千葉ニュータウンと都心を結ぶ足となっている北総鉄道(写真:KUZUHA/PIXTA)

京成高砂―印旛日本医大間を結ぶ北総鉄道は京成電鉄が株式の56%を保有し、ほかに千葉県都市再生機構(UR)、沿線6市などが出資する第三セクター鉄道である。千葉ニュータウンと都心を結ぶ通勤・通学の足として1972年に設立され、2010年からは成田スカイアクセス線の開業により、都心と成田空港をつなぐ空港アクセス線の主要部分も担っている。

同社の会長を務める室谷正裕氏は生粋の鉄道マンではない。もともとは1979年旧運輸省(現国土交通省)に入省し、航空行政や運輸安全委員会の事務局長などさまざまな交通分野に関わってきた。2014年の退官後は日本民営鉄道協会の常務理事に就任し、このまま優雅なOB人生を送ると思っていた。

波乱の社長就任

転機が訪れたのは2017年のことだ。京成電鉄から声がかかり、同社の鉄道本部長に就任した。35年の官僚人生で鉄道局の経験は1度だけ。決して鉄道の専門家ではないし、技術に明るいわけでもない。

「毎日何かが起きる。どこの駅の何番線、何番踏切で何が起きたとか、路線や施設の状況が頭に入っていないと適切な指示ができない。毎日がしびれる展開でした(笑)」

2018年度からは京成電鉄の鉄道本部長と並行して北総鉄道の社長に就任した。ここでひと波乱あった。取締役就任を決議する株主総会に出たときに、株主となっているある自治体の首長から就任に反対されたのだ。京成電鉄が過半数の議決権を持っているので無事可決されたが、沿線自治体の“代表者”からけんか腰で反対されたのは正直、ショックだった。

長年、北総鉄道は「運賃が高すぎる」ことで悪名を轟かせていた。距離あたりの運賃は京成本線と比べても2倍近くの隔たりがあり、利用客から連日のように「何とかしろ」と突き上げをくらっていた。

一方で、北総鉄道は莫大な累積損失という悩みも抱えていた。新規区間の開業に合わせて累積損失が膨らみ、2000年度の累積損失は450億円近くに達していた。この年度にようやく単年度で黒字化したため累積損失は減り始めたが、2018年度でも100億円近くの累積損失が残っていた。

運賃はなぜ高いのか。なぜ累積損失が多いのか。この2点の理由は共通している。輸送人員が当初の見込みほど増えなかったためだ。

千葉ニュータウンの計画人口はもともと34万人だったが、用地買収の難航などで事業が停滞し、2024年3月時点でも人口はようやく10万人を超えた程度にすぎない。これが利用者の伸び悩みに直結しており、収支が赤字の期間が長引き累積損失も増え続けたのだ。想定より少ない収入を少しでも補うため、大きなものだけでも8回もの運賃値上げが行われた。

「運賃値下げ」どう決めたのか

京成電鉄の鉄道本部長を兼務していた室谷氏にしてみれば、北総鉄道では「心苦しいがどうしようもありません」と開き直ってやり過ごすという選択肢もあった。しかし、そうはしなかった。当時の利益水準から判断して、2022年度末には累積損失を解消できる見通しが立ったからだ。

「本来だったら2022年度に累積損失が解消するなら、それを見届けて2023年度から値下げの検討を始めてもよかったが、運賃値下げをやるなら早いほうがいい」


室谷正裕(むろや・まさひろ)北総鉄道会長⚫︎1956年生まれ、1979年運輸省入省、2013年国土交通省運輸安全委員会事務局長、2014年日本民営鉄道協会常務理事、2017年京成電鉄常務取締役、2018年北総鉄道社長などを経て、2023年から現職(記者撮影)

2022年度は北総鉄道の創立50周年に当たるということも「内心で意識していた」と言い、2018年頃から値下げの検討に着手した。

担当部署は企画室でスタッフは3人。「みなさんよく働いてくれました」と明るく語る室谷氏だが、自身も「1日30時間くらい働いている感じ。京成の本部長24時間、北総の社長6時間といったところでしょうか」と、すさまじい毎日だったと振り返る。

2020年に入って新型コロナウイルスの感染拡大により鉄道利用が大きく落ち込んだ。また、労働力不足、燃料高などによる費用増もあり、鉄道業界では運賃値上げの機運が高まっていた。しかし、値下げという室谷氏の考えが揺らぐことはなかった。

こうして、北総鉄道は2022年10月、運賃値下げに踏み切った。

「いくらのまでの減収なら会社として耐えられるか。何度も何度も値下げ後の収支のシミュレーションを繰り返し、目一杯インパクトのある値下げにしたいと考えた」

平均の運賃改定率はマイナス15.4%だが、一律の値下げではない。

「どこをどう値下げするかは戦略的に決めた」

一部の券種、一部の区界を重点的に値下げしている。まず、通学定期運賃を大幅に下げた。その値下げ率は64.7%。要するに3分の1にしたのだ。たとえば、京成高砂―印西牧の原間の1カ月定期は1万4990円から4990円、6カ月定期は8万950円から2万6950円。「首都圏の大手私鉄とほぼ同じ水準になった」。

