初代プリメーラ登場に世界が騒然 クルマ界を席巻した”痛快セダン”
今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第23回目に取り上げるのは、初代日産プリメーラだ。
日産の勢いが凄い
初代プリメーラは日産の1.8〜2Lクラスのブランニューセダンとして1990年2月にデビュー。日本車のビンテージイヤーと言われる1989年の翌年だ。
日産は1988年にS13シルビア、初代シーマ、1989にR32スカイライン、R32スカイラインGT-R、Z32フェアレディZと矢継ぎ早に超話題作を登場させていた。
現在のクルマ界はトヨタの一強状態で、やることなすこと話題になるイケイケ状態にあるが、当時の日産はイメージ的にはこれを凌駕している感じだった。クルマ好きが日産を好きにならない理由がなかった。
日産の屋台骨のサニー
1990年に入っても勢いの止まらない日産は、1月に日産の最量販車種のサニーをフルモデルチェンジで刷新。当時のサニーと言えば、トヨタカローラの最大のライバルだ。と言ってもカローラの躍進の前に少々影の薄い存在になっていた。
その7代目サニーは、バブル景気を見据えて開発されたこともあり、それまでが一貫して大衆車路線だったのが、”大人に似合うコンパクトセダン”というコンセプトで登場。実際に歴代のサニーで最も贅沢な造りになっていたという。歴代サニーは走りにもこだわりを見せていた。詳細は後述するが、サニーも日産の『901運動』によって生まれた一台だ。
最重要モデルの翌月に市場投入
そして初代プリメーラ登場となる。そのデビューはなんとサニーの翌月の1990年2月。期待のブランニューモデルを最重要モデルの翌月に市場投入してきたのだ。マーケティングの素人には、サニーの派生車なら相乗効果が見込めるかもしれないが、サニーに話題が集中して、せっかくのブランニューモデルのプリメーラの注目度が下がるのでは? と考えてしまう。
さらに日産はサニーだけにとどまらず、プリメーラのデビュー直後にR32スカイラインGT-R初の限定車のNISMO(500台限定)、セフィーロオーテックバージョンを矢継ぎ早にデビューさせている。ライバルメーカーの戦略ですか? と勘違いしそうなくらい。
誰も日本で売れるとは思っていなかった!?
初代プリメーラのデビュー当時は、まぁ、これも日産のイケイケ状態の証なのかもしれないと思ったものだが、プリメーラの存在を敢えて薄くするような日産のマーケティング手法についての疑問は、初代プリメーラのデビューから13年後の2003年、忘れた頃に日産関係者の発言から答えが導き出された。
その日産関係者の証言とは、「初代プリメーラが日本で売れるとは誰も思っていなかった」というもの。売れると思っていなければ、あのやり方も納得いくよね、となったのだ。
東京モーターショー1989でコンセプトカーを公開
初代プリメーラは、東京モーターショー1989に出展された『PRIMERA-X(プリメーラ・エックス)』というショーモデルがベースになっている。大学の4年生だった筆者は、単なるコンセプトカーと考え真剣には見ていなかった。
東京モーターショー1989は会場を幕張メッセ(千葉県・千葉市)に会場を移した第1回目で、景気のよさも後押しして大盛況。一日平均16万350人という来場者数はいまだに更新されていない。
日本メーカーではトヨタの4500GT、ホンダのNS-Xプロトタイプなどが大人気。日産ブースでは、コンセプトカーのPRIMERA-Xよりもなかなかお目にかかることのできないレーシングマシンのR89C(グループCカー)、R32GT-RのグループAマシンのほうが人気だったように思う。
筆者個人的には、世界初公開されたピニンファリーナ『MYTHOS』、日本で一般に初公開されたフェラーリ348にべったり張り付いていた。
オースターの後継セダン
当時の日産は小型セダンが充実していた。トヨタとの販売合戦を展開し、サニーはカローラ、ブルーバードはコロナのライバルに君臨。その間を埋めるモデルとしてオースター、スタンザを設定し、パルサーもあった。
オースターの欧州名はブルーバード(日本のブルとは別物)で、日本とイギリスの工場で生産されていたが、これはプリメーラも同じ。オースターはプリメーラのデビュー時に販売終了となったことからも実質的にオースターの後継ということになる。ただし、車格はブルーバードクラスに引き上げられた。
