横浜線直通計画もあった「みなとみらい線」秘話
東急東横線内を走るみなとみらい線の車両Y500系(編集部撮影)
2004年2月に開業した横浜高速鉄道みなとみらい線(横浜―元町・中華街間 4.1km)との直通運転開始にともない、東急東横線の横浜―桜木町間が廃止されてから20年が経過したと、あるコラムに書いたところ、「懐かしい」「もう20年ですか」といった声が寄せられた。
だが、こうした懐かしむ声ばかりでなく、直通運転開始によって渋谷方面から横浜中華街などへのアクセスが便利になった一方、東横線の横浜駅地下化により、他線との乗り換えが不便になったという声も目立った。
今回は、2024年で20周年を迎えたみなとみらい線の開業までの経緯や、具体的にどのような工事が行われたのかなどについて、あらためて振り返ってみたい。
「東急線の一部」ではなく三セク鉄道
みなとみらい線は、東急もしくは横浜市営地下鉄の1路線だと思っている人もいるかもしれない。だが、同線を保有・運行(電車の運転業務は東急電鉄に委託)する横浜高速鉄道は、横浜市、神奈川県、東急などが出資する独立した第三セクターの鉄道会社である。
この横浜高速鉄道は、みなとみらい線以外に、こどもの国線を保有している。こどもの国線は第三種鉄道事業者としての横浜高速鉄道が線路等を保有し、東急電鉄が第二種鉄道事業者として旅客運送事業を行っている。
営業最終日、東横線の桜木町駅には多くの人が集まり、名残を惜しんだ(提供:東急)
みなとみらい線は、1980年代から造成が進められた「みなとみらい21」地区へのアクセス確保を目的に建設が計画された。同地区は、かつて三菱重工横浜造船所や国鉄の貨物ヤード(高島駅)などが広がる、一般人は立ち入れないエリアだった。そのため、関内、伊勢佐木町などの旧来の市街地と横浜駅を中心とする新しい繁華街は、長い間、分断された状態にあった。
1994年のみなとみらい21地区(撮影:高橋孫一郎)
そこで、1965年に提案された横浜市の活性化を目的とする大規模な都市計画「横浜市六大事業」の1つとして、高速鉄道(市営地下鉄)の建設、港北ニュータウンの造成などと並んで、横浜都心部の強化(現・みなとみらい21地区の開発・造成)が挙げられた(「みなとみらい21」という名称は、後に公募により決定)。
その後、オイルショックなどの影響から開発計画はしばらく進捗しなかったが、1983年3月に三菱重工横浜造船所の本牧・金沢地区への移転が完了した後、同年11月にようやく着工に至った。
横浜線直通の計画がなぜ東横線に?
みなとみらい線の建設は、同じく六大事業に含まれていた市営地下鉄の建設計画に端を発する。当初計画では、市営地下鉄3号線は本牧―関内駅―桜木町駅―横浜駅―新横浜駅―勝田(港北ニュータウン)を結ぶものとされた。だが、1976年9月に横浜―関内間が開業(同時点で1号線は上永谷―関内まで開業)した後、関内以遠の区間は、地下鉄工事にともなう国道の渋滞発生が懸念されることを理由に、港湾業界から運輸省に工事着手の延期を求める陳情が提出されるなどし、工事が保留されていた。
その間にみなとみらい21地区の開発がいよいよ具体化し、輸送需要が見込まれるようになる中、1985年7月の運輸政策審議会答申第7号に、東神奈川駅からみなとみらい21地区を経由して元町付近(山下町)に至る「みなとみらい21線」が、早期に新設すべき区間として盛り込まれたのである。
同時に元町から本牧経由、根岸線の根岸駅までが、今後、建設を検討すべき区間とされ、市営地下鉄3号線の関内―山下町間はみなとみらい線と重複することになったため、調整の結果、後に建設を断念した。
ここで注目すべき点は、路線の起点が東神奈川駅になっていることだ。当初、みなとみらい線は国鉄(現・JR)横浜線との直通を念頭に計画されたのである。
だが、当時は1987年の国鉄民営化を直後に控え、財政面に課題を抱えた国鉄はそれどころではない状況に置かれていた。
そこで浮上したのが、東急東横線との直通運転だった。しかし、横浜駅には京急、相鉄という他の私鉄も乗り入れているが、なぜ東急になったのか。それにはいくつかの理由が挙げられるが、まず鉄道輸送面に着目すると、横浜―桜木町間の輸送密度の低さと、東横線横浜駅(地上2階にプラットホームがあった)の拡張性の低さがあった。