普通運賃も値下げした。3kmまでの初乗り運賃は210円から190円という小幅の引き下げだが、10〜20kmという中距離帯は580円を475円に、643円を546円にといった具合に最大105円という比較的大きな値下げをしている。

通学定期を3分の1に値下げしたのは、「沿線自治体の子育て施策とも呼応して、新しい人に移り住んでもらいたい」というまさに経営判断である。そして、普通運賃では中距離帯で比較的大きな値下げをしたのは、「北総線内の移動を促進したい」という狙いがある。


北総鉄道の印西牧の原駅(写真:koro/PIXTA)

通学定期利用は3割増

では、値下げによる輸送人員や運輸収入への影響はどうだったのか。値下げ後1年間(2022年10月〜2023年9月)の実績を元に室谷氏が説明してくれた。

まず、輸送人員について見ていくと、通学定期は2019年度に比べて約3割増という大幅な増加を示した。首都圏大手私鉄の平均は2019年度比で約1割減なので、運賃値下げの効果は明らかだという。15.4%の値下げは18億円の減収を意味するが、実際は4.5億円減で踏みとどまった。コロナ禍からの回復もあるが、さすが、思い切った値下げによる利用誘発効果があったということである。

「沿線の高校を訪問して話を聞くと、今までは運賃が高くて電車通学できず自転車で通学していた生徒さんたちが、電車通学に切り替えてくれるようになったということです。学校としても自転車通学よりも安全だということで喜んでもらっています」

都心の学校に向かう流動にも変化があった。

「千葉ニュータウンエリアの通学定期客における駅利用の変化を見ると、京成高砂の比重が増え、新鎌ヶ谷の比重が減っている。これは、運賃が高いため途中の新鎌ヶ谷で新京成線や東武アーバンパークラインに乗り換えて都心に出ていた学生や生徒の一部が、値下げの結果、経路を変更して京成高砂から京成線に乗り通してくれるようになったことを示しています」


通学定期の駅利用の傾向を見ると、京成高砂の利用比率が増え、新鎌ヶ谷の利用比率が減った(画像:北総鉄道)

普通券も値下げ前後で19.7%増えた。運賃区界別に見ると最も増えたのが12〜14kmという中距離帯の区間で30.0%増。この区間は値下げ幅が最も高く、値下げによって域内移動を促すという狙いがぴたり当たった。

「中距離帯の運賃を下げることで、千葉ニュータウンに住む人たちが、わざわざ都心まで出なくても、例えば大型のショッピングモールがある新鎌ヶ谷で買い物や食事をしようと考えてくれたようだ」

問題は収入である。値下げ後1年間の収入を前年同期と比較すると旅客運輸収入全体は106.4億円から101.9億円へと4.2%減った。値下げしたのだから当然といえば当然だが、運賃の平均値下げ率15.4%と比べれば、小幅にとどまっている。


旅客収入は4.2%減少したがその減少率は運賃値下げ率15.4%よりも小幅にとどまる(画像:北総鉄道)

「運輸収入を券種ごとに分析すると、普通券は利用者増による増収が値下げによる減収を上回り、トータルで1.8億円の増収になっている。これは明らかに値下げによって利用者が誘発されたことを意味している」

室谷氏は「路線の特性や沿線の事情にもよるが、値下げは収入面ではマイナスにしかならないわけではないことが証明された」と話す。

利用者減少による経営悪化という悩みを抱える地方の鉄道会社は数多い。一般的には値上げで収支改善を図るのだろうが、値下げによる誘発効果で収入を増やせるという事例ができた。今後の参考事例になりそうだ。


普通券は値下げによる利用誘発効果が減収を上回っている(画像:北総鉄道)

通勤定期の値下げも?

運賃値下げを見届けた室谷氏は2023年6月、社長を辞任し会長職についた。今後については「安全運行を大前提に運賃やダイヤなどさらに鉄道サービスの使い勝手の良さを追求していきたい」とするほか、駅前や高架下の再開発を行うことで「沿線にプラスアルファの価値を提供したい」とも話す。

北総鉄道の車両は都営地下鉄や京急の路線を通じて、品川や羽田空港にも乗り入れる。同社は運賃値下げを契機に、沿線6市と千葉県が1編成すべてにオリジナル広告を掲出して、沿線の魅力をPRする「沿線活性化トレイン」というラッピング列車を走らせている。今年も7月31日から来年1月末まで運行する予定だ。


2023年度の「沿線活性化トレイン」(写真:Nozomi/PIXTA)

「羽田空港を利用する人は関東一円の人ですよ。その人たちが北総鉄道の車両に乗って沿線のPR広告を見る。沿線自治体も都市間競争を勝ち抜いていかなくてはいけない。これまでは沿線のみなさまから運賃を下げろと言われ続けてきたが、これからは共に北総エリアのブランディング化や活性化に取り組んでいくことで、沿線の皆さんとは本来の関係であるウィンウィンの関係をより強固なものにしていきたい」


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(大坂 直樹 : 東洋経済 記者)