チーフマネージャーだった筆者しか知らない間寛平さんのエピソードが満載です(写真は2022年8月撮影。撮影:尾形文繁)

年末恒例の漫才コンテスト、「M-1グランプリ」。このコンテストをゼロから立ち上げた元吉本興業の谷良一氏が舞台裏を書き下ろした著書『M-1はじめました。』が刊行されました。

谷氏はM-1を企画するまで、芸人のマネージャーなどをしていました。そこで出会った異才たちとのエピソードをつづった連載エッセイ「天才列伝――ぼくの出会った芸人さんたち」を、『お笑いファン vol.3』から抜粋・再編集してお届けします。このエッセイで描かれるエピソードに、M-1創設につながる、著者の芸人に対する価値観が見え隠れします。

今回は間寛平編の前編です。

間寛平さんという異質な天才

今回取り上げるのは間寛平さんである。


寛平さんが天才? そう聞いて首をかしげる人は多いかもしれない。

確かに、さんま、紳助、ダウンタウン……という誰もが認めるような天才たちに比べると寛平さんはかなり異質である。

この人たちは絶妙な話術によって笑いを取る。それに対して寛平さんはどうか。当意即妙のアドリブを言うわけでもなく、レトリックを駆使して笑いを取るわけでもない。

「アメーマ」「かい〜の」「アヘアヘウヒハ」といったよくわからないギャグを独特の声と言い回しで言うだけである。「なんやそれ?」のひと言で片付けられかねないギャグだ。

それは先に挙げた3人(組)とはまったく違うものである。寛平さんの笑いはそういう理屈を越えたものである。誰もまねすることができない。

この3人も「なんやそれ」と突っ込みながら、寛平さんの笑いはすごく評価している。その証拠に、自分の番組で寛平さんを重用し、自らも大笑いしていたのが何よりの証拠だ。

感覚的に発せられる独特のギャグ

寛平さんの口から発せられる予想もしなかったことば、ギャグは、頭の中で計算され尽くされたものなどではなく、感覚的に発せられたものがほとんどだ。なんのことはないギャグを独特の声と言い回しで言ってるだけなのだが、それを聞くと思わず笑ってしまう。

そして、ギャグより何より、寛平さんの魅力は、なんと言ってもその動きである。

ハゲヅラをかぶったじいさんになって、杖を振り回し、セットに登ったりして暴れ回る。あるいは、池乃めだかさんとのサル対ネコの闘い。

パッチの中に着物からなにからすべて入れて異様に腰のまわりをふくらました恰好でめだかさんの猫と闘う。最後は合体する。お客さんは大爆笑である。ただ、ラスベガスのホテルでこのサル対ネコをやったときには、2組の老夫婦が途中で席を立ったけれど。

間寛平さんは吉本新喜劇の座長でありスターだった。

そもそも吉本新喜劇というものは、昔は10日ごとに、今は1週間ごとに新作をつくって、たった一晩の稽古で翌日から舞台にかける。吉本の人間は当然だと思ってしまっているが、これがどれだけすごいことなのか、芝居をやっている人はよくわかると思う。

その新喜劇の座長に寛平さんは実に24歳の時になった。

新喜劇の座長なのに芝居ができず悩む

座長は十数人の一座を率いて1時間弱の芝居をつくらなければならない。おかしなギャグと変な動きで人気が出て、座長に抜擢されたが、肝腎の芝居ができない。

同時期に座長になった木村進さんは芝居はうまいし、動きもきれいで踊りもできる。大衆演劇の一座で育った木村さんは芝居のストーリーをつくることもお手のものだった。

それに対して寛平さんは何もできなかった。中心になって芝居を引っ張っていくことができず、子ども向けのギャグでお茶を濁すしかない。

一座員であればそれでも十分だが、座長になったからには、一座の中心となって芝居を回していかないといけない。作家と一緒に芝居の筋を考え、芝居をつくっていかないとならないのだがそれができない。一時は相当悩んだそうだ。悩んだけれども人気はあったので、なんとかごまかしてやっていた。

そのうち次第に芝居もできるようになり、ちょうど池乃めだかさんが漫才から新喜劇に入ってきて寛平さんとコンビを組むようになってその悩みは一挙に解決した。めだかさんはしっかり芝居ができたので、うまく寛平さんをフォローし、抜群のコンビになった。寛平さんは押しも押されもせぬ座長となった。

ぼくは1992年から東京に異動になり、さんまさん、紳助さん、ジミー大西などとともに寛平さんのチーフマネージャーになった。中でも寛平さんを中心に動いた。

寛平さんもぼくも酒飲みなので二人で飲んだことは数知れない。ほんとによく飲んだ。

下北沢のバーで気づけば3時4時

東京で、夜に仕事を終えて二人でどこかへ食事に行く。当然酒が入る。飲み足りなくてもう一軒行こうということになる。二軒目でたっぷり飲んで、もう夜も遅い、日がかわりそうだし明日は仕事が早い、今日は早く帰った方がいいとわかっているのだが、あと一軒だけと二人で言い合って寛平さんの住む下北沢のバーに入る。

一杯だけと言ってたのに、その一杯を飲み終えると、どちらかが「もう一杯だけ飲みましょうか」と言う。相手ももちろん望むところでもう一杯飲む。それも飲み終えると、今度は、相手が「もう一杯だけ飲みましょうか」と言ってまた一杯。一杯が二杯になり、三杯になり、気がついたら3時4時になっていたということがよくあった。

飲んでいるときはいいのだが、翌朝は二人ともメロメロだ。危うく遅刻しそうになりかけたことが何度もあった。 

1993年、テレビ東京の3時間スペシャル『森蘭丸〜戦国を駆け抜けた若獅子〜』という時代劇に出演した。寛平さんは豊臣秀吉の役である。他は、千葉真一、林隆三、目黒祐樹、坂口良子、藤谷美紀、菅原文太など錚々たるメンバーだった。

この時代劇は、オープンしたばっかりの伊勢戦国時代村で撮影された。前日の仕事が遅くまであった寛平さんとぼくは最終に近い近鉄電車で伊勢のホテルに着いた。11時を回っており、もう食堂も終わっていた。仕方なくホテルの人に頼んでビールと軽食を部屋に入れてもらった。

そこから宴が始まり、次第に盛り上がっていった。朝方まで二人でビールを20本くらい飲んで崩れるようにして寝た。

朝、目を覚ますとすでに集合時間を過ぎていた。泥のように寝込んでいる寛平さんを起こして、顔も洗わずタクシーに乗って時代村に駆けつけた。

二人ともとても酒臭かったと思う。ほとんど寝てないので眠くて仕方がない。それでも、秀吉の衣装を着け、づらを付けて寛平さんはオープニングの式典に臨んだ。社長に続き、次々と来賓の大物の挨拶が始まった。

神妙に聞いているように見えて…


寛平さんは正面の席で心もち頭を下げて堂々と座っている。真剣に話を聞いているように見える。

しかしよく見ると寝ていた。アゴがちょうど胸の甲冑で支えられて、神妙に頭を下げて話を聞いているように見えるのである。後ろの席に座っている千葉真一さんが苦笑していた。

ここで問題が起こった。何番目かにお祝いに駆けつけた福田赳夫元総理が挨拶に立つと、出席者全員が立ち上がった。ところが寛平さんだけは座ったまま寝ている。あわてて千葉真一さんが後ろから寛平さんを引っ張り上げて立たせてくれた。

(後編は12月10日に公開予定です)

(谷 良一 : 元吉本興業ホールディングス取締役)