キクヤ食堂の店主・竹之内雅巳さん。昭和34(1959)年に父から店を受け継ぎ、以来64年働き続けてきたという(写真:著者撮影)

あたりを川に囲まれ、東京を代表する下町として知られる墨田区。ここ十数年の間に、東京スカイツリーや東京ソラマチ、すみだ水族館などの新しい施設が続々と誕生して、人の流れも景色も変化している。

一方で、その東京スカイツリーのふもとには、令和の時代のお店とは思えないほどのノスタルジックな雰囲気の「キクヤ食堂」がある。店主の竹之内雅巳さん(82)は、昭和34(1959)年に父からお店を継いで以来、64年働き続けているのだという。

以前一度訪問して、その独特の存在感が気になっていた。そこで、今回改めて訪れてみることにした。

深夜0時に開くカレーが有名な食堂


スカイツリーのそばで営業を続けるキクヤ食堂(写真:著者撮影)

東京スカイツリーからほど近い交差点の角に位置する「キクヤ食堂」。店の外には目立った看板もなく「キクヤ」と書かれた小さな紙が入り口に貼られているだけ。営業中は暖簾がかかっているものの、ぱっと見るだけでは食堂だとわからない。

さらに変わっているのはその営業時間だ。深夜0時から14時まで。あたりの商業施設からは灯が消え、人々がそろそろ寝静まろうかという真夜中に、キクヤ食堂の1日は始まるのである。


ノスタルジックな光景が広がる店内(写真左:著者撮影)壁に掛けられた古時計。帆船のポスターはご主人の趣味(写真右:著者撮影)

店内は古き良き食堂といった趣。壁には、針が止まった古時計が掛けられたままになっている。これは、昔店を建て替えた際に周辺の商店から寄贈されたものだという。八百清、銚子屋、遠藤豆腐店……と寄贈してくれた店の屋号が刻まれているが、これらの店は、今はもう姿を消してしまった。

ピリリと辛い、出汁が利いたカレー

食事メニューはカレーがメインだ。

「うちはね、インターネットで検索するとカレーの店って出てくるの。今はみんなインターネットでしょう。だからね、初めて来るお客さんは、みんなカレーを注文するんだよ」


カレー300円。とろみのあるルウが食欲をそそる(写真:著者撮影)

名物のカレーは、実家のカレーのような素朴な佇まいだが、意外にもピリリと辛い。添えられた赤い福神漬けがまたいい。出汁が利いた奥深い味わいで、豚肉や人参、玉ねぎ、キノコと大きめに切られた具材がゴロゴロ入っており、一皿で心地よい満足感がある。別メニューのハムエッグは700円(※2023年10月取材時点の価格。値段は変更される可能性もあります)なのに対し、カレーは300円と不思議な値段設定。理由は手間の違いだという。カレーはまとめて作り置きしているからこそ、この値段で提供できるそうだ。

「辛いのがいいっていう人が多いんだよね。そういう人にはもっと辛くできるよ」

キクヤ食堂では、料金を払って好きな酒を持ち込むのも可能だ。1.8Lの酒の持ち込みで2000円。この場合、水や氷、ウーロン茶はサービスで付いてくる。

「昔は焼きそばとかラーメンとかいろいろ作っていたけれど、女房が死んで1人でやるようになってからカレーを専門にしたの。1人でやるにはそれが一番だから。今は自由にやらせてもらっているよ」

来店するのは常連が多い。客の顔を見るなり竹之内さんが酒を用意することもあれば、客自ら冷蔵庫からボトルを取り出すこともある。慣れた実家のようなやり取りが、毎日のキクヤ食堂の風景だ。注文が落ち着くと、竹之内さんは客との会話を楽しんだり、趣味のナンプレに勤しんだりしている。

東京スカイツリーに東京ソラマチ、すみだ水族館と新しいものが次々と生まれて、墨田区の風景も、人も移り変わっていく。しかしこのキクヤ食堂の店内では、昭和の気配が色濃くとどまっているように思える。この店はいかにして今に至るのか、この独特の空気感はいかにして醸成されたのか、竹之内さんに話を伺った。

