「倍速消費」並みになった合意形成のスピード感
自滅的とも思える政策を、政府が頑迷に推進する理由はどこにあるのでしょうか(写真:リュウタ/PIXTA)
本来であれば格差問題の解決に取り組むべきリベラルが、なぜ「新自由主義」を利するような「脱成長」論の罠にはまるのか。自由主義の旗手アメリカは、覇権の衰えとともにどこに向かうのか。グローバリズムとナショナリズムのあるべきバランスはどのようなものか。「令和の新教養」シリーズなどを大幅加筆し、2020年代の重要テーマを論じた『新自由主義と脱成長をもうやめる』が、このほど上梓された。同書の筆者でもある中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)の各氏が、「社会的な合意形成」と「自由民主主義」について論じた座談会の第1回をお届けする(全3回。第2回目はこちら)。
「期間限定の独裁」という合意形成の放棄
中野:昨年(2023年)末に佐藤さんは「論壇チャンネル『ことのは』」で「年末スペシャル:佐藤健志が語る『日本の危機』」という講義をされましたね。
そこで指摘されていた問題は、この「令和の新教養」研究会の新刊『新自由主義と脱成長をもうやめる』の内容にもつながる重要な問題だったと思います。
今回は、佐藤さんが提起されていた現代の「自由民主主義」のあり方の問題を中心に議論してみたいと思います。まずは佐藤さんから、ご講義の要点をあらためてお話しいただけますか。
佐藤:政治が安定的に機能する大前提は、「国の方向性はどのようなものであるべきか」「そのために必要な政策は何か」といった点について、社会的な合意が成立していることです。とりわけ自由民主主義は、絶えざる合意形成の努力なしには機能不全に陥る。ところが現在の日本の政治は、まさにこの努力を放棄しているように見えます。
『日本を救う主権への回帰』というオンライン講座(経営科学出版)で詳細に論じたのですが、1990年代後半あたりから「根回しなどせずに押し切るのがリーダーシップ」という考え方が流行りだした。その根底にあるのは、改革路線がうまく行かないことへの苛立ちです。
平成の日本では「国をいっそう発展・繁栄させるためには、抜本的な改革が必要」という発想が支配的でした。けれどもそのような改革は、確実に「痛み」を伴います。言い換えれば今まで以上に、入念な根回しによる合意形成が求められる。
ところが実際には逆のことが起きた。改革路線が空回りを続けたせいもあって、「根回しをやっていたら何もできない。真のリーダーなら、反対を排除して押し切れ」となったのです。これと関連して、民主主義とは何かをめぐる認識まで変わってきた。
つまり民主政治を、〈期間限定の独裁支配〉の繰り返しのごとく見なす傾向が強まったのです。「選挙で選ばれたんだから、リーダーは好き放題にやって構わない。不満があれば、次の選挙で追っ払えばいいんだ」というアレですよ。しかしこれでは、合意形成も何もあったものではない。
佐藤:政治は結果がすべてです。経世済民が達成されるのであれば、期間限定の独裁であろうと、いちがいに否定はできません。けれども、平成日本はいかなる結果を出したか。うまく機能していたシステムをぶち壊して、貧困化と格差拡大をもたらすシステムに置き換えるという、惨憺たる結果を出して終わったのです。
平成以後に自由民主主義の否定が進行した
『新自由主義と脱成長をもうやめる』でも議論されたように、自由民主主義の社会には本来、いろいろな中間団体があって、意見調整、すなわち根回しを行う。これによって合意の基盤が形成されてゆくのです。だからこそ、最後の多数決で負けたとしても、システム自体への信頼は揺るがない。
その意味で平成以後、わが国では自由民主主義の否定が進行したと言えるでしょう。そして今や、社会的合意形成の努力を政治がいよいよ放棄した感が強い。「この政策をやるんだ」と決めたら最後、問題点や弊害をいかに指摘されようが、反対の世論が強かろうが、意地になって強行するということです。
かつてなら、反対や批判の多い政策については、いったん撤回、ないし凍結したうえで、根回しや練り直しに努めるのが当たり前でした。例えば消費税も、最初に話が持ち上がってから、導入が決まるまでに10年かかっている。その間、お蔵入りにしたり、税の名称を変えてみたり、税率をいじったりと、いろいろ紆余曲折がありました。
