死期を悟った50代女性が日記を他者に託した意味
ある女性の日記帳に綴られた、ある日の日記(筆者撮影)
名もなき人も、懸命に生きている。そんな個人の人生の終わりに触れることができるオープンソースにアクセスすることで得られるものがある。今回は、かつての恋人を思い、病気によってキャリアの夢が断たれた、ある一人の女性の物語を拾い上げていく。
命が尽きる前に、と託された日記帳
志良堂正史(しらどう・まさふみ)さんは、2014年から他人の日記帳や手帳を収集するプロジェクトを続けており、そのコレクションは約1700冊、書き手の人数にして約200人に及ぶ。
収蔵物の一部は、東京にあるアートギャラリー「Picaresque」の一角に常設された有料の私設図書館「手帳類図書室」に置かれており、予約に空きがあれば誰でも閲覧可能だ。また、別に企画したワークショップや展示会などで公開することもある。詳細はかつて筆者が志良堂さんにインタビューした記事(「他人の人生を覗く」に魅せられた男の仕事観)を参考にしてほしい。
そうした活動を10年続けている志良堂さんをして、他に類を見ないと言わしめる出来事がある。2018年の初夏。余命幾ばくもないという女性から、四半世紀に及ぶ日記帳を引き取ってほしいと依頼されたエピソードだ。
その女性(Mさん)は、海外で活躍していた30代の終わりに乳がんを患い帰国。寛解したあとは地元で生計を立てて平穏に暮らしていたが、10年以上経って再発し、以降は闘病生活を続けているという。しかし、その生活も間もなく終わりを迎える段階にきていると自覚している。
Mさんが志良堂さんに託したのは、20代の頃から長年愛用していた花柄の日記帳と、帰国後に使うようになった2冊の「5年卓上日記」だった。個人情報を伏せる条件で、メディア掲載を含めた公開を認める契約を交わした。
何度も捨てようと思ったが、捨てられなかったそうだ。自分の死後にどうすればいいのかと悩んでいるときに手帳類プロジェクトのことを知り、託すことを決めたとのこと。秘中の秘、プライバシー中のプライバシーに関わる情報を、自らと切り離すことでオープンソースとしてこの世に残すという決断だ。
Mさんがそこまでした背景には何があるのか。それを探る糸口は3冊の日記帳のなかにあるはずだ。志良堂さんから記事化の許しを得て、特別に貸し出してもらった。Mさんの生涯とその内面を追ってみたい。
Mさんが志良堂さんに託した3冊の日記帳(筆者撮影)
バブル時代のトレンディーな空気
Mさんが生まれたのは日本が高度経済成長を続けていた1965年。地元に近い地方都市の短期大学を卒業すると、二十歳から社会人として世間の波にもまれた。世はバブル経済のまっただ中で、街を歩けば華やかな衣服がどんどん目に飛び込んでくる。やがてアパレルの世界に強く惹かれるようになり、会社勤めしながら洋裁の専門学校に通うようになった。
花柄の手帳に日記を綴るようになったのはその頃からだ。主に綴るのは、洋裁と恋愛に関すること。当時交際していた会社の先輩・Uさんとのすれ違いを切なく吐露した翌日に、最近は後輩のK君が気になっているとこぼし、また別の日には、勢いで同期のSとデートすることになったと悩ましそうに語っている。1990年11月の日付けで書かれた日記にはこうある。
<昨日プリティウーマンを見る
マイフェアレディに似ている様な気がした.
ジュリア・ロバーツがかわいかった
シンデレラ物語みたいな夢物語だと思う.
素敵な洋服がきられて、きれいになって、ハッピーエンド
やっぱりハッピーエンドで終わらなきゃつまらないよね.>
当該ページ(筆者撮影)
当時25歳。Mさんの筆を通して、まるでトレンディードラマの世界のような時代の空気を感じた。
いろいろな登場人物が現れるものの、職場や生活環境が変わっても頻繁に登場する男性はUさんだけだった。別れを告げた1週間後に、Uさんからの電話がこないと怒り、専門学校を卒業してアパレル業界に転職した後に「もう会わない」と宣言し、年明けにはUさんからの年賀状が届かないことを嘆いたりしている。記事冒頭に挙げた写真にあるポケベルの愚痴はUさん絡みのものだ。
やはり本命はずっとUさんだったのだろう。夢での再会も含めて、1997年頃までの日記にはUさんの影が見える。それでも、転職を機に上京し、洋裁を極めるために海外留学を目指すようになる頃には完全に吹っ切れたようだ。
上京後は日記のペースが数日に1回、数週間に1回と落ちていったが、残された断片からは一心不乱でスキルアップに励む日々が覗く。日本は不況の嵐にのみ込まれ、アパレル業界にも厳しい風が吹いていたが、仕事に関するネガティブな内容は一切残していない。
花柄の手帳は2004年10月の日付けで終わっている。留学を終えて帰国し、地元で洋裁店を営むようになっていた時期だ。39歳。留学から地元に戻るまでの経緯はこの日記帳からは辿れないが、2007年から始めた2冊の5年卓上日記=2007〜2011年版と2012〜2016年版を読み込むと、少しずつ当時のピースが埋まっていく。
5年卓上日記は見開きで4日×5年分の日記が書ける仕様になっている(筆者撮影、一部加工)
留学先での暮らしを断念
<昨晩夢にうなされ 夢がこわくて母におこされる
4:00 DにTel. 泣いてしまった.
