開成から東大を目指したMJさん。その後の彼の人生は?(写真: polkadot / PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は開成高等学校から2浪し、慶應義塾大学商学部に補欠合格。その後、2019年に慶應義塾大学の塾生代表(学生代表)になり、現在は海外ビジネスの仕事に関わっているMJさん(仮名)にお話を伺いました。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

開成卒の岸田首相も、2浪で東大合格が叶わず

関東の超名門、開成中学校・高等学校。2023年まで42年連続で東大合格者数1位のこの学校は間違いなく、日本を代表する超進学校と言えるでしょう。

数多の著名人を輩出してきたこの学校の出身者で現在、ひときわ注目されている方と言えば、内閣総理大臣の岸田文雄さんが挙がります。もしかしたら皆さんも、岸田さんが日本一の東大輩出者数を誇るこの学校から2浪して、3年連続で東大に挑むも願い叶わず、早稲田大学に進学したという話は聞いたことがあるかもしれません。


この連載の一覧はこちら

実は今回インタビューしたMJさん(仮名)も、岸田さんのように2浪して、3年連続で東大に挑戦し、慶應に進んだ異色の経歴の持ち主でした。しかし彼は、持ち前のそのしなやかさで、浪人経験を前向きに受け止め、慶應の塾生代表になります。

浪人経験が彼に何をもたらしたのでしょうか。今回は、そんな彼の人生に迫ります。

MJさんは、父親がホテルマン、母親が専業主婦という家庭に生まれました。父親は大卒ではありませんでしたが、母親は1浪で青山学院大学を卒業し、教育熱心な家庭だったそうです。

「小学校でSAPIXと四谷大塚の両方に入って、中学受験の勉強をしました。それ以外にもロボット塾や速読教室など、小学校時代に通った塾を数えると15〜16個くらいになります

小さい頃からつねに勉強する環境で育ったMJさんは、算数オリンピックでは何年も連続で決勝に残るなど、持ち前の才能をフルに発揮し、通っていた公立小学校でいちばんの成績だったそうです。

中学受験では筑波大学附属駒場中学校に惜しくも届かなかったものの、そのほかに受けた4校には合格し、開成中学校に進学しました。

開成合格で切れたガソリン

順風満帆に見えるエリート人生。しかし、彼や彼の家族にとっては、この開成合格が1つの転機だったそうです。


東大に多数合格、超進学校の開成高等学校(写真: MARODG / PIXTA)

「僕を中学受験の塾に通わせるために、多額の借金ができてしまったんです。母親は専業主婦だったのですが、共働きせざるをえなくなり、これ以上教育にお金をかけられないという状況になりました。また、僕自身も開成合格がゴールだと思って勉強していたので、(緊張の糸が)プツンと切れてしまいました」

中学1年生の最初の中間試験では、クラス43人中42位という順位に終わってしまったMJさん。それでも、その結果に悲壮感はなかったそうです。

勉強しなくても大丈夫だと考えていました。開成に入ったら東大に行けるだろうと、勝手に思っていたんです。それで遊んでいたから、いつの間にかちょっとやそっとじゃ追い付けない差ができてしまっていました。よくよく考えたら、街の小学校でいちばんの人間が集まっている学校だから、入ってからも頑張らないといけなかったんです」

開成では、ただでさえ優秀な人たちがものすごく勉強していたそうです。MJさん自身も頑張ろうという気持ちはありましたが、一度緩んでしまった気持ちをなかなか立て直せずにいました。

年々周囲との差が開いていってしまったMJさんは、「堕落してしまいました」と当時を振り返ります。

「部活の大会が終わった中3の後半から暇になったので、秋葉原や池袋に行って遊戯王カードの売り買いをしていました。周囲は模試で1位をとっているときに、僕は遊戯王の大会に出ていたんです。勉強で勝てないから、せめてほかで勝ちたいなと思っていました」

中学3年間の試験の順位はずっと290/300位だったMJさん。高校に上がってから新たに100人が入学するも、その100人にそのまま抜かれて学年390/400位が定位置だったそうです。