当時、渋谷方面から電車に乗り、横浜駅に到着するとほとんどの乗客が降りてしまい、横浜―桜木町間は、乗客もまばらだった。また、構内にカーブもある横浜駅プラットホームは上下線とも手狭で、しかも造作物の一部が国鉄線路上にはみ出しているような状況にあり、乗降客がさらに増えた場合の拡張の余地は、ほぼゼロだった。
東急「みなとみらい進出の足がかりに」
さらに東急グループ全体で見れば、新たな商圏に自社ブランドで進出する足がかりになるというメリットがあった。東急はみなとみらい21地区に社有地がなかったため、当初はこのエリアをあまり重視していなかったようである。だが、みなとみらい線への乗り入れが横浜市から打診されたのを契機に、積極姿勢に転換した。『東急100年史』(2023年9月発行)には、当時の五島昇社長の言葉が記されている。
「(みなとみらい21事業は)東急グループの事業エリアのまん中で展開される事業であり、保有地がないからと座視していては、横浜駅西口を“失った”と同様なキズあとを、後世に残すことになる。しかも、都市開発事業には東急グループは実績もあり、これから大きな柱にしていこうとしている部門だ。この際、東急グループ版“みなとみらい21”プランを作成して、積極的に売り込むぐらいのことをやってみてはどうか」
その後、東急グループは住友グループと連携して、みなとみらい駅に直結する24街区を対象とする「クイーンズスクエア横浜」(4.4ha)開発プロジェクトに参画している。
みなとみらい駅直結の「クイーンズスクエア横浜」(筆者撮影)
さて、ここからは、みなとみらい線の建設工事がどのように進められたのかを見ていこう。その様子は横浜高速鉄道副社長などを務めた廣瀬良一氏の著書『ヨ・コ・ハ・マ「みなとみらい線」誕生物語』(絶版。以下、誕生物語)に記録されている。興味深いエピソードをいくつか拾って見ていこう。
まず、鉄道の「通し方」については、高架方式にするか、地下方式にするかについて、「熱い議論」(誕生物語)が戦わされたという。高架方式のほうが工費は抑えられるが、横浜駅を出てすぐに首都高横羽線があり、これをフライオーバーするには20m以上の高さの構造物が必要になる。また、横浜―桜木町間には、地元で揶揄的に「万里の長城」と呼ばれる根岸線・東横線の高架があり、地域を分断している。これに加えて新たに4.1kmにおよぶ高架鉄道ができることは、住民感情からして容認されにくいと思われた。
こうした理由から費用は割高になるものの、全線地下方式とすることが決定されたが、市街地の地下を通すがゆえに、既存の上・下水道、ガス、電話などと随所で競合し、切り回し、移設等の必要が生じた。
難航した地下線工事
一例として、横浜開港後に外国人居留地域として早くから都市施設の整備が進められた日本大通り駅付近では、明治時代のレンガ造の「卵形下水管」が、駅建設工事中に発掘された。「保存か撤去かで相当の期間工事が進められず」(誕生物語)、最終的にはその一部を切り取ってサンプル保存することになった。この遺構は現在、横浜都市発展記念館で屋外展示されている(同館は2024年夏頃までの予定で休館中だが、屋外展示は見学可)。
日本大通り駅建設工事中に発掘されたという明治時代のレンガ造「卵形下水管」の一部(筆者撮影)
また、東横線とみなとみらい線共用の横浜駅(地下4層構造)の構築は、当時は中央部に1本しかなかった地下自由通路を南北に1本ずつ新設する横浜市の公共事業と一体的に進めなければならず、そもそもの協議が複雑化した。そのため、4.1kmの短い路線ではあるが、全体を2区間に分け、みなとみらい―元町・中華街間を第1工区として先行着手することになった(第1工区は1992年11月、第2工区は1995年2月着工)。
横浜駅の構築は工事自体の難易度も極めて高く、地下工事に先立って行われた線路やホームなどの地上施設を仮受けする仮設工事に際しては、「地上から仮設の支持杭を打ち込むにしても、線路と線路の間、線路とホームの間など限られた場所」を選ばなければならず、「使用できる工事機器や資材も架線や送電線などに抑えられて特殊な小型のものしか使えない」(誕生物語)といった制約が多かった。また、電車運行に支障がないよう、終電から始発までの4時間程度での工事を繰り返すという非常に手間のかかるものとなった。
さらに東横線の東白楽―横浜間(約2.1km)を地下化し(途中の反町駅の地下化を含む)、横浜駅でみなとみらい線とドッキングさせる工事も必要となった(1996年に着工)。トンネル掘削の具体的な工法等は『東急100年史』に記されているが、「営業線の直下に地下構造物を構築するという難工事」だった。