(略)
やはりA(※筆者注:洋裁店のオーナー)の所で働きたかったのだ.>
(2010年3月)
かの地での就職も決まっていたが、父が倒れたことでいったん帰国を決断した。しばらくの闘病の後に父は亡くなったが、時をおかずしてMさん自身の体調が優れなくなった。病院で検査を受けると乳がんと診断された。
切除すれば完治が見込める状態だったが、海を渡っての生活は諦めた。治療を受けながら、地元に自分の店を構えて暮らしていこう。就職先に断りを入れて、現地で交際していたDさんとは別々の人生を歩むことを決めた。
そうするしかなかったし、自ら納得した結論だった。それでも、諦めきれなかった願望がときどき夢として現れてくる。
<Dの夢を見る
はっきり思い出せないけど 一緒に住んでた>
(2008年3月)
Dさんだけは日記帳でも、多くの場合は「D」と表記している(筆者撮影)
Mさんの日記には昨晩見た夢の話がよく出てくる。ほとんどは思いを寄せている人物が登場するエピソードだ。花柄の手帳の頃にはUさんがよく出てきたが、5年日記ではその座をDさんが奪っていた。
留学先での日々が忘れられない。Dさんと共に暮らしたい思いも残る。しかし一方で、現在の生活に絶望しているわけではないことも日記から伝わってくる。
<病院の検査 異常なし.
3時間待ち.けっこう疲れた
結婚の予定は?って聞かれた
今はとくにないですけど、近い将来あるかな〜>
(2008年1月)
この時に思い描いていた相手がDさんだったかはわからない。帰国後もDさんとは国際電話やメールで連絡を取りあっていたが、物理的な距離の問題もあって、直接会った記録は2007年までしか辿れない。Dさんの座を奪う誰かは、その後の日記にも登場しなかった。
術後11年の平穏な暮らし
Mさんが5年卓上日記を使うようになって明らかに増えたのは、体調に関する記述だ。2〜3回ページをめくれば、ほぼ確実に「頭痛」や「病院」といった言葉が目に入ってくる。加齢による不調もあると思われるが、乳がんとの闘病を経たうえでの健康意識の変化とみるのが自然だろう。
術後検診の記録も毎年しっかり残している。最初の5年日記では半年に1回ペースだったが、2冊目では1年に1回ペースとなり、2014年まで続けている。
<病院に行く
10年目.来年から行かなくてよい.うれしい.>
(2014年7月)
この翌年の2015年に50歳を迎えた。自らの洋裁店に新規のお客さんが来ては喜び、家族や友人と旅行に出かけた旅行記を日記帳の最後にあるフリースペースに詳細にメモしたものも残っている。いつしか夢や現実でDさんのことに触れることはなくなっていった。新たな恋人こそ現れないが、平和で平穏な日々が送れている様子が伝わってくる。
洋裁の仕事に関しては、花柄の手帳の頃から一貫して前向きだ。新たな技法を勉強したり、扱ったことのない生地を見つけて興味深くしたりしている。一言二言の日記でも、数千日分を通読すると、誇りを持って仕事を続けるプロの姿がくっきりと浮かび上がってくる。
暗雲は2016年の夏頃から漂い始める。
日記の終わり
<11時から××で脳のMR
(略)
MRの所見、何ともないらしい
肩こりからくる頭痛か?>
(2015年6月)
<あばらが痛い為
××整形へ 折れていた
痛いはずだ>
(2015年9月)
「朝から調子が悪い」が連続する2015年12月の日記(筆者撮影)
不調を告げる短い日記が続く。その色は年が明けると深刻さを増した。少ない文字数で、仕事と交友、身体の不調といった事実のみを淡々と綴るパターンが続く。
<Eと約束していたが
昨晩腰を痛めた為、
キャンセル>
(2016年1月)
<新しい仕立てのお客さん.