運動会の団長に立候補したが…

周囲にどんどん置いていかれて焦っていた高校生活の中で、MJさんに2つ目の転機が訪れます。

「僕はもともと運動会の盛んな開成が好きで、その団長になりたくて開成に入ったという理由もあります。だから、高2の6月に次年度の団長を選ぶ選挙に立候補しました。

開成で崇められる人は2パターンあるんです。1つ目は勉強ができる人。2つ目はカリスマ性がある人でした。後者は成績が悪くても一目置かれる人です。周囲を統率する運動会の団長がまさにそれに当てはまったので、自分もそうなりたかったんです」

団長になるのは高校3年生になってからです。毎年5月に行われる運動会が終わった翌月に、高校2年生が次年度の団長に立候補して、選挙が行われます。高2になったMJさんも立候補したのですが、残念ながらその目標はかないませんでした。この挫折がきっかけで彼は、学校に行けなくなってしまったそうです。

「僕は勉強ができる人間でも、カリスマ性がある人間でもないことがわかりました。その瞬間に頭の中がぐちゃぐちゃになってしまい、家にこもってネットばかりしている人間になってしまったんです。開成のことも同級生のことも好きなんですが、自分のことが好きになれずにくよくよした6年間を送ってしまいました

こうして最終学年を迎えたMJさんは、何に対しても気力が沸かず、模試も受けないまま受験に臨みます。

「現役はもう落ちることがわかっていたので、親に受験料を抑えてほしいと言われて東大しか受けませんでした。センター試験は500/900点で、足切りを回避するために文科I類を受験して、落ちました」

こうして現役時の受験が終わったMJさん。浪人を決断した理由は、「目的はなかったものの、受験せざるをえない状況だから」だったそうです。

「進学校の最下層は夢がないんです。僕も、周囲が受けるから流されて東大を受けて、周囲が半分くらい浪人しているから浪人するという感じでした。小学生のときからレールの上を走らせてもらっているから、主体性がないのに、プライドだけは高くて人の意見を聞かない人間でしたね」

こうして1浪を決断したMJさんは、春までは早朝の搬入のアルバイトをしながら宅浪をしていました。

「家や、学校、塾しか経験していなかったので、社会との接点がほしかったんです。家でも日中1人でいるので料理を作ることにはまりました。でも、その結果、勉強がおろそかになってしまったんです。6月くらいになってようやく、1人では自制ができないと思って、両親には『将来絶対(予備校代を)お返しします』とお願いして、河合塾新宿校に入れてもらいました」

模試はE判定ばかり、9カ月で変われず

こうして6月途中に予備校に入ったMJさんでしたが、納得がいくほど、根を詰めて勉強できなかったそうです。

「それなりには勉強しましたが、模試はE判定ばかりでした。センター試験は700/900点で前年よりは上がったんですが、目指していた東大に行くには難しい点数です。センター利用入試で出した大学(MARCHのうちの1校)は合格したんですが、出願した東大文IIにはこの年も落ちました。6年間自分に対して甘かった人間だったので、9カ月では変われなかったんです

こうして1浪の生活を終えたMJさんは、合格した大学を辞退して、ふたたび東大を狙うために2浪を決断します。

「東大でやりたいことはありませんでしたが、周囲が行きたいところだし、開成に入ったからには東大に行かないとまずいという感じでした。親も『お前はできる』と信じてくれていて、東大を目指してほしいようだったので、なんとか今年で決めたいと思っていました」

MJさんは、今までの受験で落ちた理由を「自分自身をマネジメントする力が足りなかった」と反省したそうです。

「好きな数学はいくらでもできるけど、苦手な英語に向き合わなかったんです。頭の中でも、英語をやっているほうが全体の点数が伸びるのがわかっているんですが、数学のほうが好きだからついやっちゃうんです。勉強している自分に酔うくらいじゃないと浪人をやっていられませんでした。数学で満点をとる自分に酔っていたんです」

しかし、そのような頑なだった姿勢を改めたのもこの2浪目だったと言います。すでに大学生になっていた友達に心配されたことから、苦手なことにも向き合っていこうという意識が芽生えました。

