かつて川崎で活躍をしたレナト【写真:Getty Images】

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川崎フロンターレの伝説的な忘れられない海外移籍

 過去、川崎フロンターレからは多くの選手が海外移籍を果たしてきた。

 始まりは2010年の南アフリカ・ワールドカップ後に欧州移籍を果たした川島永嗣と鄭大世になるだろうか。12年夏には田坂祐介がドイツブンデスリーガ2部ボーフムに渡った。ここ数年を振り返ると、板倉滉、三好康児、守田英正、三笘薫、田中碧、旗手怜央、谷口彰悟、山根視来と、毎年のように主力が活躍の場を海外に求めている。

 その中でも、忘れられない海外移籍がある。

 日本人選手ではない。2015年夏、中国の広州富力に移籍したブラジル人選手のレナトである。

 当時は風間八宏監督が指揮をしていた時代で、1トップに大久保嘉人、左サイドにレナト、右サイドに小林悠、中盤に中村憲剛と大島僚太という構成のチームだ。爆発的な加速力を持つブラジル人ドリブラーであるレナトは、攻撃に欠かせない戦力だった。

 その主力に連戦の真っ只中に正式オファーがあり、試合前日にチームを離れるという事態が起きたのだ。そして、あっという間に移籍成立。その間はわずか3日で、時間にすると約50時間ほどだ。あまりの早業に、こちらも呆気に取られるしかなかった。

 当時のレナトの移籍に関しては現場の困惑ぶりが印象的だ。この時の取材メモと、レナトを公私でサポートしていた中山和也通訳の証言とともに振り返っていこう。

 当時の強化責任者は庄子春男GM(現:ベガルタ仙台GM)である。

 アウェー遠征に向けた選手バスが出発したあとに囲み取材を開いているのだが、移動日ということで、記者は自分も含めてほんの3、4人。スポーツ紙の番記者も情報を掴んでなかったほど急な話だったとも言える。囲めるほどの人数がいないなかで、庄子GMから今回の件に関する説明が始まっている。

「レナトに関して、中国の広州富力というクラブから正式なオファーがあって、そこに向けて正式な手続きをするということになりました。急な話ですが、中国リーグのウインドーが明後日(16日)で閉まる。オファーの話が来たのが、昨日(13日)のお昼。ブラジルの代理人経由でウチのところに話がきました。そこで昨日の午後、練習後にレナトと話した。本人も分かっている話なので、そこで意思確認をしています。今日(14日)の練習前にもう一度レナトと話をしましたが、やはり中国でプレーをしたいと。そういうことで手続きを開始しました」

「満額じゃないと移籍はありえない」…川崎の要求に「払うと言ってきた」

 流れをまとめると、クラブにオファーが届いたのは、J1第2ステージ開幕戦となったFC東京戦に勝利した翌日である7月13日午後のこと。15日には次節のサガン鳥栖戦が迫っているなかでの、中国からのオファーだった。

 当初は設定された違約金より低い移籍金を提示されていたため、川崎側が拒否している。しかし「満額じゃないと移籍はありえないと伝えたところ、向こうは払うと言ってきた」と庄子GM。その後、広州富力から移籍金を満額支払うという連絡があった。違約金を満額支払うとなれば、あとは本人次第となる。その間、レナトと面談して慰留に努めている。初タイトルを目指すクラブにとって貴重な戦力であり、シーズン通してプレーしてもらいたいと考えているからだ。

 この時の出来事を中山通訳に聞いてみた。ベテラン通訳である彼にとっても、あまりに唐突な移籍話で、さすがに面を食らったと苦笑いする。

「レナトを連れてきてくれとクラブから言われました。クラブとしては、もちろん残留を求めるという話をしたいと。かなり長い時間、いろいろな話をしたことを覚えています。クラブの説得もあり、この日はレナトも残留する方向に傾いた感触で帰宅したんです。ただ自宅に帰ってから、おそらく代理人と話したのだと思います。次の日、『移籍する』とまた言い出して、庄子さんと話をしたんです」