しかるに現在はどうか。健康保険証の廃止、インボイス制度の導入、あるいは万博開催をめぐる政府の姿勢は、「やると決めたんだから、何が何でもやるんだ」という頑迷なものにしか見えません。SNSで批判されるや、すぐ相手をブロックするので有名になった大臣までいるくらいです。
佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)、『新訳 フランス革命の省察』(PHP研究所)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻を経て、現在『佐藤健志の2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている(写真:佐藤健志)
要するにイヤなことは聞きたくないわけですが、これで物事がうまく行くはずがない。マイナ保険証の利用率は、2月末の時点で全国平均4.6%、最も低い沖縄に至っては2.3%にとどまっています。インボイス制度にしても、物価高による国民生活の圧迫が論じられているさなかに導入するという支離滅裂ぶり。あれは増税と同じ効果があるのですから、まともに考えれば中止か、少なくとも延期して当然でしょう。
もとより経世済民にマイナスであっても、それで支持率が上がる、つまり政権運営が容易になるというのなら、メチャクチャな政策を強行するのも理解できなくはない。実際、そういう破壊主義的なリーダーが国民の喝采を浴びた時期もありました。
けれども岸田内閣はみごとに不人気。ヤケになったあげく、自滅的に暴走する「無敵」の状態に陥っているとまで評されるありさまです。かつて小泉純一郎総理は、「古い自民党をぶっ壊す」と宣言しましたが、岸田総理は「自民党を完全にぶっ壊す」ところまで行くかもしれません。
行動を根本から変えねばならないのは明らかなんですよ。ところが、それができない。リーダーシップにたいする考え方、リーダーシップ自体の概念が大きく狂ってしまったからです。有名なアニメの主題歌をもじれば「思い込んだら自滅の道を、行くが政治のド根性」、そんな錯覚が定着したと言わねばなりません。
佐藤:政治が社会的合意形成を放棄すると、国はどういうことになるか。まずインフラ整備など、本当に重要な政策は実行されません。そのような政策は多大なリソースを必要とするのが常ですから、根回しをせずにやれるはずがないのです。
だとしても「われわれはやるべきことをやらずに、いい加減にごまかしている」と自覚するのはツラい。こうして社会には、ある風潮が台頭するに至ります。「社会的合意が必要なことは、そもそもやらなくていいんだ」という開き直りの風潮です。
復興の放棄は安全保障の放棄だ
2024年は能登半島地震で始まったわけですが、その直後、「過疎地域の復興はコスパが悪いから、被災者には集団移住してもらうべきだ」という趣旨の主張を公言する政治家が現れました。要するに復興の放棄を提唱したのですが、ならば過疎地域で災害が発生するたびに、わが国は実質的に縮小してゆくことになる。
これを肯定する政治家が、自国の領土を守ろうとするはずはありません。復興の放棄とは安全保障の放棄であり、ずばり自滅への道なのです。
ちなみに、この手の開き直りを正当化する便利な言葉があります。すなわち「過剰」。過剰とは本来「必要な程度を超えている」「多すぎる」という意味ですから、過剰なことはやらなくてもいい、もしくはやらないほうがいいと主張できる。ところが最近では、「過剰」を「コスパが悪い」という意味で使う人が増えているんですよ。
世の中、コスパが悪くても必要なものはありますので、この用法は正しくありません。「コスパが悪いものは過剰で、ゆえに不要」などという話になったら、そもそも社会的インフラの整備などできないのです。裏を返せば、インフラ整備の放棄を正当化するには「過剰」を不適切な意味合いで使うのが手っ取り早い。あまつさえ「コスパが悪い」を、「自分の気に入らない」という意味で使う傾向すら見られる。
平成の日本では、道路インフラなどの公共投資が「過剰」だとさんざん叩かれました。それがコロナ禍で「過剰自粛」「過剰医療」となり、能登半島地震で「過剰復興」「過剰支援」に至っている。次は恐らく「過剰領土」「過剰主権」でしょう。わが国の領土を他国が実効支配しても、「取り返すのはコスパが悪いから、黙って差し出すのが合理的だ。反対するヤツは自分で取り返しに行け」とか言い出す者が現れるに違いない。