プリンス店はウハウハ
ブルーバードと初代プリメーラは姉妹車ではないが、同じクラス。現在は合理化のため車種ラインナップが整理されているが、同一メーカー内にライバルとなる車種をラインナップするのは20世紀ではそれほど珍しくなかった。スバル、スズキ、ダイハツを除き販売会社のマルチチャンネル制をとっていたことも影響している。
今では全店全車販売となっている日産だが、当時は日産店、モーター店、プリンス店、サニー店、チェリー店の5チャンネルあり、初代プリメーラはプリンス店とサニー店の併売だった。
プリンス店と言えば、旧プリンス系モデルのスカイラン、グロリアのために存在していたなか、新たな看板車種としてプリメーラが加わった。日産に入社した筆者の大学時代の友人は、「プリメーラ人気でプリンス店はウハウハ」と語っていた。
一方ブルーバードは日産店の専売だ。
背が高いコンパクトセダン
ボディサイズはブルーバード(U12型:1987〜1991年)が全長4520×全幅1690×全高1375mmだったのに対し、初代プリメーラは全長4400×全幅1695×1385mmでほぼ同じだが、背が高いのが特徴だった。
エンジンは1.8Lと2Lの直4DOHCを搭載。これもブルーバードと同じ。ただ、2LのSR20DE型は、ブルーバードがレギュラーガソリン仕様だったのに対し、初代プリメーラは欧州で販売するためハイオク仕様となっていた。トランスミッションは5MTと4ATが設定されていた。走りを楽しむスポーツセダンというキャラクターだったため、5MTの販売比率も高かったという。
FF車のマルチリンク
当時の日産は901運動を展開中。901運動とは、「1990年までに技術世界知を目指す」というもので、シャシー、エンジン、サスペンションを徹底的に強化。その結果誕生したR32型スカイライン(GT-R含む)、R32型フェアレディZをはじめとする日産車の走りは自動車評論家からも絶賛されていた。
そのキモとなったのがマルチリンクサスペンションで、初代プリメーラはFF(前輪駆動)車として初めてフロントに採用。この効果は絶大で、ダイレクト感のあるステアフィール、自在にコントロールできる操縦性の実現に大きく貢献していた。
このフロントのマルチリンクサスによる新世代のFF車の走りが欧州勢、特にFF車をメインとするアウディ、オペル、フォルクスワーゲンにも衝撃を与えた。
日産が作ったガイシャ
締め上げられたサスによる乗り味はシャープ。コントローラブルでコーナリングスピードはスポーツカー並み。そのポテンシャルの高さは、ドイツ車を超えたとも言われた初代プリメーラ。日産が作ったガイシャと言われるゆえんだ。
その代償として乗り味は硬い!! ハイソカーブームでゆったりとした柔らかめのアシに慣れていた日本人にとっては衝撃だった。多少の乗り心地を犠牲にしても走りにこだわったのは多くのクルマ好きから評価され、日本のスポーツセダンの代名詞にまでなった。
その一方で、購入したユーザーの「硬すぎて乗り心地が悪い!!」という意見に応えるかたちで日産は1992年のマイチェンで若干乗り心地に振った足回りに変更した。
日産が自信をもって投入したアシのセッティングを変えるくらいだから、相当数のクレームが入ったのだろう。
シッカリ動くアシに感激
筆者が初めて初代プリメーラをドライブしたのは、1991年に『ベストカー』でアルバイトをしていた時で日産の広報車両だった。スポーツするにはアシは硬くなきゃ、という時代、ガチガチにアシを固めたAE86レビン/トレノ、スターレット、シビックなどに乗り慣れていた者にとっては、硬いけどしっかり動くアシは感激モノだった。
クルマの経験値が乏しい筆者とって、初代プリメーラは走りのいい、悪いを判断する際のベンチマークとなり、かなりの期間、「初代プリメーラと比べてどうか」が基準だった。
この原稿を書いていて、また運転したくなった。でも今後自分が購入することはないだろうから実現する可能性は少ないだろう。まぁ、「ベストカー」の企画での出会いに期待しよう。
時代に反したデザイン
初代プリメーラが登場した時に「コンセプトカーと全然違う」、と誰もが感じたことだろう。そのギャップに驚いたものだ。
