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共産圏で生まれた奇抜なクルマたち

東欧諸国はこれまで、奇抜な設計やスタイリングを持つ、奇妙ながらも興味深いクルマを数多く生産してきた。

【画像】現代ロシアの高級車・大衆車【アウルス・セナートとラーダ・ニーヴァを写真で見る】 全28枚

今回は、東欧から生まれた名車・迷車の一部を紹介しよう。


東欧諸国のメーカーが生み出した奇抜なクルマを17台紹介する。

タトラT603(1956年)

もし、あなたが1950年代後半のチェコの企業幹部や工場経営者だったら、名もなき大衆には買えない豪華なタトラT603を乗り回していたことだろう。

そのボディ形状は昆虫に似ている。ボディの両サイドから吸気口の「耳」が突き出し、リアに積まれた最高出力100psの2.5L V8エンジンに空気を送る。全体的にクロームメッキで仕上げられ、4灯の円形ヘッドライトがフロント中央についている。


タトラT603(1956年)

ZAZ 968(1971年)

ウクライナ製の968は、大衆車として東欧市場に投入された。一見するとそれほど特別なクルマには見えないが、リアに冷却ダクトが設けられ、ある種のスポーティさを備えている。

最高出力41psの空冷1.2L V4エンジンと4速MTを搭載する後輪駆動車だ。エンジンは素晴らしいサウンドを奏で、オーディオシステムも標準装備されていた。


ZAZ 968(1971年)

ヴェロレックス・オスカー(1945年)

このクルマの奇妙さは明らかだ。英国のモーガンに触発され、1936年に2人のチェコ人兄弟が小型で安価な3輪車の製作に着手したのが始まりだ。1945年、兄弟は最初の自動車を生産し、ボディには板金ではなく革を使用した。最高出力6psのオートバイ用エンジンが搭載され、当時の平均的な自動車の4分の1の価格で購入できた。

徐々に事業拡大し、1954年には80人の従業員を雇用し、月に40台を生産するまでになった。合計約1万6680台が生産された。車名の「オスカー(Oskar)」には「車軸付きのカート(kara na ose)」という意味があるそうだ。


ヴェロレックス・オスカー(1945年)

メルクスRS1000(1969年)

エンツォ・フェラーリの作品と勘違いされるかもしれないが、このクルマは今は存在しない国、ドイツ民主共和国(DDR)で作られたものだ。ル・マン耐久レーサーのような外観、ガルウィングドア、ファイバーグラス製ボディを持つRS1000は、「社会主義者のフェラーリ」と呼ばれた。

V10かV12が積まれているかと思いきや、そうではなく、リアに最高出力68psの1.0L 2ストロークエンジンが搭載されている。10年間でわずか100台が生産された。


メルクスRS1000(1969年)

マルシャB1(2009年)

ヴァージン・レーシングを引き継いだマルシャ(Marussia)は、F1ファンにはおなじみの名称だろう。2008年、ロシアに本拠地を置くマルシャは、フェラーリ458から市場シェアをかっさらうべく作られた新型スーパーカー「B1」を発表した。

エンジンのチョイスがちょっと奇妙だった。ベースモデルでは最高出力300psの3.5L V6を搭載するが、2.8L V6ターボでは最高出力310psまたは425psの2種類の仕様が用意された。


マルシャB1(2009年)

車両重量はわずか1100kgと軽量で、フェラーリ458のパワーウェイトレシオを凌ぐ。2009年に「B2」が登場したが、泣かず飛ばずでマルシャは2014年に倒産した。

トラバント601(1964年)

ドイツといえば高級車のイメージがあるが、601は真逆の存在だ。トラバント601は東ドイツにおける個人の交通手段であり、安価で経済的だった。長年にわたり、共産主義の象徴となっただけでなく、世界中でカルト的な人気を集めた。

最高出力21psの2気筒2ストロークエンジンは、古典的な混合給油式となっている。車両車重は600kgをわずかに超える程度で、ボディはリサイクル綿を使った繊維強化プラスチック製だ。ボディが錆びないおかげで、比較的多くの車両が現存している。


トラバント601(1964年)

アウルス・セナート(2018年)

ウラジーミル・プーチンは、大統領専用車をドイツ製ではなくロシア製にこだわったため、アウルス・セナートという装甲リムジンが作られた。ロールス・ロイス・ファントムのようなボディ形状、ライト、グリルを備えているが、奇妙なことに、パワートレインにはポルシェとボッシュの協力を得て設計された最高出力598psの4.4L V8ハイブリッドを搭載している。16万ドルという価格は、ロールス・ロイスよりかなり安い。


アウルス・セナート(2018年)

ラーダ2101(1970年)

1970年から1988年まで生産された2101は、フィアット124を大幅に改良し、東欧圏とソ連向けに作られたモデルだ。生産初期の車両には、寒冷地でバッテリーが上がった場合に手動でエンジンをクランキングするためのスターターハンドルと、補助燃料ポンプが装備されている。ロシアの過酷な道路環境に対応できるよう、生産終了までに800を超える改良が施された。現在でも、東欧を中心に数多く走っている。