裏を返せば、この発想は国家の縮小や消滅につながります。かつてマーガレット・サッチャーは、「社会などというものは存在しない。あるのは個々の男女と家族、そして政府だけだ」と言い切りましたが、社会のないところには国家もない。バラバラになった個人と、追い詰められて自滅的に振る舞う政府が残るのみ。
はたして自由民主主義は、この状況で存続しうるのか。存続しえないとすれば、どうすればいいのか。そういったことを皆さんと議論していきたいと思います。
中野:はい、ありがとうございました。では、施さんにまずは口火を切っていただけますでしょうか。
大衆にアプローチしなくなったアメリカのリベラル
施:わかりました。佐藤さんの話はそのとおりだと思います。また、問題意識にも大変共感を覚えました。私たちの共著の新刊本『新自由主義と脱成長をもうやめる』の中でも触れていますが、合意形成を放棄する現代の傾向は、何人かの政治学者はしばしば指摘しています。例えば、アメリカの左派系の政治学者マーク・リラは『リベラル再生宣言』という著書の中で、現在のアメリカ政治における話し合い放棄の現象について触れています。今の社会運動家たちは立法過程に期待を抱かなくなったというのですね。かつての社会運動家たちは、大衆に呼びかけ、彼らを説得し、多数派を取って社会変革を目指すのが一般的でした。しかし、現在のリベラルは、その道を断念し、もっぱら司法を通じて、つまり裁判闘争で社会を変えようとしています。これは、意見を異にする者に向き合わず、社会的合意を形成しようとしない態度の表れです。
施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年、福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)
リラはまた、現代のリベラル派のインテリは、労働者階級への呼びかけをやめ、大学街に逃げ込んでしまったとも指摘しています。彼らは象牙の塔に籠もり、自分たちの小さなサークル内で理想を語り、社会がそれに同意しない場合は一般大衆のほうが悪いと非難すると言っています。このようにアメリカの現在のリベラル派は一般大衆へのアプローチを放棄してしまったのです。
こうした傾向は、新自由主義に基づくグローバル化の流れの中で、民主主義の意味が変質したことと関連していると私は考えています。つまり、1960年代、1970年代ぐらいまでのかつての民主主義は、まがりなりにも一般国民の目線でよりよい社会の建設を目指す試行錯誤のプロセスでした。しかし現在では、その試行錯誤の主体が一般国民からグローバルな投資家や多国籍企業へと変わってしまったと言えます。
つまり、グローバルな投資家や企業は、1990年代に生じたグローバル化の流れの中で、自分たちがビジネスしやすい環境を作らない国に対しては、自分たちの持つ国境を越えて資本を動かす力を武器にして各国政府に圧力をかけられるようになりました。言うことを聞かない政府に対して、「もうあんたの国には投資しないよ」とか「資本を引き揚げるよ」と言って、例えば「法人税を下げろ」「人件費を下げられるように構造改革をしろ」と政治的圧力をかけることができるようになったからです。
そうなると、多くの普通の国民が、自分たちの国や地域社会の中で、いろんな人の話を聞きながら、国益や公益を探っていきましょうということは、残念ながら、今の民主主義の目的ではなくなっちゃったんじゃないかと思うんですね。外部の人が設定した目標をいかに効率よく実現するかが目的となってしまっていて、外見上は民主主義がまだあるという程度のものになっているのではないかと見ています。
中野:はい、ありがとうございます。続けて古川さん、いかがでしょうか。
政治が「公共の利益」に奉仕しない
古川:私は、「合意形成の放棄」という問題は、すなわち「ナショナリズムの放棄」という問題であると言ってもよいと思います。つまり、政治家が根回しや議論を通じて合意形成をしようとしない背景には、異なる意見や利害を持つ人々を、もはや同じ国民、同胞として見なしていないことがあると思うんです。
