「文学は役立つのか」論争、SNSで何度も再燃する訳
数学的な立場からSNSの「不毛な議論」の正体を言語化します(写真:bee/PIXTA)
「数字に弱く、論理的に考えられない」
「何が言いたいのかわからないと言われてしまう」
「魅力的なプレゼンができない」
これらすべての悩みを解決し、2万人の「どんな時でも成果を出せるビジネスパーソン」を育てた実績を持つビジネス数学の第一人者、深沢真太郎氏が、生産性・評価・信頼のすべてを最短距離で爆増させる技術を徹底的に解説した、深沢氏の集大成とも言える書籍、『「数学的」な仕事術大全』を上梓した。
今回は、SNSで定期的に盛り上がる議論を取り上げ、それらが「不毛な議論」である理由を数学的に解説する。
SNSには「不毛な議論」がはびこっている
ついこの間、「文学は役に立つのか」というトピックがSNSを中心に盛んに議論されていました。
同様の問題提起は、私のメインフィールドである数学でもしばしばなされています。数年前、ある議員がSNSで「高校生は三角関数よりも金融経済を学ぶべき」と発信したことで(悪い意味で)話題になってしまったことがあります。
この議員の発言に、いわゆる数学ファンたちがSNS上で批判をしていたのです。このような出来事はこれまで何度も起こっており、個人的には「またか……」という残念な気持ちでした。
このような議論は、はっきり言って「不毛な議論」であると思っています。そこで、今回は数学的な立場からSNSの「不毛な議論」の正体を言語化します。
ただしそれはあくまでビジネス数学教育家の立場からという前提があり、私の提唱するビジネス数学とは人材育成やビジネススキルの向上を目指すものと定義します。読者であるあなたの前提や定義が異なることも多いに考えられますのでその点をご了承ください。
まず、私はSNSなどで誰かが発信している文章などはほとんど読む価値がないと思っています。なぜならその前提が何か、どんな文脈でその主張をしているのか、その背景は何か、といったことが一切わからないからです。
どういうことかご理解いただくため、「高校生は三角関数よりも金融経済を学ぶべき」という発信について詳しく見ていきましょう。
「前提」がわからない議論はすれ違う
なぜこのような発言に対してネガティブな反応が寄せられたかというと、三角関数をちゃんと学ぶことにたくさんの時間と努力を費やしてきた人が、確かに存在するからです。
「三角関数なんて勉強して意味あるの?」といった言説は、彼らのこれまでの人生を否定することになってしまいます。「お前たちがやってきたことは意味がないんだ」と言われていることと同義であり、これまで大事にしてきたものや信じてきたものを軽視されたことに対して怒っているのです。もちろんその気持ちは理解できます。
しかし、おそらくこの議員は、「特定の職業ではなくすべての高校生がいろんな職業に就く可能性を高めるためには」という文脈、あるいは前提で件の発信をしたのではと私は推察します。
SNSで批判を続けた人たちに残念ながら少しだけ足りなかったのは、その発言の前提を理解してから「高校生は三角関数よりも金融経済を学ぶべき」という発言に意味づけすることでした。
「エンジニアリングとしての数学」「経済を理解するための数学」「人材育成としての数学」など、数学にはいろんな側面があります。数学をどのような定義のもと、どの角度から語るかによって表現したことへの意味づけも変わってきます。
例えば「エンジニアリングとしての数学」という前提であれば、三角関数が不要などとは誰も思わないでしょう。もちろんあの議員もそんな発信はしないはずです。
しかし「人材育成としての数学」という前提であれば、三角関数を理解することより大事なものは確かにあります(ちなみに私はまさにそこで教育者をしています)。
「人材育成としての数学」という前提で語っている人の言葉を、「エンジニアリングとしての数学」という立場しか考えられない人が受け取ったら、それは共通認識が取れません。
この事例が教えてくれることは、前提が共有されていない文章をそのまま読んでもおそらく通じ合うことができないということです。
物事は多面体です。たくさんある面の中からどの面を選んでいるのかがわからないと、正しい・間違いの議論は成立しないのです。そもそも議論が成立していないので決着がつかず、再燃を繰り返す結果になっているのです。
ですから、私はこの記事の冒頭で前提を確認しています。それにより読者は「ああこの著者はその立場の人なのね」「この著者の前提は自分の前提と違うな」と理解します。
前提や立場が異なるのであれば、意見が異なることは自然です。どちらが正しい・間違いという議論自体、ナンセンスでしょう。
良いコミュニケーションには「定義」がある
このように、SNS上の議論は前提が欠けているから、「SNSの文章は読む価値がない」と考えているのです。
「前提を確認する」という行為は、数学だと「定義」にあたります。
数学は最初に定義をしないと始めることができない学問です。素数の性質を明らかにしたければまず素数とはどのような数かを定義しなければなりません。まず冒頭で定義する。これは極めて数学的な作法なのです。
最初に定義がされていない状態の文章は、読む価値がない。
数学的にはこのような結論になります。読む価値がないものは、読まなくていいと思うのですがいかがでしょうか。
私は常々、「ビジネスコミュニケーションは数学である」と公言しています。ビジネスで円滑にコミュニケーションをとるためには、数学的に、最初に定義をする必要があるのです。
たとえば、私は本業で研修やセミナーを開催しますが、冒頭で必ず定義を行います。具体的には数学をどの立場から扱うのかを明確にしたり、使う言葉の意味について共通認識を図るなどします。
私は前者を立場の定義、後者を言葉の定義と呼んでいますが、これをすることでようやく参加者と同じ認識と言語でコミュニケーションができます。
教育者として思うのは、まず相手の定義を確認する(まず定義をしてからコミュニケーションを始める)という感覚がなく、いきなり正しい・間違いの議論で白黒をつけたがる人があまりに多いということです。立場や言語が異なるのですから白黒つける必要などありませんし、もっと余裕のある態度でいたいものです。
SNSの例が、コミュニケーションの方法を見直すきっかけになればと思います。もちろんSNSの使い方は人それぞれで自由であり、私の考えを強要するものではありません。しかしSNSの「治安」の悪さは社会問題にもなっています。多くの人が、心地よく楽しめるものになってほしいと願っています。
(深沢 真太郎 : BMコンサルティング代表取締役、ビジネス数学教育家)