本当は店を継ぎたくなかった

キクヤ食堂がこの地で営業を始めたのは、今から70年以上も昔のこと。竹之内さんの父親の代に遡る。

竹之内さんは、太平洋戦争が開戦した昭和16(1941)年1月生まれ。父は栃木出身で、仕事を求め東京へ上京し、日本橋の辺りで勤め人をしていたという。その後、勤め人を辞めて料理の道へ。吾妻橋の近くで喫茶店をしたり、業平橋駅のガード下で食堂を営むなどしていた。

そんな父が、いつどうしてキクヤ食堂を始めたのか、明確な経緯や時期はわからないという。

「昭和19(1944)年に親父だけ残して家族で疎開して、昭和23(1948)年に帰ってきたら、親父がもうここでやっていたんだよね」

始めたのはおそらく戦後だと推測される。屋号も店舗も前任者から引き継いでそのままの形で始めたようだ。

「東京に帰って来た時はね、お店に進駐軍の方が来てたのを今も覚えてるの。うちはお酒も出してたからね、食べに来てたというよりかは、お酒を飲みに来てたんじゃないかな」

昭和、平成、令和と3つの時代にかけて続いてきたキクヤ食堂、訪れる客も、周辺の風景も、その間に大きく変わってきている。

「昔はこの辺に銭湯がたくさんあったんだよ。牛島湯とか、歌舞伎湯とか。でももう今は薬師湯だけかな。あとは何だろうな、メリヤスの会社が多かったんだよね」

昔のことはあまり覚えていないと言う。しかし、この取材のために持参した墨田区の古地図を見てもらいながら会話をしていると、時折記憶が蘇るようで、ぽつりぽつりと話してくれる。どんな質問にも親身に答えてくれる人当たりの良いご主人。しかし、意外にも本人は接客向きではない性格だと語る。

「本当は人見知りするから、こういう商売は合わないんだよね。前はしゃべんなかった。でも常連さんも多いし、しゃべるようになったね。本当は高校卒業した後は大学に行くつもりだったの。わざわざ学校の先生が来てさ、大学やらしてあげてくださいって頼みに来てくれて。でも親父はそれをはねつけてね。自分はもう年だから、後を継いでくれって。それで継いだの」

高度経済成長期の賑わい

竹之内さんが店に入った昭和34(1959)年は、“史上まれな長期繁栄”と言われた岩戸景気がやってきた時代と重なる。昭和34年から36年にかけて42カ月に及ぶ好況で、産業各界の設備投資は活発になり、輸出が伸び、個人消費も高まり、民間住宅建設が活発化していた。さらに、昭和39(1964)年のオリンピックを間近に控え、東京は活気づき、勢いにあふれていた。そんな時代だった。

キクヤ食堂の周辺には建設会社が4社あり、そこの従業員を中心に店は大賑わい。血気盛んな客が多かったという。喫煙者も多く店内は煙がいつも充満していた。

「高度成長の時はタバコはプカプカ、みんな吸ってたね。タバコは吸うし酒も飲むし気性も荒い方が多かったのか、けんかも多かったね。だからそうなったときは『表でどうぞ』ってしてたよ」

当時のメニューはオムライスや焼きそば、ラーメンなど、いわゆる食堂の定番メニューを提供していた。従業員も4名おり、多くのメニューに対応できる体制だったという。その後、竹之内さんの妻も加わり、その頃の営業は早朝から夜までだった。今もキッチンに残されている、大量のお米を一気に炊けるガス炊飯器で来る日も来る日も大量の米を炊き続けていた。

当時の売り上げで食堂を買い、土地を買い、店の上にアパートを所有する。「あの頃忙しかったから、今はそれで食っているようなもん」と竹之内さんは語る。


昔の冷蔵庫。氷を入れて冷やす仕組みだ。現在は、ボトルなどお客さんからの預かり物が保管されている(写真:著者撮影)