市販モデルはギュッと引き締まったような塊感のあるデザインが特徴だ。そのため、サイズよりも小さく見えた。当時の日本車は大きく豪華に見せようと必死だったが、初代プリメーラはその真逆。当時の日本車で、実際によりも小さく見えるのは珍しかった。1980年代中盤から盛んになったフラッシュサーフェイス化(ボディ全体に段差をなくしてを滑らかにする)による空力追求というトレンドは押さえていたのも小さく見えた要因だろう。
第一印象は、オペルベクトラと似ているなというもの。まとまっているが華やかな感じはまったくなくて、地味なセダンだな、というネガなイメージしかなかった。
カリーナEDが先鞭をつけた背が低いスタイリッシュでもなかったため、カッコいいとも思わなかった。それは、ハイソカーブームに頭が毒されていたからだろう。
しかし、時間とともに印象は激変。現金なもので乗って感激した後は、チャラチャラしていない落ち着いた雰囲気が凄く心に刺さるようになった。
前澤義雄氏がデザイン
初代プリメーラでデザインしたのは前澤義雄氏。前澤氏はコンセプトカーのMID4(1985年)、MID4-II(1987年)、3代目マキシマ(1988〜1994年)、4代目パルサー(1990〜1995年)、Z32フェアレディZ(1989〜2000年)などのデザインを手掛けてきた。
初代プリメーラも前澤氏の代表作のひとつだ。
前澤氏は1993年に日産を退社後フリーランスに転身。筆者が在籍していた自動車雑誌『ベストカー』でもお仕事をお願いしていた。筆者は2002年から前澤氏がお亡くなりになる2014年までの12年半続いた連載『デザイン水掛け論』を立ち上げ時から担当。眠狂四郎的シブさを持つ前澤義雄氏と軽妙な清水草一氏の掛け合いが絶妙なベストカーの名物連載だった。
デザインの自由度が低い
03年の『デザイン水掛け論』で初代プリメーラの話が出た時のこと。初代プリメーラのデザインを絶賛する清水氏に対し、イマイチ乗り気でない前澤氏。
どうやら周囲から絶賛されていた初代プリメーラのデザインだが、前澤氏自身は傑作とは思っていなかったようだ。これは意外だが、「デザインの自由度が低すぎた」とのこと。
欧州マーケット向けのクルマだったため、空力の追求と各部の冷却(前澤氏は”冷熱”と表現)の追求が必須だったため、デザインで特徴を出そうにも制約が多すぎたという。
実は前述の「初代プリメーラが日本で売れるとは誰も思っていなかった」と証言した日産関係者とは前澤氏だったのだ。
すべての点でハイレベルな万能セダン
前澤氏の予想を裏切るかのように初代プリメーラは日本で堅調に売れた。1995年9月に2代目にバトンタッチするまでに約34万台を販売。オースターがお世辞にも人気モデルではなかったため日産のドル箱となった。
初代プリメーラは落ち着いたデザイン、ドイツのFF車を凌駕するハンドリングなどが人気の要因だったが、もうひとつ忘れてはいけないのが室内、トランクともに広く、小型セダンとして高い実用性を備えていたことだろう。
今思い返しても、初代プリメーラは走る、曲がる、止まるという走りの三拍子を高いレベルで実現し、デザイン、パッケージング、実用性にも優れた万能セダンだった。
【初代プリメーラ2.0Tm主要諸元】
全長4400×全幅1695×全高1385mm
ホイールベース:2550mm
車両重量:1180kg
エンジン:1998cc、直列4気筒DOHC
最高出力:150ps/6400rpm
最大トルク:19.0kgm/4800rpm
価格:194万2000円(5MT)
【豆知識】
ピニンファリーナはイタリアを代表するカロッツェリアで、数多くのフェラーリのロードカーをデザインしてきたほか、自動車メーカーからの依頼によりオープンカーを手掛けてきた。ミトス(MYTHOS)は東京モーターショー1989で公開されたモデルで、フェラーリテスタロッサをベースにスペシャルボディが架装されている。市販化されなかったが、ミトスのデザインはその後に登場するスーパースポーツに大きな影響を与えたと言われている。これが日本で初公開されたことが凄すぎる。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975〜1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/NISSAN、ベストカー