古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)
ネーション、つまり国民という共同体は、利害や価値観が異なっても、それでも自分たちは歴史と運命を共有し、共に生きていく仲間であるという意識に支えられています。しかし、この種の同胞意識や仲間意識が失われつつあるように思います。
例えば、いま北海道では、HBC(北海道放送)が製作した『ヤジと民主主義』というドキュメンタリー映画が公開されて話題になっています。2019年に当時の安倍晋三首相が札幌で演説をした際、ヤジを飛ばした一般市民を複数の警察官が取り囲み、その場から排除したという、いわゆる「ヤジ排除問題」を扱ったものです。
その少し前にも安倍さんは、自分にヤジを飛ばした人々を指して「こんな人たちに私は負けない!」と叫んで物議を醸しました。一国の首相が、同じ日本国民に対して、いくらなんでも「こんな人たち」はないだろうと批判されたわけです。
つまり、もはやいまの政治家は、自分に反対する人々を、同胞や仲間とは思わず、たんに「敵」としてしか見なさないようになってしまっているように思います。そうなると、政治は「全体の利益」や「公共の利益」ではなく、もっぱら特定の階級的利益に奉仕するものでしかなくなってしまいます。
他方、施さんがおっしゃった、リベラル派の学者たちが一般大衆に呼びかけなくなってしまったという問題も、このナショナリズムの放棄という問題と関連しています。
例えば、最近の事例でいうと、昨年12月に国立大学法人法が改正されました。これなども、大学の外部に意思決定機関をつくって、そこからトップダウンで新自由主義的な大学改革を断行しようとするもので、しかも、当の国立大学協会等にさえほとんど何の相談もなく、ろくな議論もしないまま、わずか3か月足らずで強権的に法案を成立させてしまいました。
これに対して、リベラル派の学者たちは当然、反対運動をしました。しかし、たぶん一般の大衆のほとんどは、そんな問題があったことさえ知らないでしょうし、知っても自分には関係のないことだと思ったでしょう。というのは、学者たちが言っていたのは、もっぱら「民主主義を守れ」「大学の自治を守れ」「学問の自由を守れ」という、普遍的な理念ばかりです。確かに、言っていること自体は正しいのですが、それでは一般の人々には届かないでしょう。
古川:そうではなくて、この「大学改革」がどう国益を損なうのか。そういうナショナルな問題として語らなければ、文字どおり国民的な問題にはなりません。しかし、彼らはそういう語り方をしない。それは、ナショナリズムに立脚することを、彼らが嫌がっているからだと思います。自分をナショナリストだとは思いたくないし、思われたくないんですね。
こうして結局、右も左も、ナショナリズムを放棄しているんです。その結果が、現在のような合意形成を放棄する政治なのだと思います。
目標設定者が永久免責される「日本型PDCA」
佐藤:施さんのお話で興味深いのは、各国の国家目標が「外部の存在」によって決定されるという箇所です。われわれの世界は主権国家によって構成される以上、全ての国の外部に位置しているのであれば、多国籍企業は世界そのものの外側、「どこでもないどこか」に存在することになる。
関連して思い出されるのが、『新自由主義と脱成長をもうやめる』で古川さんがおっしゃった「PDCAサイクル」をめぐる話。もともとこれは、自分たちで目標を立てて実行し、結果を踏まえて改善を重ねることでした。ところが日本の大学の場合、なぜか目標は「お上」が勝手に決める。現場の人間は、どうやったらそれに適応するかを必死に考えるだけになっている。瓜二つではありませんか。
古川:PDCAサイクルは、佐藤さんがおっしゃった「意地になって強行する政治」にとってきわめて好都合です。なぜなら、あれは政策立案者が責任を免れる構造になっているからです。立案者が「目標」を定めて、それを現場に丸投げする。現場はその目標を達成するための「計画」を立てて、それをひたすら「改善」し続ける。こういうシステムですから、成果が上がらなくても、それは「目標」が間違っているのではなく、それを達成するための「計画」が不十分だからだということになり、「目標」を立てた政策立案者自身は永久に免責されることができるんです。「改革の理念は正しい。成果が上がらないのは、現場に『抵抗勢力』がいるからだ」という、あちこちで見られる改革派たちの理屈と、まったく同じです。
