藤原道長を演じる柄本佑

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「人間的に優れた存在」として描かれる道長

 2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、主役の北条義時(小栗旬)が、権力を握ってからは冷酷に政敵を排除し、「闇落ち」していく様子がリアルに描かれて話題になった。脚本家の三谷幸喜は、義時を『ゴッド・ファーザー』のマイケル・コッレオーネのように描きたかったのだそうだ。おそらく、今年の『光る君へ』の藤原道長(柄本佑)も同様に、脚本家はいずれ「闇落ち」させるだろう――。私はそう思って疑わなかった。

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 というのも、道長といえば、若くして権力の最高位に昇り詰めたのちは、自分の娘を次々と入内させ、天皇の外戚として絶大な権力を握った人物だったからである。自身の家系を盛り立てて、政敵を排除するためには、かなりえげつない手段もいとわなかった。

藤原道長を演じる柄本佑

 たしかに、関白まで上り詰めた藤原兼家(段田安則)の息子でありながら、末っ子だったので、元来は、よほどのことがないかぎり最高権力者になるような立場にはなかった。しかし、兄たちが次々と病死し、ひとたび政権のトップに躍り出ると豹変した。これまで、『光る君へ』では道長を、一本気で権力に関心がない若者として描き、権力を握ってからも、常に私益より公益を優先する人格者として描写してきた。

 しかし、そろそろ「闇落ち」させないと、物語の辻褄が合わなくなる。そう思っていたところが、脚本家の大石静の頭には「闇落ち」という発想はないようなのだ。6月30日の朝日新聞朝刊に、大石のインタビュー記事が掲載され、そこで彼女は次のように語っていたのである。

「傲慢な独裁者といわれている道長を人間的に優れた存在として描いたのは、(筆者註・時代考証の)倉本(一宏)先生から『通説とは異なる非常に優れた政治家だったと思う』とお聞きしたのがきっかけ。天皇の祖父として権勢を誇るが、人事は意外とリベラルだったと。『その方向は面白い』と思いました。

 前半で道長は、政治や社会の矛盾をおもしろおかしく批判する散楽の役者で、実は義賊の直秀が理不尽に殺された際、『直秀のような人が出ない世の中を作りたい』と誓いました。私はその思いを最後まで貫かせたい。もちろん、道長は年を重ねて多少は強引になりますし、敵に回せば怖い存在かもしれませんが、闇落ちはしません」

定子への露骨ないやがらせ

 むろん、ドラマだから、道長像を既存の枠に閉じこめておく必要はない。社会的公正を追い求めた政治家として描くという方向性も、必ずしも否定されなくてもいい。だが、そうはいっても、ここから先の道長を「闇落ち」と無縁に描くとしたら、各所に不自然な設定を重ねざるをえなくなるのではないか。

 というのも、この先、道長が行ったことは、社会的公正を求める姿勢とは似ても似つかなかったように思われるからである。その例をいくつか挙げてみたい。

 道長は『光る君へ』の第26回「いけにえの姫」(6月30日放送)で、ドラマでは黒木華が演じている正妻の源倫子に産ませた長女の彰子を、一条天皇のもとに入内させる決心をした。陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)から、いま世が乱れているのは、一条天皇(塩野瑛久)が、兄弟の不祥事に際してみずから出家した中宮定子(高畑充希)を寵愛しているからで、それを正すためには、道長の娘が入内して朝廷を清めるしかない、と進言される。

 それを受け、道長は不本意ながらも、朝廷の安定のために娘を「いけにえ」として差し出す、という描き方だった。しかし、道長も父の兼家と同様に、自身の政権を安定させるために娘を入内させ、皇子を産ませようとした、と解釈するほうがはるかに自然である。というのも、摂関政治の時代、上位の公卿の娘にとっていちばん大事なのは、天皇の子を産んで父親に権力をもたらすことだった。それが当時の宮廷社会の常識であった。一方、社会的公正を実現させようというリベラルな姿勢は、当時の貴族とは無縁のものだった。

 そう考えてはじめて、その後の道長の行動にも説明がつく。

 道長が彰子を入内させたのは、長保元年(999)11月1日だが、その前に定子は懐妊していた。そして8月9日、お産が近づいた定子は平生昌邸に移った。その際、一条天皇は公卿たちに供を務めるように求めたのだが、だれも集まらなかった。道長が同じ日に宇治への遊覧を企画して公卿たちを呼び、定子側につくのか、自分につくのか、選択を迫ったからだった。これは定子への露骨な嫌がらせで、さらに道長は、彼女が公卿たちの指示を得ていないことを世に示そうとしたのだと思われる。