今日も腰が痛い>
(2016年1月)
昨年のあばらの骨折もあり、行きつけの整形外科を訪ねると、骨シンチグラフィという検査を勧められる。がんの骨転移が疑われるときに行われる検査だ。紹介されたがんセンターでも転移の疑いがあると告げられた。その数日後には、呼吸困難によって救急車に運ばれた。肺に水が溜まっていると言われた。
そして、2016年2月某日に「PET検査」とだけ書いたきり、日記の更新は途絶えている。
5年卓上日記の最後の記入(筆者撮影)
日記に添えられた「履歴書」
PET検査は、がんの有無や転移の具合を調べる全身対応の精密検査を指す。その結果、乳がんの転移が骨と肺などに見つかり、「余命半年くらい」と告げられたという。
その後、治療が奏功して命の危機を脱したものの、複数の場所に転移したがんは取り除けず、闘病しながらできるかぎり生活を維持する生活となる。しかし、次第に抗がん剤の効果が現れなくなり、すべての治療を停止して緩和ケアに移行することを決めた。
Mさんが偶然つけていたラジオで、ゲスト出演していた志良堂さんの声を聞いたのは、まさにその頃だった。手帳類プロジェクトというものがあって、他人の日記を収集しているらしい。体調が落ち着いたときに連絡先を調べてメールを送った。そのメールには自身の現状や動機について事細かに綴っていたそうだ。
そして2018年5月、志良堂さんの元に届けられたMさんの日記帳には、鉛筆で書かれた「生涯の履歴書」が添えられていた。それも含めて、全公開で託すことが認められている。この履歴書のおかげで、日記後のMさんの足跡を辿ることができた。後半の一部を抜粋する。
<2002〜2003 留学
2004 父が病気の為 帰国.
(略)
2016 病気の転移見つかる.
余命半年くらいと言われるが、治療がきき現在に至る
日記の中のDの所に行きたかったが、
家の事を放っておけず、彼にも家族にも本当の事が
言えないまま他界する事になる>
添えられた「履歴書」(筆者撮影)
日記のなかでDさんやその家族に言及したのは2014年8月が最後で、以降は留学先のことを含めて記述されることはなかった。夢の記述もない。それでも、その後のMさんの内面にはDさんと共に暮らす願望が消えていなかったのだ。
そのことをDさんにも家族にも「言えないまま他界する事になる」。だから、せめてその思いだけは消滅させずに、匿名の誰か――しかし確かに存在した一人の人間の願望として、この世に残したかったのではないか。
日記帳には、顧客に向けて刷られたであろう、自身の店を閉じる挨拶文を印刷したカードも挟んであった。日付けは2017年12月とある。すでに生涯の誇りとしていた仕事にもピリオドを打っているわけだ。
日記を綴らなくなってから2年間。Mさんが何を感じて、その間に何があったのかを確かめることはできない。けれど、日記帳を手放す直前、人生の終わりを強く意識して活動していることは容易に想像できる。断腸の思い。並大抵のことではなかっただろう。
匿名にして残したかったもの
それを踏まえて、もう一度3冊の日記帳を読み返すと、2007〜2011年の5年卓上日記に気になる記述を見つけた。各月のカレンダー枠の終わりにはフリースペースが1〜2ページ設けられているが、3月部分の3段落目、おそらく2009年の当月末に書いたと思われるものだ。
<私の人生は今一歩のところで大切なものを取り逃す事の連続だった。愛する事ができなかった女性.
遠のいて行った幸せ。結果が解っていたのに勝者に賭ける事ができなかったレース.>
3月パートの最後にあるフリーページ(筆者撮影)
留学先から戻って数年、乳がんの術後の状態も良好で、洋裁店も軌道に乗っていた頃だ。傍からは順調な様子に見えていたかもしれない。それでもMさんは、内面にずっと後悔を湛えていた。Dさんや留学先での就職だけでなく、若き日のUさんとのことも含んでいたのかもしれない。
志良堂さんがMさんと連絡を取ったのは2018年7月が最後だ。その後のMさんのことは知れない。ただ、匿名の誰かの記録としてMさんが残した日記は、今も公開が許されたかけがえのない情報として、2024年7月も確かに存在している。
手帳類プロジェクトは現在も、専用フォームなどから日記や手帳の寄贈を受け付けている。自らとのつながりを絶って世の中に放つ。そういう道筋があることを知っておいても損はないと思う。
(古田 雄介 : フリーランスライター)