生成AIブームの中で”蚊帳の外”のように扱われてきたアップル。AIを駆使したという新型iPad Proの中身とは(写真:Bloomberg)

生成AIブームに沸く近年のテクノロジー業界の中で唯一、アップルは蚊帳の外のように扱われてきた。お膝元のアメリカでは、アップルがグーグルと生成AI技術のライセンスをめぐって交渉、あるいは提携を行い、製品に組み込んでくるといった噂も絶えない。

しかしアップルは以前より、「自分たちはどのライバルよりも先にAI技術に取り組んできた」と主張していた。AI技術の根幹にある”推論”のアルゴリズムを効率的に処理する専用回路を、彼らはiPhone 11 Proの時代から取り入れていたからだ。

アップルは5月7日、iPadシリーズのラインナップを刷新し、最上位の新型iPad Proを紹介する際には、AI技術を駆使していることを強く訴求した。

この新製品は”AI対応の遅れ”を指摘する声への回答になっているのだろうか? ロンドンでの発表イベント取材を通じて得られた情報を交えながら分析していこう。

演算速度は従来製品を大幅に上回る

新型iPad Proに搭載された「Apple M4」という半導体には、“デバイス価値を高める”ための最新の推論処理専用回路が組み込まれ、それらを活用したアプリケーションも同時に発表された。

M4には、推論処理専用回路であるNeural Engineの最新版と、MLアクセラレータ(機械学習処理を加速させる専用回路)が組み込まれている。

このNeural Engineは毎秒38兆回の演算を行えるが、これはMacBook Airに搭載されている半導体の内蔵Neural Engine(毎秒18兆回)の2.1倍に相当し、「AI PC」を標榜するインテルやAMDが開発する同様の回路よりもずっと高性能だ。

2.1倍というジャンプアップに驚くかもしれないが、これは演算データの長さを半分にして、同時に2つの計算を行うモードを追加することで、演算の精度を下げる一方でピークの処理回数を高める技術が組み込まれていると考えられる。同様のテクニックは、iPhone 15 Proに搭載された半導体にも使われている。

演算の精度を下げて処理回数を高める技術を導入したのは、AIがさまざまな場面で使われるようになり、複数の異なる目的での推論処理が同時に動くケースが増えてきたからだ。

iPhone 11世代の頃、Neural Engineはカメラの画質を高めるため、センサーがとらえた映像の分析に主に使われていた。しかし現在では操作性の向上や写真、動画からの文字データ抽出、被写体の切り抜き、音声認識など、実に多くの場面で使われている。そんな背景からNeural Engineの処理回路に変更が加えられたと想像される。


ロンドンで開かれた製品発表会の様子(筆者撮影)

より多くの処理を回せるiPad Proでは、M4の能力を用いて、(主なユーザーとして想定している)コンテンツクリエーター向けに新しい機能を提案している。

新型のiPad Proでデモンストレーションが行われたのは、動画編集アプリケーションの「Final Cut Pro」と、音楽制作アプリケーションの「Logic Pro」のiPad版だ。今回アップデートされた両アプリケーションには、M4のNeural Engineを活用した機能がいくつか組み込まれているのだ。

アプリの新機能にAIをフル活用

Final Cut Proでは、AIが背景と前景を分析し、ユーザーの要望に応じて特定のシーンから不要な要素を除去・調整できる。動画内の主要な被写体を自動的に検出して、視覚的なインパクトが高くなるよう自動的にフレーミングを行うAI機能も搭載し、音声から背景ノイズを低減して話者の声をクリアに際立たせる処理もほぼ自動で行える。

一方のLogic Proには、AI駆動のドラマーとベースプレーヤー、キーボードプレーヤーが組み込まれており、簡単な指示を行うだけでバックバンドが自動伴奏をつけてくれる。コード進行を明示的に指定すると、そのコードに沿って自動演奏する。

「ステム・スプリッター」と呼ばれる機能を使えば、デモ録音を、ドラム、ベース、ボーカル、その他の楽器の4つの独立したパートに分離できる。このパート別にまとめられたデータを基に、AIセッションプレーヤーで伴奏を補強し、新たなトラックを追加することで完成度の高い音楽へと仕上げることもできる。

真空管アンプ、磁気テープ録音装置、その他のアナログハードウェアが持つ風合いをトラックに追加するAIプラグインも用意され、デジタル制作の音楽にアナログ的な魂を吹き込むことも可能だ。

これらは一例でしかないが、アップルがAI技術を用いて行おうとしている開発の方向性を垣間見ることができるだろう。

2つのアプリケーションの機能は、クリエーターが望む成果物をよりシンプルな形で作り上げられるよう手助けするもの。 AIが人間の想像力を超えて新しい創造物を作るといった、傲慢な機能を提案しているのではなく、人間の創造性をより高めるためにAIを用いるというコンセプトが感じ取れる。


新型iPad Pro向けにアップデートされた音楽制作アプリでは、AIによる自動伴奏も(画像:アップル)

注目すべきは、このような機能をクラウドの力を利用することなく、すべてデバイス上で行える点にある。それを実現するためのAI処理能力のベースラインを定めたのが、今回のiPad Proであり、Apple M4という新型のプロセッサだ。