あくまでも自分と自分の家を優先した道長

 そもそも、数え12歳にすぎず、まだ懐妊は困難な彰子を急いで入内させたのも、皇子を産む可能性がある定子と一条天皇にプレッシャーをかけるためだった。そして、11月7日に定子が第一皇子の敦康親王を出産すると、彰子の立場を少しでも定子に負けないようにしておくために奇策を講じた。一条天皇にはすでに定子という中宮がいたというのに、彰子も皇后に立て、「一帝二后」を実現させようとしたのだ。

 ちょうど太皇太后が死去し、三つしかない「后」に空席ができたのをいいことに、そこに彰子を押し込み、同じ一条天皇のもとに二人の后を置こうと考えたのである。かつて、道長の長兄の道隆は、三つの「后」に空席がないので、皇后の別称である「中宮」をもうひとつの「后」の座と定め、そこに定子を押し込んだ。強引なやり方で批判されもしたが、とはいえ定子は、一条天皇にとっては唯一の后だった。しかし、道長は一人の天皇に二人の后という、兄よりえげつない手段に打って出た。

 また、道長は一帝一后が実現する以前から、一条天皇に彰子のもとに通うようになってもらおうと必死で、女房40人、童女6人、下仕え6人を、容姿や人柄のほか出自や育ちのよさにこだわって選りすぐった(『栄花物語』)。また、山本淳子氏はこう記す。「部屋の外まで香り立つ香、何気ない理髪の具や硯箱の中身にまで施された細工。天皇の文学好きを知る道長は和歌の冊子もととのえ、当代一の絵師・巨勢弘高に歌絵を描かせ、文字はまたも行成に筆を執らせた」(『道長ものがたり』朝日選書)。

 長保2年(1000)12月15日、第二皇女を出産した定子が、後産が下りずに亡くなったのちは、道長はやむをえず、定子が産んだ敦康親王を彰子のもとに置き、後見するしかなかった。だが、それは敦康親王を母親の実家である中関白家に奪われないようにするためでもあった。仮に、今後も彰子に皇子が生まれず、敦康が即位することになったとしても、彰子が養母で道長は養祖父という関係をつくって権力を維持する。そんな計算まであったと考えられている。

 その後、結婚から8年を経て彰子は懐妊し、寛弘5年(1008)9月11日、のちの後一条天皇である敦成親王を出産した。その前年8月、道長は奈良県吉野郡にある山岳修験道の聖地、金峯山を詣でた。その目的は、自分自身が極楽浄土に往生することと、彰子の懐妊祈願で、いうまでもなく、なんらかの社会的公正を祈願したわけではなかった。

「政治屋」だからこそ感じていたうしろめたさ

 また、『光る君へ』の道長はいたって健康体だが、史実の道長は病弱で、頻繁に病に倒れていた。たとえば、定子が敦康親王を産んだ直後には急性胃腸炎になっている。だが、こうした病気だけではなく、たびたび怨霊が乗り移っている。

 長保2年(1000)2月25日に一帝二后を実現すると、5月19日には、道長に次兄の道兼の怨霊が憑き、続いて25日には、長兄の道隆が乗り移ったと、藤原行成は日記『権記』に記している。このとき、「(定子の兄で、不祥事で失脚した)伊周をもとの官職、官位に戻せば、道長の病も癒える」と、道隆が道長をとおして訴えたのだという。

 しかも、同じように怨霊が道長に憑いたという例は、その後も散見される。要は、道長の心中に後ろめたさがあるから、道隆が乗り移ったかのような言葉を発したりした、ということではないだろうか。

 ここまで見てきたように、道長の姿勢はどう見ても、東京都知事選で2位につけた石丸伸二氏がいう「政治屋」、すなわち「党利党略、自分第一」に該当する。しかし、その結果として、最高権力者と天皇の関係性が安定すれば、貴族的にはメリットがあった。その意味では、道長は「傲慢な独裁者」であったとは言い切れないが、この時代に発想自体が存在しなかった「社会的公正」をめざしたわけではないだろう。

 だから、道長をある程度「闇落ち」させないと、ドラマに不自然な設定が目立つようになってしまうのではないかと、心配なのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部