(写真:Philip Pacheco/Bloomberg)

2月末、アメリカの経済誌や通信社が一斉にアップルが電気自動車(EV)の開発計画を中止したと報じた。

2014年に始まったと言われるアップルによる自動運転のEV開発計画、Project Titan。アップルはその計画を一度も公式に認めなかったが、テスラやフォルクスワーゲンの重役を引き抜いていたり、最大で5000人近いスタッフが関わったり、同社周辺で頻繁にトヨタ自動車のレクサスを改造した自動運転車両が目撃され、公然の事実となっていた。

同社は今後、その分の研究開発費を生成AIの研究開発に充てるといわれている。計画を進める上で獲得した技術や特許は、今後、さまざまな形で他の製品に転用されるものと期待したい。

「Vision Pro」の存在感

EV開発撤退のニュースを受けて、アップルの先行きを不安視する動きも出ているが、同社は今後、何を事業の柱にしていくのだろうか。

「生成AI」が重要な要素であることは間違いないが、その前に忘れてはならないのが、2月に空間コンピューティング機器として世に送り出したばかりのApple Vision Pro(以下Vison Pro)の存在だ。

Vision Proは、現在の価格設定では決してiPhoneのようなマス向けのメインストリーム製品になることはない。しかし、数年後にそうしたメインストリーム製品を生み出すための土壌づくりとして重要な役割をはたしている。

これまでのAR(拡張現実)/VR(仮想現実)のゴーグルは各社各様で開発し、その上で開発者が独自の方法でアプリを開発して提供していた。対してVision Proがやろうとしているのが、ARコンテンツの品質の向上だ。

アプリ開発のデザインガイドラインも充実

アップルがコストをかけて最新の技術を凝縮して作ったVision Proは、それまでの同類製品と比べて価格が高価な分、圧倒的に精度が高く体験の質が高いことも魅力だが、質の高い体験を提供するにはアプリをどのように設計すればいいかのデザインガイドラインなど開発者向け資料も充実している。

iPodの前にもデジタル音楽プレイヤーはたくさんあり、iPhoneの前にもスマートフォンはたくさんあったが、これらの製品が大成功したのは質の高い体験を提供したからだった(特にiPodを出したときは、まだアップルのブランド力は今ほど高くなかった)。

アップルが今後、より安価な空間コンピューティング機器を出したとしてもしばらくはiPhoneに匹敵するほど利用頻度が高くなることはないだろう。そのことは発売直後、Vision Proを被って色々なことに挑戦してSNSを騒がせたインフルエンサーらの投稿が3月に入ってすっかり落ち着いたことからもうかがえる。

ただ、少し過剰品質とも言えるVision Proを今出しておくことで、数年後、もっと手頃な価格で同様の製品が作れるようになった頃には、「このアプリがあるから空間コンピューティングを使いたい」と思わせるアプリを充実させることができる。今はまさにその土壌づくりをしているところだ。

筆者は個人的には医療や建築分野での活用や新しい形のエンターテインメントの登場に期待している。

空間コンピューティングと並んで重要になるのがAI関連の開発だ。アップルはAI開発に関しては遅れているというイメージを持つ人が多いかもしれない。

しかし、人々が気づいていないだけで、すでに現在のiPhoneにも多くのAI機能が内蔵されている。

例えばiPhoneで音声アシスタントのSiriを呼び出して「建物の写真を見せて」と言えば、これまで撮り溜めた写真から画像認識をした建築写真を選んで表示してくれる。気になった花を撮影すると、写真の下に「i」という文字が現れて、それが何の花かを教えてくれるといった機能が備わっている。

ハード的にも2017年以降のアップル製プロセッサにはNeural Engineと呼ばれるAI関連の処理に最適化した機構が用意されており、iOS、iPadOS、macOSにもCore MLというNeural Engineを用いて高速にMachine Learning(機械学習)処理をするさまざまなソフトウェア機能があらかじめ用意されている。Macのハード/OSがAI処理に向いているため、Mac上でAI関連の開発や実験をする研究者やホビイストも増えつつある。

AI関連の人材採用には積極的だった

そもそもアップルは1990年頃から、AI関連の人材の採用に積極的だった。SGI、マイクロソフト、グーグルと渡り歩いたAIの第一人者、カイフ・リーも最初に勤めたはアップルだった(1990〜1996年)。

AIは2006年以降、ビッグデーターとディープラーニングという技術の登場で、飛躍的な進化を遂げ第3次AIブームと呼ばれる時代に入ったが、そうなって以降もアップルは積極的にAIの研究者を雇い続けている。

ただし、研究成果の公開など情報の扱いについての制約が多い社風が研究者に馴染まないのか、すぐに辞めてしまう研究者も多い。2016年から3年強在籍して自動運転を含むAI研究部門のディレクターを務めた後に退社したルスラン・サラクトゥディノフ(Ruslan Salakhutdinov)もその1人だ。