ここからは、生粋のハードウェアメーカーとしてのDNAを持つアップルのこだわりが透けて見える。

アプリ販売などのサービス事業の売り上げこそ伸びているものの、アップルの根幹は言うまでもなく、iPhone、iPad、Macといった個人向けコンピューターデバイスの開発・販売にある。サービス事業はiPhoneをはじめとした端末の付加価値を高めるための、あくまで付随的な事業だ。

そしてアップルは、あらゆるハードウェア、ソフトウェア、サービスの設計を行ううえで、ユーザーと密接にひもづいて動作する各デバイスで扱う個人情報を、本人の了承なく“ネットの向こう側”に送信しないことを重視してきた。

“デバイス内で完結”にこだわる理由

昨今話題になっている生成AIは、要求する処理能力や扱うデータ量が大きいため、その多くはオンライン上のサービスとして実装されている。端末上でそうした生成AIを利用する場合、必然的にデバイス内で管理している情報をクラウドに送信せねばならない。

送信に当たって利用者個人が特定されないような仕組みを構築することも不可能ではないだろうが、このAI処理(推論処理)の活用において、アップルはデバイス内で完結する(つまりオンデバイスの)使い方や機能にこだわってきた。こうしたこだわりが、“AI対応の遅れ”との指摘につながった面もあるかもしれない。

例えばAIアシスタントのSiriが組み込まれたHomePodとHomePod miniでは、ネットに個人情報を出さないという方針に沿って、音声アシスタント処理の大部分をデバイス上で処理している。

そもそもアップルは、デバイス価値を上げるためのAI技術に何年も前から取り組み、それらを実際の製品に反映してきた。ただ、これまではAIを活用した機能の説明において、”AI”というワードを大々的に使わず、”機械学習”というワードを用いていた。

昨年末、インテルが推論処理向けプロセッサに力を入れることを宣言し、「AI PC」というコンセプトを打ち出し始めたが、その意図するところはアップルが長年取り組んできたものと同じだ。単にマーケティング上の言葉の使い方が違うだけだ。

インテルはAIブームの中で「AI PC」を掲げたが、アップルはブームが来るはるか前から、AI技術の活用に取り組み、自社製デバイスの各種機能に搭載してきた。

今や推論処理専用回路であるNeural Engineは、Apple Watchの中にまで組み込まれている。

例えばiPhoneで文字の音声入力を行ってみると、その高い精度と認識速度の速さに驚くだろう。AI処理を活用しているからにほかならないが、この音声認識の技術は、画面が小さく、操作手法が限られているApple Watchでも生かされる。そうした環境、基盤を彼らは作り上げてきたわけだ。

今後は他社製アプリの機能向上も

前述した2つのアプリケーションが実現している機能は、過去にまったく存在していなかったものではない。しかし推論処理の能力を高めることで、わずか5.1ミリの超薄型タブレットの上で、指先だけでそれらを利用できるのは驚異的だ。

現時点において、M4のNeural Engineをフル活用しているのはアップルが作った上記のアプリケーションに限られるが、同社は数年にわたって、ソフトウェア開発者たちとNeural Engineの活用を進めてきた。

その成果はiPad用の写真編集ソフトなどに反映されている。それらのアプリケーションが提供するAI機能も、新しいiPad Proを組み合わせることで、より高速に動作することは間違いない。

冒頭で触れた通り、直近では、アップルがグーグルの生成AI技術を利用する方向で交渉しているとの報道もあった。AppleのAI技術開発の遅れを象徴する出来事のようにとらえられているが、少しばかり筆者の見立ては異なる。

例えば初期のiPhoneに内蔵されていた地図アプリは、グーグルから提供を受けていた。 世界中で日々更新される地図データを端末内に収めることは現実的ではない。アップルはユーザーとの接点として、iPhone上にアプリを提供しつつ、データのみグーグルから調達した。ウェブからもアクセスは可能だが、アプリを通すことでより高い利便性を得られるからだ。

グーグルとの提携報道が意味すること

おそらく生成AIに関しても同じだ。

端末の魅力を高める直接的な機能に関わる要素に関しては、Appleは前述したように端末内で物事が完結するよう開発を進めている。プライバシーが重要となるデータに関してはなおさらだ。


ロンドンの製品発表会の会場風景。6月には、アメリカ本社でソフトウェア開発者向けイベントが開かれる(筆者撮影)

一方で生成AIは地図アプリと同様に、データ規模が大きく、更新頻度も高い。だからこそクラウド上での提供に適したサービスなのだが、こうしたクラウドを通じた機能をアップルの本業であるデバイスの価値向上に転換できるとしたならば、端末からよりシンプルに生成AIサービスに接続し、使いやすくするというアプローチのほうが合理的だ。

アップルは6月にソフトウェア開発者向けイベント「WWDC 2024」を本社キャンパス、およびオンラインで開催する。その際には、新しいNeural Engineを基準とした新たな提案が飛び出すかもしれない。グーグルとの提携が本当にあるのであれば、この時点で何らかの発表があるだろう。

(本田 雅一 : ITジャーナリスト)