 13日午後の面談では一旦、残留に傾いたレナトだったが、翌日には一転して移籍を決断した旨を伝えている。それが鳥栖の前日移動を行う14日のことだった。中国の移籍登録期限は16日に迫っていた。もし移籍するのであれば鳥栖戦には帯同せず、メディカルチェックですぐに中国に渡らなくてはいけない。そんな中での決断だった。中山通訳が証言する。

「最終的には『家族がたくさんいるし、養わないといけない。そういったことも含めて自分は移籍する』とレナトははっきり言ってました。クラブも『じゃあ、仕方がないな』っていう感じでしたね」

 困惑したのは、試合前日に知らされた選手たちである。

 まさに「寝耳に水」だったのだろう。みな一様に「僕たちも今日、聞きました」と口を揃えた。直近の第2ステージ開幕戦で、レナトはゴールを決めて勝利に貢献していた。「優勝を目指して頑張ろう!」とチーム全員で盛り上がっていた次の試合前、中国に移籍すると挨拶を始めたのだ。驚くなというほうが無理かもしれない。後年、中村憲剛が「あれは衝撃的でした。あの時のレナトの感じは忘れられない」と話してくれたことがあるが、ともに戦ってきた選手たちにもインパクトを与える移籍だった。

 クラブスタッフは契約関係の手続きに大忙しである。

 チームは鳥栖への前日移動を行わなくてはならないが、登録期限は刻々と迫っている。そのドタバタぶりを、中山通訳が振り返る。

「こっちはクラブの書類を揃えないといけなかったですから。当時はマネージャーが清水(清水泰博:現・チーム統括マネージャー)で、鳥栖に移動してから『近くに電気屋はありますか?』と聞いて探して、そこでプリンターを買ってクラブの書類をプリントアウトして送ってましたよ(笑)」

Jリーグ界にも驚きを与えた大型移籍、クラブ側はハード面の充実という恩恵も

 クラブ間の契約関係の手続きは無事に完了し、電撃移籍は成立となった。なおレナト自身は急いで中国に渡ったため、移籍後の日本の住まいの片付けや引越しなどの事後処理は中山通訳が行なったという。「大変でしたよ。(こっちに)投げっぱなしですから」と懐かしそうに笑っていた。

 このレナトの売却によって支払われた移籍金は推定で約6億円と言われており、当時のJリーグでもトップクラスの金額だ。税金なども含めると、広州富力が支払った総額は約20億円近いとされており、中国の「爆買い」による大型移籍は当時のJリーグ界にも驚きを与えた。

 結局、シーズン中に主力を失った川崎は、第2ステージを7位で終え、この年も無冠に終わった。ただその多額の移籍金は現在のクラブハウス建設費に使われたとされており、このハード面の充実がクラブの躍進に貢献したこともよく語られるところである。

 なお現在のレナトはというと、母国で現役を続けているようだ。

 2015年から20年まで広州富力に所属し、21年にはブラジルに戻ってプレーしている。しかし23年に所属したアマゾネスFCを退団後、現在は無所属のようである。レナト本人と連絡を取ることもあるという中山通訳は、こんなやりとりを笑って明かしてくれた。

「今はチームがないみたいです。まだ現役を続けたい意思はまだあるみたいで、それこそ先週ぐらいに『フロンターレに戻れないかな?』と連絡が来ました。『無理だよ。何を甘えてるんだ!』って言っておきました(笑)」

 レナトは現在35歳。移籍金フリーで獲得できるはずである。左利きのブラジル人ドリブラーに興味のあるクラブは、コンタクトを取ってみてはどうだろうか。

 サッカービジネスと切っても切り離せない移籍話。今も昔も、そこには選手の人生がある。(いしかわごう / Go Ishikawa)