東白楽―反町間地下化工事の様子(提供:東急)
そして、2004年1月30日の深夜から翌31日の未明にかけてのわずか4時間足らずで高架線から地下線への切り替え(仮線を設けずに営業線の直下で地下線へ切り替える「線路直下地下切替工法=STRUM工法」)を完了し、31日は渋谷―横浜間での営業運転を実施。その間に点検と開業準備を行い、2月1日から、新規開業したみなとみらい線との直通運転を開始した。ちなみに開業日を2月1日としたのは「みなとみらい21」との語呂合わせの意味があったという。
みなとみらい線の建設費は、工事の長期化や当初計画にはなかった新高島駅の追加開設などもあり、相当高額になった。横浜市公表の数字によれば総事業費は約2600億円。「誕生物語」には、事業免許取得時における想定は約1950億円で、その後の追加工事等により2003年度時点では約3000億円を超える見込みとなったが、全体的に工事費の縮減を目指して見直しを行った結果、「約10%程度削減できる見通し」になったと事業費増減の経緯が記されている。
廃止された区間の今
地下化された東横線の東白楽―横浜間の地上線跡と、廃止された横浜―桜木町間の高架線は横浜市が買い上げ、緑道・遊歩道として整備される計画が立てられたが、現在は、どのようになっているのだろうか。
まず、東白楽―横浜間に関しては、緑道としての整備が2011年に完了している。「東横フラワー緑道」と名付けられたこの緑道を歩いていると、ときおり通気口を介して地下を走る電車の轟音が聞こえてくる。
東白楽駅付近の地下入り口を通過する横浜高速鉄道の車両(筆者撮影)
途中、東白楽駅と反町駅の中間地点には「新太田町駅跡」を示す碑が設置されている。同駅は1926年2月の開設後、戦時中に空襲を受け、1946年5月に廃止。1949年に日本貿易博覧会が反町付近で開催されたときには、会期中(3月15日〜6月15日)のみ博覧会場前駅(臨時駅)として復活した歴史がある。そのほか緑道上には、東横線の鉄道橋(東横フラワー緑道反町橋)やトンネル(高島山トンネル)が活用されている部分もある。
東横フラワー緑道。ボードウォークにレールがはめ込まれている区間もある(筆者撮影)
一方、横浜―桜木町間の整備は、ほとんど進んでいない。同区間は、ほぼ廃止時のまま高架構造物が残されており、これを活用した遊歩道として整備される計画が立てられている。だが、これまでに市の財政状況の悪化などを理由に何度か工事が延期されてきた経緯があり、廃止から20年が経過した現在に至っても、桜木町駅前から紅葉坂交差点付近までのわずかな距離(約140m)が公開されるにとどまっている。
桜木町駅付近の旧・東横線高架橋。紅葉坂から横浜駅方はフェンスが閉められ非公開の状態(筆者撮影)
残る2kmの整備はどうなる?
では、残りの紅葉坂から横浜駅まで約2kmの整備・公開予定はどうなっているのだろうか。整備を担当する横浜市都市整備局都市交通課に問い合わせたところ、次のような回答だった。
「高架構造物の耐震性を点検したところ、コンクリートの剥落(はくらく)等が見られたため、補修や一部構造物の取り壊しが必要となった。とくに旧・高島町駅付近では構造物に大きな傷みが見られたため活用を断念し、現在取り壊しを進めている箇所がある。こうした状況から、これまでの計画は一度リセットし、2022〜2024年にかけて基本計画を練り直している。その後に整備を進めるため、公開時期は今のところ未定」
遊歩道全体の完成は、まだまだ先になりそうだが、今後、横浜駅周辺のまちづくりビジョンである「エキサイトよこはま22」の中に構想として示され、「実現に向けて検討・調整等を行っている」(横浜市都市整備局都心再生課)という「線路上空デッキ」との接続なども考慮されるのかもしれない。
横浜―桜木町間の沿道や桜木町駅周辺には、2代目横浜駅舎の基礎部分のレンガ遺構や「鉄道創業の地」の碑など、我が国の鉄道の歴史を知るうえで貴重な史跡がいくつかある。遊歩道を歩きながら、こうした史跡をのんびりと巡ることができる日が来るのを楽しみに待ちたい。
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(森川 天喜 : 旅行・鉄道ジャーナリスト)