しかし、アップルがAI研究についてまったく成果を出していないわけではない。アップルは研究者/開発者向けに画像編集用のAI「MGIE」、静止画に動きをつける「Keyframer」、さらにいくつかのAI機能がまとめられた開発者向けライブラリー(開発に用いる素材)の「MLX」をすでに公開している。一般ユーザー向けではなく開発者や研究者向けだが、それぞれ一定の評価を得ている。


MGIEの画像編集例。例えば、ピザの画像では「よりヘルシーなピザに」という命令を入れるとと、右側の画像になる(ICLR 2024 Conferencey用の資料より)

アップルにとってAI開発の足枷になっているのが、ユーザーを第1に考えた高品質な製品を提供するという同社のブランド戦略だ。ユーザーのプライバシー保護を何よりも重視するスタンスを掲げている同社としては他社のように自由にユーザーが蓄積した情報を学習させることはできないし、平気で虚偽の情報が混ざるChatGPTのような生成AIサービスも提供しづらい側面がある。

先に述べたiPhoneで提供済みのAI技術が、堅実かつ控えめな活用にとどまっているのもこうした理由からだ。

とはいえ、世の中がこれだけ生成AIで盛り上がってくるとアップルとしても、これをいつまでも無視し続けるわけにもいかない。最近、アップルが開発者向けに提供している開発途上のiOSにSiriSummarizerという機能の搭載を試みている痕跡が発見されている。アップルの音声アシスタント機能のSiriを用いて記事などの情報の要約を返す機能のようで文章の生成にはChatGPTを用いているという。

グーグルの大規模言語モデル「FLAN-T5」やアップルが独自に開発しており「AppleGPT」と呼ばれることもある「Ajax」という大規模言語モデルを試している痕跡もあるようだが、一方でアップルがOpenAIやグーグルと両社の大規模言語モデルの利用について話し合いを始めているとアメリカメディアは報じている。

ただ、高品質にこだわるアップルのこれまでの戦略や主張から考えると、同社がChatGPTのような対話をするためのアプリやサービスを提供するとは考えにくく、SiriSummarizerのようなすでにある情報の要約など嘘が生成されにくい堅実な形での活用にとどまるのではないかというのが筆者の見立てだ。

また、アップルはすでにプログラムコードの生成AIを試していることが知られており、Xcodeと呼ばれる同社の開発環境向けに生成AIを提供したり、マイクロソフトがそうしているようにワープロソフトのPagesや表計算ソフトのNumbers、プレゼンテーションソフトのKeynoteといった生産性ツールの機能として生成AIを組み込む可能性はあるのではないか。

より堅実なアプローチになる可能性大

いずれにせよアップルによる生成AIの活用は他社のそれと比べるとできることも少なく、より堅実な内容になるのではないかというのが筆者の見立てだが、この堅実さと、そこから生み出されるブランドへの信頼こそがアップルの人気の秘密とも言える。

実際、iPodやiPhone、iPadなども同時期に発売されていた他社の音楽プレーヤーやスマートフォン、タブレットと比べると派手な機能は少なかったが、それでも市場を席巻し大きなビジネス的成功を招いている。

もちろん、AI以外にも、さまざまな新たな事業の柱を模索するべく、映像コンテンツ制作や健康医療関連事業、アメリカで展開中のApple Cardなどの金融事業などさまざまな投資を行っている。

最近、同社の重役が積極的に謳っているのがゲーム関連の開発への投資で、2023年のWWDC(世界開発者会議)ではWindowsやゲーム専用機向けに開発済みのゲームを簡単にMacに移植するためのツールなどを提供している。

高性能なアップル製プロセッサーがゲーム開発において有利であることも盛んに宣伝している。Apple Arcadeと呼ばれるゲームのサブスクリプションサービスを通して世界中のトップゲームクリエイターたちとのネットワークも築いてきた。

ユーザーからの需要が大きくなればTVに接続して映像コンテンツを楽しむために使われていたApple TVを高性能ゲーム機に進化させるといったこともできる下地を築きつつある。

他社の10年先をいく環境への取り組み

こうした中で、アップルに今後も業界リーダーとしての地位を保証し続けることになりそうなのは、同社の環境への取り組みだと考えている。

アップルはすでに事業で必要とする電力を完全に再生可能エネルギーに移行しており、2030年までには同社のサプライヤー企業分の電力も再生可能エネルギーで賄う計画を発表している。また、新規開発の製品で使われているアルミやレアメタルなどの部材を同社のリサイクルプログラムから獲得するようになってきている。

気候変動への対応として環境への取り組みが重視される中、今後は他の製造業も少しずつこうしたものづくりの方向に転換する必要が出てくるが、アップルはすでに他社よりも10年ほど進んだ取り組みをしており、これが今後も製品の製造販売を主な事業としている同社に大きなアドバンテージを与え続ける、というのが筆者の見立てだ。


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(林 信行 : フリージャーナリスト、コンサルタント)