「推し活」が老若男女を問わず一般に広がり、急速に市民権を獲得している(写真:USSIE/PIXTA)

AKB48や旧ジャニーズといったアイドル界隈から、アーティスト、キャラクターまでーー。何か特定の対象を応援する「推し活」が老若男女を問わず一般に広がり、急速に市民権を獲得している。

「推し活」ブームについては、単身者の増加や孤独感との関連で語られてきた。また、その熱狂ぶりから「まるで宗教のよう」と評する人も少なくない。あるイベントバーのオーナーは、「ある種の信仰に近い」と言った。カリスマ的な人物と崇拝者という関係性が宗教っぽく映るのだろう。

単身者の増加や孤独感は、「推し活」を促す背景要因の一つではあると推測されるが、家族がいても孤独を感じていなくても「推し活」にハマる人は多い。もっと現代に特有であると同時に、普遍的なものがあると考えられるのだ。

少ないリスクで快楽に集中できる「推し活」

例えば、エンタメ社会学者の中山淳雄は、『推しエコノミー 「仮想一等地」が変えるエンタメの未来』(日経BP)で、もはや家族形成が幸せの道ではなくなり、その旧態依然とした物語から自由になる行動として「推し」の心理を捉えた。それは性愛・結婚・出産から分離された「恋愛に近い感覚」であり、「しがらみや自分の自我から解放されて、自分の代わりに頑張っている『推し』を応援する」と述べている。

これはシニア層にも「推し活」が拡大していることを上手く説明しているところがある。家族形成以外の想像的な関係性によって「疑似恋愛」的な欲求を満たすというのは、非常に興味深い考察といえる。確かに、コストパフォーマンスの観点から見れば、リアルな関係性は様々なリスクがあり自己抑制的にならなければならないが、想像的な関係性は少ないリスクで快楽に集中することができ、自己本位的になれる。

だが、同書においても言及されているが、コンテンツを介して他者とつながれることや、「祭り」の要素がより大きな動因ではないだろうか。

コミュニティなき時代において、見ず知らずの他人と容易に、かつ緩やかにつながれる機会は激減した。そこに来て、特定のコンテンツへの愛着を表明することで結び付き、交流ができる「推しコミュニティ」は、定期的なコミュニケーションと気分の高揚をもたらしてくれる。しかも、義務や拘束といった堅苦しさはない。

これは、かつて社会学者のジグムント・バウマンが提唱していた「偶像」の周辺に生じる「美的コミュニティ」そのものである。それは「統一的な行動をとる」といったもの以外に根拠を持たず、「温かいサークル」の経験の中から現れるという。「偶像は小さな奇跡を生む。思いもよらないことを起こす。本物のコミュニティなしに『コミュニティ経験』を生み出す。縛られる不快感なしに、属することの喜びを生み出す」と指摘している(『コミュニティ 安全と自由の戦場』奥井智之訳、ちくま学芸文庫)。

続けて、「お祭り気分で楽しく消費される限りは、偶像中心のコミュニティは『本物』と区別することが難しい」とも述べている(同上)。特定のコンテンツとともに人生を歩む「推し活」は、ハードルが低く、お祭り気分が味わえる。それによって日常生活を賦活する意味は小さくないだろう。だが、それ以上に重要なのは、自由な選択が可能な自律的な主体を取り戻せるということであり、それがこの活動の熱量を支えていると考えられる。

バウマンは、「偶像を中心とするコミュニティは、トリックを使って『コミュニティ』を変える。すなわちそれを、個人の選択の自由を脅かす恐るべき敵から、個人の自律性を発揮したり、(その自律性が本物か偽物かはともかく)再確認したりする場に変える」という(同上)。ポイントは、いつでもすぐに止められること、偶像がつまらなくなればポイ捨てができ、別の魅力的な偶像に飛び付けることだ。偶像の数に制限はない。

「推し活」が自律性を回復する代替になりうる

一昔前、「自分探し」が流行った。今では「推し探し」が流行っているという。ソーシャルメディアなどで「推しを探し中」を公言する若者も少なくない。誰かを「推す」こととは、自分が「推し」を選ぶという自律的な行為であり、それによって充足感を得られれば、自己肯定感を高めることができる。これは、普段の社会生活で自律性が奪われている状態であればあるほど、「推し活」が自律性を回復する代替になりうることを示唆してもいる。

「自分探し」は、「何者かにならなければならない」という自己実現志向に駆動されていたとすれば、「推し探し」は、「何者かを選ばなければならない」という自己肯定志向に駆動されているといえるかもしれない。

もちろん、ソーシャルメディアの席巻により「一億総発信者時代」に突入しているため、自分が「推し」になりたいという人々も増えている。だが、これも主として自律性の回復が目指されている点で変わりはない。

自律性の回復は、幸福感や幸福度に直結している。ネオマーケティングが行った「推し活に関する調査」によると、推し活後(現在)と推し活前(過去)の自分自身の変化について尋ねたところ、「人生が豊かになった」(50.1%)「人生に充足感を感じるようになった」(45.4%)という回答が上位を占めた(*1)。

また、最近は、「推し活」を行うことで健康を高める効果がもたらされることが明らかになったとする論文も出ている(*2)。それによれば、「推し」活動が最も好影響をもたらしていたのは、「生きることが楽しくなった」と「日常生活が充実するようになった」の充実感と、「『推し』をみると疲労感が軽減するようになった」の身体的健康感で、9割以上の人が好影響を感じていたとしている。

「推し活」は幸福産業の一種?

今後、幸福や健康を動機とする「推し活」も増えることだろう。セラピーとしての「推し活」である。カウチに横たわって精神科医に何事かを語るよりも、リーズナブルで高い効果が得られるからだ(場所にとらわれないコンテンツのため即効性があり、日常のルーティーンに組み込むことができる)。そのように見てみると、「推し活」は、幸福感や幸福度という指数を重要視する幸福至上主義の時代における幸福産業の一種にも思えてくる。

バウマンの言う「コミュニティ経験」は、自分が選んだ世界の住人になるという自律性とともにあるが、あらゆるコンテンツには制作者と運営者という仕掛け人がいる。つまり、自律性を可能にする舞台をすべて市場が提供している。そもそも自律性の感覚は客観的なものではなく、主観的な経験によって形作られる。はたしてどこまでが自ら欲望したものなのか、そんな問いを立てた途端、自律性そのものがにわかに怪しくなってくるのだ。

とはいえ、そこで得られた関係性や感激は、癒しをもたらしてくれるのもまた事実である。電子的にも意識のうえでも「常時接続のコミュニティ」は、コンテンツがある限り続けられる半永久的なものといえる一方で、それ自体の熱気が廃れれば失われてしまう脆いものでしかない。けれども他の関係性が盤石かといえばまったくそうではない。むしろ「絆」という言葉に象徴される盤石そうに見える関係性が同じように脆いものになっている。

「推し活」に限らず、セラピー的消費は、いかに自律性を充足させるかが重要になっているといえるが、その自律性によって「コミュニティ経験」が得られる半面、動機の背後にある真の問題が置き去りにされる可能性がある。それは日々時間に追われる中で感じている心許なさや空虚さであり、経済指標や社会指標などで示される時代状況とは無関係ではありえないものだ。

わたしたちは、その危うい足元を自覚しつつ、社会の実相と向き合う必要があるだろう。 

(*1)「推し活に関する調査」株式会社ネオマーケティング

(*2)「推し」活動が人の健康に及ぼす影響/山口県立大学学術情報16巻看護栄養学部紀要/2023年3月


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(真鍋 厚 : 評論家、著述家)