本来のPDCAというのは、Pの中に「目標」も含まれていますから、目標そのものが正しいのかどうかも、絶えず「反省・改善」していかなければなりません。「目標」を立ててみたが、いろいろ反対意見が出たとか、少しやってみたらまずい結果になったとか、そういう場合は、すぐに「目標」そのものを「反省・改善」しなければならないはずなのに、それは絶対にやらない。だから本当は、「PDCAを回せと言っているお前たち自身が、いちばんPDCAを回してねえじゃねえか」っていう話になるんですよ。
佐藤:「決められない政治」などと批判されていた頃のやり方こそ、じつは正しいPDCAサイクルの姿であり、現在PDCAと呼ばれるのは硬直した権威主義であると。
古川:そのとおりです。本来は自分たち自身で目標を設定するシステムですし、慎重な検証と「なるべく小さな」修正を繰り返していくシステムですから。
あともう1つ問題だと思うのは、どんな批判があっても一切耳を貸さないという、ごり押しの態度を取り続けられると、批判するほうも「もう何を言っても無駄だ」という学習性無力感のようなものが募ってきて、批判する気もなくなってくるんですよね。
中野:そういう戦略ですから。
合意形成を急ぎすぎると引き返せなくなる
古川:そうですよね。私も些細ですが経験があります。大学入試センターで問題作成委員をしていた頃、突然、旧センター試験の作問経験者は、新しい大学入学共通テストの作問には一切関与するなと言われて、委員の約半数が隔離されて別室に閉じ込められるという、とんでもないことがありました。センターは入試問題の形式を「抜本的に改革」することがミッション (目標) でしたから、旧い問題作成の方法を知っている委員たちは「抵抗勢力」とみなされたわけです。
しかし、そんな体制ではまともな入試問題が作れません。結局、不利益を被るのは受験生たちですから、委員たちが、頼むから撤回してほしい、どうしてそういうやり方をするのか、合理的な理由を説明してほしいと再三申し入れたのですが、センターの理事や文科省の官僚は「いつどの会議でこう決まりました」という経緯しか説明しない。聞いているのは「経緯」ではなくて「理由」だと、何度言ってもまったく話が通じなくて、「ああ、こうしてわざと日本語が通じないふりをして、相手を諦めさせるのが戦略なのか」と痛感しましたね。
佐藤:大学の置かれた状況と、国家の置かれた状況は「内部の人間の利益より、どこにあるかもわからない外部の利益が優先される」点で相似形を作っているわけですね。いい加減、内部が反乱を起こしそうなところですが、それも起きないのが不思議なところです。
中野:私も佐藤さんのおっしゃった問題は非常に重大なことだと思うんですが、私は逆の説を考えています。つまり、合意形成をむしろ重視し、逆に合意形成を急ぎすぎた結果、こうなったという可能性です。
その理由はいくつかあります。一つは、マイナカードでも東京オリンピックでも消費税でもインボイスでも、弊害が明らかになったとしても、一度は合意があった。だから変えられないんですよ。つまり、合意があった上でやめたらどうなるか。今度はブレた、ブレたって言ってみんなで叩くんじゃないんですかね。一回決めたことをやり遂げないことは、政治的敗北になっちゃっていて、それが嫌だから、まさに佐藤さんがおっしゃるように、一千万人に反対されてもいくぞ、ということになる。だけど、そういう政治の強引なリーダーシップを求めているのも国民なのではないか。
中野:「インボイスでも止めてみろ」とか、「東京オリンピックや万博をやめてみろ」って言われて実行したとしても、誰もやめたことを評価せずに、単にブレた責任を追及されて引きずり下ろされるだけ、というオチが見えている。じゃあ、やめないで、反対の意見を聞いて修正するとしたら、今度は「玉虫色の解決」って批判するんじゃないですか。つまり、政治家の肩を持つわけじゃないけど、彼らも気の毒で、どうやっても批判されて勝ち目がない。
つまり、国民が「さっさと決めてくれ」と思っているから、政治家は合意形成を急ごうとして、反対派を黙らせて、多数決で押し切ろうとしているわけですね。
真に足りないのは自由主義だ
