『虎に翼』(写真:NHK公式サイトより引用)

NHKの連続テレビ小説『虎に翼』が放送以来、好調をキープしている。視聴率は右肩上がりで、毎朝の放送のたびに、SNSでも大きな話題となっているようだ。主人公・佐田寅子(ともこ)のモデルとなっているのが、女性初の弁護士で、女性初の裁判所長となった三淵嘉子(みぶち・よしこ)である。実際にはどんな人物だったのか。解説を行っていきたい。

三淵嘉子も「親からの言葉」が人生の転機に

「もしかしたら、偉人が残した言葉と同じくらい、いや、それ以上に、偉人が幼少期に<かけられた言葉>のほうが重要なのではないか?」

数多くの名言集を執筆するうちに、そんな思いを抱くようになった。
そこで、偉人が親からどんな言葉をかけられたのかを調べて、1冊にまとめたのが『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』という本である。

エジソン、アインシュタイン、本田宗一郎、ゲーテ、ベンジャミン・フランクリン、黒澤明、森毅、渋沢栄一、ユング、チャーチル、ダーウィン……など、歴史に名を刻んだ偉人たちのなかには、親から「人生の転機となる言葉」をかけられて育った者が実に多くいることが明らかになった。そんな偉人のエピソードを踏まえながら、具体的な親の声かけについては、教育評論家の親野智可等氏に解説してもらった。

発刊後には「中田敦彦のYouTube大学」でも取り上げられるなど話題を呼んだことにも力をもらい、その後も「偉人の親の言葉」のリサーチをライフワークとしている。

NHKの連続テレビ小説『虎に翼』で注目されている法律家の三淵嘉子もまた、幼少期に父親からかけられた言葉が、大きな支えとなったようだ。

三淵嘉子は1914(大正3)年11月13日、台湾銀行に勤務する父の武藤貞雄と、母のノブのもとに、父の赴任先であるシンガポールで長女として生まれた。

父がシンガポールからニューヨークに転勤になると、嘉子は母のノブとともに1916(大正5)年に帰国。ノブの実家に身を寄せて、香川県丸亀で幼少期を過ごす。帰国の年には、嘉子の弟で、長男となる一郎が誕生している。

家族が東京でそろったのは、それから4年後の1920(大正9)年のこと。父が東京勤務を命じられたタイミングで、4人家族として渋谷区で居を構えている。

嘉子は渋谷区の幼稚園に入園し、その翌年には、青山師範学校附属小学校へと進学。下には弟が次々と生まれ、4人の弟たち(長男:一郎、次男:輝彦、三男:晟造、四男:泰夫)と一緒に、両親のもとで学生時代を過ごすこととなった。

法律を学ぶことを決めたのは、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大附属高校)を卒業してからのことだ。女性も法律を学べるという、明治大学専門部女子部法科に進学しようと、嘉子は卒業証明書をもらうために母校を訪ねた。

ところが、「法律を学ぶために明大の受験を考えている」と言うと、受け持ちの先生からは思いとどまるように何度も説得されたという。なんとか納得してもらい、卒業証明書をようやくもらえたかと思えば、今度は故郷に戻っていた母が帰京して大騒ぎに。

「法律などを勉強しても、将来あてになるわけでもないし、嫁の貰い手がなくなるだけ」と泣きながら、反対されてしまった。

ただ女性が法律を学ぼうとしただけで、周囲が激しく動揺する……。嘉子が生きたのは、そんな時代だったのである。

友人には「こわいなあ」とドン引きされる

女性が法律なんて学んでいったい、どうするというのか――。

明治大学に入学してからも、知人に会って事情を話せば、奇異な目で見られたようだ。嘉子は「私の歩んだ裁判官の道」で、当時のことを次のように振り返っている。

「知人に出会ったとき今どうしているのかを聞かれ明大で法律を勉強していると答えると、とたんに皆一様に驚きあきれ、何という変わり者かという表情で『こわいなあ』と言われるのにはこちらが参ってしまった」

そんな経験をして以来、嘉子は「他人には法律を勉強していることは言うまい」と心に決めたのだという。

NHKの連続テレビ小説『虎に翼』と同じく、大河ドラマ『光る君へ』も話題になっているが、主人公である紫式部もまた、宮仕えをした際には、漢学の知識が豊富であることを、周囲に悟られないように苦心したという(毎週日曜日更新の紫式部の連載:『紫式部と藤原道長が生きた平安時代』)。

「漢字の一すらも書かないようにした」と日記で振り返っている。嘉子にも式部のそんな気持ちがよくわかったのではないだろうか。

その一方で、そんな現状にどうしても納得できない、という思いも嘉子はつづっている。

「自分でも少し人と変わった途を選んだと思ってはいたが、何か日陰の道を歩いているような口惜しさを覚えずにはいられなかった」

「何か専門の仕事をもつための勉強をしなさい」

そんな嘉子の心を支えたのが、父の言葉だった。エリートだった貞雄は、男女は平等であるべきだという考えを持ち、娘の嘉子にこんな言葉をかけていた。


三淵嘉子が別荘として愛用していた「三淵邸・甘柑荘」(写真:Bachmann / PIXTA)

「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな、男と同じように政治でも、経済でも理解できるようになれ。それには何か専門の仕事をもつための勉強をしなさい」

嘉子はそんな父の言葉を受けて、自分の進路を決めたのだという。

「私は当時としては非常に民主的な思想を持った父のお陰で、そのアドバイスで法律を学ぼうと決心した」(「私の歩んだ裁判官の道」より)

教師や母に反対されたときも、助けになったのが父の後押しだったという。もっとも母については、娘の思いを聞いてからは、とことん応援することを決めたらしい。

嘉子は「ありがたいことに母はそれから後は私が弁護士になるまで、誰よりも熱心な応援者になってくれたのであるが」と、断り書きを書いている。

父と母の声援を受けながら、明治大学専門部女子部法科に進学した嘉子。入学して目の当たりにしたのが、女性初の弁護士を目指して、熱心に法律を学ぶ先輩の姿だった。

「私も法律を勉強するからには弁護士になろう」。嘉子はそう決心することとなった。

【参考文献】
三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」『女性法律家─拡大する新時代の活動分野─』(有斐閣)
三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
佐賀千惠美 ‎『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』 (角川文庫)
真山知幸、親野智可等 『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)

(真山 知幸 : 著述家)