周りに心配をかけていたことに気がついた

「小学校で同じ塾に通っていた同級生に、『大丈夫?生きてる?』と生存確認をされたんです。返事をしたら『もう会えないかと思った』と返ってきて。それで自分は周囲に心配をかけるくらいの立場になってしまったんだ、と危機感を覚えました。

それから僕は、携帯電話を封印し、2浪目に入ってから東大受験が終わる日まで300日以上、土日関係なく朝の7時半に自習室に行って21時まで勉強を続けるという日々を送りました。このままだと世の中から消えてしまうと思っていたので、必死だったんです」

自分が地の底にいるんだという自覚が芽生えたので、腹をくくって勉強を頑張れました」と2浪目の当時を振り返ったMJさん。

その甲斐あって、秋や、直前に受けた模試では東大のC判定までたどり着いたそうです。受けたセンター試験は750/900点。現役時に70/200点だった英語も160/200点まで上がって、全体的に点数を底上げすることができました。

「得意の数学で点が取れれば、ギリギリ東大と戦えるかなと思っていました」

しかし、結局2次試験も手応えがなく、3回目の不合格を突きつけられたMJさん。後期試験で受けた横浜国立大学と、補欠で繰り上がった慶應義塾大学の商学部で悩んだ末に、慶應に進むことを決めました。

「早慶は対策していたので、受かったら行こうと思っていました。早稲田は1個も受かりませんでしたが、慶應になんとか合格できたのでよかったです。僕のような夢のない人間は、人が多い大学に行くほうが潰しがきくと思ったので

東大には入れませんでしたが、悔いのない浪人生活を送れたMJさん。

浪人してよかったことを聞くと「人間として丸くなれた」との答えが返ってきました。

「2浪目以降、河合塾の講師や、ほかの生徒から受け答えが面白いっていじられるようになったんです。答えを当てても外してもなぜか笑いが起きるっていう謎ポジションにいて。

浪人していた友達から、『反応が変で笑った後、勉強に集中できてよかった』と言われて、自分みたいな人間でも人の役に立てて、生きてきてよかったなと思ったんです。中高時代の自分はプライドが高く、感謝されることがなかったので、浪人のアットホームな環境が、人間性を育ててくれたと思っています

慶應に入ってからのMJさんの生活は、2浪開成出身という経歴によって思わぬ恩恵を受け、楽しく明るい大学生活を送れたそうです。

「開成時代の同級生や後輩が慶應の上の学年にいることに気づき、すべての履修の情報が入ってくるという思わぬ利点に気づきました。そこで、2年生でサークルの代表をした際に、新歓の履修相談ブースを5倍に拡張し、情報を仕入れてメンバーに共有することで、歴代最高の300人くらいの新入生がサークルに入会してくれたんです。

また、日吉キャンパス付近で開成のOBさんが塾を経営していたので、『サークルの配布冊子に広告を載せさせてください』と営業に行ったところ、快く応じてもらいました。それ以外の仲間もみんな仲良くしてくれて、手伝ってもくれて、イジイジした性格が変わりました。いい大学生活でした」

慶應の塾生代表にもなった

さらに慶應学内の選挙で当選し「塾生代表」にもなり、学生代表として周囲と関わり続けたMJさん。現在、就職してから海外ビジネスの仕事に関わっています。

「自分は残念ながら、開成で周囲にいたプロフェッショナル、真の努力の天才になれませんでした。1つのことを365日突き詰められるような人間じゃないと、わかったんです。だから、自分は人にお願いして仕事を生み出すプロになろう、最強のジェネラリストになろうと思いました

今も、つたない英語で、外国の方とやりとりしています。今までの人生で両親をはじめ、大勢の方に支えてもらいました。これからは恩返しをする番だと思っています」

浪人の経験で角が取れた彼の人間性は、それまでの苦労を語る瞳と、間違いなく大勢の人に好かれるであろう、柔和な笑顔に現れていました。

(濱井 正吾 : 教育系ライター)