中野:例えば財政健全化だって、多数派のほうが私を押し切ろうとしているわけですよ。この場合、合意形成を妨げているのは私ですから、「合意形成を急ぐから、中野は黙れ。ルール上多数決なんだから、少数派のお前だって多数決のルールは受け入れているだろ?」って黙らせられるわけ。だから、本当の問題は合意形成を急いでいることであって、合意形成がなされた議論が正しいとか、議論が中庸化されるという保証は何もない。
中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)
あと、佐藤さんがおっしゃるように、私も「過剰」という言葉は気にいらない。ですが、この「過剰」という言葉も合意形成のために使われている節があって、コロナ禍の自粛を巡る論争を例にとって言えば、「過剰な自粛はあなただって反対ですよね。だったら、お互い、意見の違いはないですね」と言って、合意に達したという体にして、論争自体を封じ込めようとする。財政出動についても、財政破綻するかしないかの議論を避けて、「どこに支出するのか、必要な支出先を議論しよう」と言う論点にすりかえようとする。無駄な投資はみんな反対に決まっていますから、その論点であれば、合意は簡単に形成できます。そうやって合意形成をむしろ急ぐことで議論を封殺しているんじゃないのでしょうか。
ある意味、合意形成のほうが民主主義で、議論のほうが自由主義だとしたら、自由民主主義はそもそも矛盾している側面がある。正しい意見はどれなのかとか、少数派の意見も尊重しましょう、というのは合意形成の「民主主義」というよりは、議論の「自由主義」です。したがって、足りないのは合意形成ではなく、自由主義が足りないんじゃないかっていう感じがしています。
もう一つ問題提起したいのは、この合意形成を急ぎすぎる傾向がどうして強まっていくかの仮説です。確かに佐藤さんがおっしゃるように、どんどん合意形成を放棄して、私の言い方をすれば合意形成をとにかく急ぐ。急ぐこと自体については合意が形成されているという状況。昔の消費税の議論と今の議論の違いは、コスパと同じなんですけど、スピード感ではないか。
中野:ITの効果もあって、資本主義が加速して、何事も速くなっている感じがします。それは、自由主義や民主主義の本来のあり方、合意形成のプロセスのスピード感とは異なっている。現代のスピード感は、映画を見ていても感じるんです。
例えば、『2001年宇宙の旅』なんか見ると遅すぎるし、『スターウォーズ』の初期のエピソードと最新版を比べると、スピード感がまったく違います。私たちの生まれた頃と今では、スピード感が全然違っています。それが、自由主義や民主主義とのズレを生んでいるんですね。こんなに複雑な社会をスピード感だけでどうこうできるわけがない。でも、人間のスピード感覚は速くなっている。それでいて、寿命は長くなっていますからね。合意形成を急ぎすぎること、倍速で物事を消費するスピード感。これは、なんとなく文明的な問題と関係しているように感じますね。
意見をすり合わせる「ふり」だけする
佐藤:最近のハリウッド映画は、テンポが速いというより画面の情報量が多いんですよ。つまり加速したのは、スピード感ではなくボリューム感。現に上映時間は、全体に昔より長めです。
しかしそれはともかく、中野さんのおっしゃったことは「合意形成の放棄」と矛盾しません。「合意形成がなされた」という既成事実をとりあえず作る最も簡単な方法は、意見をすり合わせるふりだけして本当にはすり合わせない、つまり合意形成を放棄することだからです。
中野:なるほど。
佐藤:本当には議論などしないんだから、話が早い。その上で、誰も積極的には賛成していないかもしれないものの、なかなか正面切って反対はできない点だけ持ち出して、「これに関しては意見が一致しますよね?」とやる。民主主義な合意形成を急ぐあまり、自由主義的な議論を「過剰」と見なして投げ捨てたと言うこともできるでしょう。
中野:最初からやらないのがいちばん早いに決まってる。0秒だし(笑)。
佐藤:こう考えれば、われわれの主張は何も違わない。とはいえ2010年代でさえ、安倍総理は消費税の10%引き上げを2回延期した。ひきかえ、最近のこのスピード感は何なのか。「急がば回れ」ならぬ「急ぎすぎの空回り」です。
(「令和の新教養」研究会)