テストを拒否

彼と同居する妻・美奈子さん(74歳・仮名)は、「夫は認知症になっているのではないか」と疑っていた。

部屋にこもってしまうことが多くなり、ここ数年は夫の部屋を覗くと、暗闇の中で一点をじっと見ながら椅子に座り続けていることがよくあるという。また、風呂に入るのも嫌がりはじめ、すでに数ヵ月は入っておらず、髪や髭については伸び放題になっていた。

心配でたまらなかった妻は、うまく認知症外来に連れて行き、検査を試みたが、察した夫はそれを拒否して診察室を退出してしまった状態――。

それで知り合いから「訪問診療を入れてみてはどうか」というアドバイスを受け、電話で私に依頼してきたのである。

妻は途方に暮れ、精神的にも不安定になっていた。

「変な死に方をしたらどうしよう」

初診の日、玄関のチャイムを鳴らすと、美奈子さんは怯えた表情で出てきた。私を家に招き入れること自体が、決死の覚悟だったのかもしれない。

「先生がいらっしゃることを話していない状況です。おそらく反対されると思いまして…。静かに入ってくださいね。主人は昔から物音や雑音に煩いのです」

患者が認知症の場合、医療関係者を拒絶し、介護や治療になかなか入れないことは多い。まずは美奈子さんから話を聞くために、応接間に移動することになった。カーテンは閉め切ったままになっていて薄暗い。彼女は声を押し殺しながら話し始めた。隣の部屋には、夫がひきこもっている書斎がある。

「主人がいつ起きて、寝ているのかもわかりません。昼夜の区別がない生活を送っていて、私が作った食事もあまり手をつけないのです。たまに台所にあるビスケットや牛乳が減っているので、お腹は空くのでしょうが、主人の体は痩せ細ってしまいました」

妻は「夫が家で変な死に方をしてしまったらどうしよう」とも怯えていた。警察に虐待や殺人の疑いがかけられてしまうではないか、もし夫が死んでしまったら連絡すべき相手は救急隊なのか病院なのか、あるいは警察なのか――。

「電話については私で結構です。今日、初めての診察でこんな話は失礼ですが、一度でも診察させていただければ、警察や救急車を呼ばずに私のほうで対処が可能かと思えます。ご心配なく」

そう伝えると、妻はほっとした表情をみせた。いろいろなことを誰にも話せずに悩んできたのだろう。彼女は堰を切ったように1時間以上、話し続けた。

夫の異常行動

「主人は元々、静かな場所が好きで、音や光を嫌う人でした。子育て中は、うるさく感じたようで、休日もわざわざ研究所にこもりに行っていました。

子供は私が一人で育てたようなものです…。でも主人を恨んでいるわけではないのです。夏も冬もいつも同じヨレヨレのスーツを着て出勤する主人の姿を見ていると、私だって頑張らなくてはと思っていましたから…。研究職がどういうものなのか私にはわかりませんが、主人だってつらかったのだと思います」

部屋には、かつて出かけた家族旅行のスナップ写真が数枚、飾られていた。妻と子供は笑顔を浮かべているが、どの写真も夫は笑っているようには見えない。すでに日は暮れてしまっていたが、夫に会ってみたいと思った。

「もし、可能でしたらお顔を拝見することはできますか?」

妻は、隣の部屋にいる夫の様子を見にいった。

「今、寝ているようです。寝ている姿でよければ…」

部屋を覗きこむと、彼はカーテンを閉め切った部屋で明かりもつけず、椅子に座ったまま目を閉じていた。散髪もせず、髭も剃っていないとは聞いていたが、髪は肩まで伸びている。身長と手足は長く、やせ細っている。俳優の天本英世さんに野性味を付け加えたような外見になっていた。ちょっとした仙人だ。

よく見れば夫は、手に鉛筆を握ったまま寝ていた。床には、何かが書かれた紙が一面に散らばっているが、暗くて読めない。ゴミ屋敷とまでは言えないが、異常さを感じる。

今日は挨拶を諦め、出直そうかと思った時、唐突に目を開き、机に向かって一心不乱に鉛筆を走らせた。覗き込むと何かの数式を解いている。まるで私たちの侵入に気づいていない。あるいは興味がないのかもしれない。

いずれにしても何かに憑りつかれたように数式を書いていた。仙人のような外見のイメージに引っ張られたのか、奇天烈な行動なのに神々しさすら感じる。床に落ちている紙を拾い上げて確認すると、こちらも数式だった。

十分に患者の状態は分かったので私はそっと部屋を出た。お風呂に入りたがらない、食事に興味を持たないのは認知症患者によくあらわれる症状だ。

しかし認知症ではないようにも思える。結論は出ないが、床やゴミ箱におちている数式が書かれた紙が気になった。何枚かを持ち帰らせて頂き、ひとまず調べることにした。

認知症を疑われた79歳「天才研究者」に「100引く7はいくつですか?」なんて問えない…74歳妻が患った「意外な病気」と、最期に起きた「幸せな出来事」」に続きます。

認知症を疑われた79歳「天才研究者」に「100引く7はいくつですか?」なんて問えない…74歳妻が患った「意外な病気」と、最期に起きた「幸せな出来事」