目まぐるしく働く毎日を過ごすうちに、時代は移り変わっていく。平成に入ると経済成長の勢いも陰りを見せ始める。妻が逝去したのを機に、竹之内さんは運営方針を転換した。食事メニューはカレーをメインに絞り、1人で店を切り盛りするスタイルにした。

営業時間も変えた。その頃になると客層が近くのタクシー運転手メインになっていたため、彼らが夜勤終わりに立ち寄れるようにと深夜2時(現在は深夜0時)から14時までの営業にした。休みは正月の1日と2日だけ。以降、現在までの30年以上、この営業スタイルでほぼ休みなく店を開けている。

常連さんの職種に沿った、独自のサービス

さらに、タクシー運転手が多いからこその、独自のサービスがこの店にはある。運転手たちのYシャツ類などを引き取り、代理でクリーニングに出してくれるのだ。

「仲介所みたいなもん。洗濯できたのを運転手が取りに来る。なかなか取りに来ない人もいるね。もう何十年やってるんだろう。最近はもう洗濯屋さんもだいぶなくなったね」

クリーニングも頼めて、胃袋も満たせる。深夜まで働くタクシー運転手にとって、どこかほっとできる拠点のような存在だ。取材をしていた日も、外に人の往来がほとんどなくなる時間帯になると、常連客が1人、また1人と来店してきた。その多くは、近くのタクシー会社に勤務する運転手たち。夜勤終わりにキクヤ食堂にやってきては酒を飲み、早朝の電車に乗って自宅へと帰るのが日課だという。

常連客の1人は話す。

「仕事が終わったらさ、酒飲むのが楽しいんだよ。俺もここに通って20年以上になるけどさ、ここがなくなったら本当に困るよ。自由にできるし、家ではできない話もできるのがいいんだよな」

タバコの煙があたりに漂い、世間話に花が咲く。今日はどんなお客さんを乗せたか、タクシーの売り上げがどうだったか、最近の保険料や年金事情などの話し声が、夜通し店内に響き渡る。今では世の中のルールや価値観が変わり、禁煙の店が増えているが、キクヤ食堂は昭和の頃から変わらず喫煙可である。ここには夜に働く人たちの確かな息遣いがある。

通いなれた常連客は、店に食材を持ち込ませてもらい、鍋をすることもあるそうだ。

「こっちは横着して作らないし、手を使わないから無料サービス。場所提供だけ。酒持ち込みのお金はもらってね」


手が空くとナンプレに勤しむ。「みんな今スマホで見ちゃうけど持ったことないんで。こういうのやってるとボケないんだよね」(写真:著者撮影)

“さんさん”で帰路につく常連客

14時に店の営業が終わると、竹之内さんは買い出しをして眠りにつく。営業時間を変えて以来、ずっと昼夜逆転の生活をしているという。

「年をとるとさ、そんなに睡眠時間をとらなくても大丈夫なんだよね。寝ててもしょうがないから、目が覚めたらね、お店を開けちゃうの」

深夜1時から取材をはじめて、カレーを食べ、竹之内さんや常連客と話しこみ、店の来歴に思いを馳せていたら、気が付けば夜が明けていた。近くのとうきょうスカイツリー駅では、5時になると始発電車が動き出す。またいつもの毎日が始まる。

「あっ、時間になっちゃったよ。“さんさん”で帰る。じゃあね」と常連客の1人がつぶやく。

“さんさん”とは、会話の内容から察するに5時33分のこと。とうきょうスカイツリー駅から乗る電車の発車時刻を指していた。常連客が帰宅し、一日が始まった外の世界とは逆に静まり返る店内。こうした光景がキクヤ食堂の日常であり、そしてこれからも続いていくのだろう。

取材中に、竹之内さんがふと「今年はさ、昭和で数えたら98年になるんだね」とこぼした言葉がいつまでも私の印象に残っている。

参考文献:『物価の世相100年』(岩崎爾郎著/読売新聞社/1982)

(丹治 俊樹 : 日本再発掘ブロガー・ライター)