ラーダ2101(1970年)

スコダ110 R(1970年)

現在フォルクスワーゲン・グループ傘下にあるチェコのスコダ。1970年当時、1000mbというセダンをクーペにする計画があったが、構造上の問題からすぐに中止となる。代案として、110のセダンをベースにリアを削った110 Rが誕生した。

110 Rは約5万7000台が生産され、中にはポルシェのようなハブキャップを備えたモデルもあった。リアには2つの吸気口があり、最高出力52psの1.1Lエンジンに空気を送り込む。


スコダ110 R(1970年)

SMZ S3D(1970年)

ソビエト連邦時代、自動車を購入できる経済状況にある人は少なかった。そこで政府が手を差し伸べ、ロシアのマイクロカー・メーカーであるSMZが身体障害者向けの安価なクルマを生産することになった。

このクルマを必要とする身体障害者には無償もしくは大幅な割引価格で提供された。車内は2人乗りで、最高出力18psの空冷2ストロークエンジンが500kgの車体を最高速度55km/hで走らせる。


SMZ S3D(1970年)

ダチアMD87(1987年)

エンジニアのニコラエ・コスメスク氏(1950-2020年)は、ミドシップ・スポーツカーを作るという幼い頃からの夢を追い求め、MD87を完成させた。ボディはダチア・スポーツのものを流用し、エンジンは後部に移された。

車名の「MD」はコスメスク氏の妻(モニカ)と息子(ドラゴス)に由来し、「87」は発売年の1987年にちなんでいる。デザインは少々独特で、フォードGT40にインスパイアされたと言われている。


ダチアMD87(1987年)

ラーダ111ターザン2(1999年)

基本的には、ラーダ111のボディをラーダ・ニーヴァのシャシーに載せ、頑丈なオフロードタイヤとブルバーを装着したモデルだ。高い地上高と四輪駆動で完璧な性能を備えているように見えるが、最高出力80psの1.8Lエンジンで重い車体を走らせなければならない。およそ1000台が生産されたと考えられている。


ラーダ111ターザン2(1999年)

ダチア1410スポーツ(1983年)

1410が登場する1983年以前、ルーマニアのダチアは1310などを生産していた。1310は数多く販売されて街に溶け込んでいたが、1983年にダチアは全車種のモデルチェンジを実施し、ライバルメーカーのファストバック・クーペに遅れを取らないよう、1410スポーツを発表した。そのプロポーションはぎこちないもので、スポーツカーなのか、ファミリーカーなのか、多くの人に迷いを残した。


ダチア1410スポーツ(1983年)

ZAZ 966(1966年)

東ドイツのトラバントに相当するロシア車であり、その優れたオールラウンド性能は称賛されたが、デザインが酷評された。多くの人が昆虫に似ていると考え、すぐに「せむし男」というあだ名が付いた。

また、サイドのエアインテークのせいで、身体が小さいくせに耳ばかり大きいと嘲笑する者もいたが、これは同時代の他車にも見られたデザインだ。有名なオーナーの1人にウラジーミル・プーチンがいる。ZAZ 966は彼の最初の愛車で、1972年に手に入れた。


ZAZ 966(1966年)

ZIS-101Aスポーツ(1939年)

1939年当時、ソ連のモータースポーツ界はまだ成熟しておらず、複数のメーカーがスポーツカーを生産していたものの、軽量化技術は発展途上であった。ZISは増大するスポーツカー需要に対応し、富裕層向けの大型リムジンの101を改良した101Aスポーツを発表した。

しかし、直列8気筒エンジンのパワー不足(最高出力141ps)と、高級車ベースの骨格からくる重量(約2000kg)のために開発中止となった。いずれにせよ、第二次世界大戦でプロジェクトは立ち行かなくなっていただろう。1930年代で最も美しいスポーツカーの1つで、わずか2台しか製作されなかったが、近年いくつかのレプリカが作られている。


ZIS-101Aスポーツ(1939年)

ザスタバ750(1962年)

第二次世界大戦後、ユーゴスラビアに輸入されたクルマには41%の輸入関税が課されたため、ユーゴスラビア人の中でも裕福な人しかクルマを買うことができず、多くの人は現地生産車を買うしかなかった。

ザスタバはこれを好機と見て、フィアットと契約を結び、当時のフィアット600をユーゴスラビア国内で生産することになった。これがザスタバ750となった。奇妙なことに、両車はほとんど同じだが、750のほうがフィアット600よりわずかに長い。


ザスタバ750(1962年)

GAZ 24-95(1973年)

前述のターザン2同様、24-95も既存車を改造したオフロード用モデルである。ベースの24はモジュール構造であったため、軍事パレード用にコンバーチブル化されたり、ピックアップトラックの荷台が与えられたりした。ロシアの厳しい冬に対応するため、GAZは警察や政府高官向けに5台の24-95を生産した。

フロントアクスルはヴォルガのリアアクスルを流用したもので、地上高を高めたリーフスプリング・サスペンションと太いタイヤを備えている。ソ連のレオニード・ブレジネフ書記長も所有し、狩猟で使用していたという。


GAZ 24-95(1973年)