世界陸上競技選手権ブダペスト大会で、400mに出場した佐藤拳太郎(富士通)が32年ぶりとなる日本記録を更新した。


個人種目だけではなく、マイルリレーに向けてもモチベーションを高く持つ佐藤拳太郎

 32年前の1991年に日本記録を出したのは、当時、日本の第一線で活躍していた高野進(当時・東海大職員)だ。彼が初めて44秒台に達したのが、1988年ソウル五輪の準決勝で出した44秒90だったが、それでもわずかに決勝進出には届かなかった。

 高野はその経験を経て、もう一度100mから鍛え直し、無酸素運動の限界ともいえる400mの記録をストイックに追求し続け、ゴール後は常に倒れ込むまで自分を追い込んだ。その成果の到達点が、1991年日本選手権の当時の日本記録となる44秒78だった。同年世界選手権と1992年バルセロナ五輪では決勝進出を果たしたが、当時、2番手以下の日本人選手の記録は45秒台後半から46秒台と、高野の記録とはかけ離れていた。

 44秒78が偉大すぎる記録ゆえ、あとを追う日本人選手たちは「別世界の記録」というイメージをなかなか払拭できないまま、長い月日が流れた。

 そして、ついにその大きな壁を乗り越え、日本記録を0秒01更新する44秒77を佐藤が樹立したのだ。

 現在28歳の佐藤は、城西大学入学後から400mに専念するようになり、日本代表には2015年、世界リレーのマイルリレー代表として初選出以降、2016年リオ五輪、2021年東京五輪でもマイルリレー代表として選出されてきた。

 佐藤にとっても400mの"44秒台"は、たどり着くには難しい記録であり、改良してきた200〜300mの走りの成果が今年になって出てきた。今季2戦目だった5月の静岡国際では、45秒31で走り、8年ぶりに自己ベストを更新。6月の日本選手権では中嶋ジョセフ佑気(東洋大)と佐藤風雅(ミズノ)に次ぐ3位だったが、7月のアジア選手権ではアジア記録(43秒93)を持つユーセフ・アハメド・マスラヒ(サウジアラビア)を終盤で捕らえ、世界陸上とパリ五輪の参加標準記録となる45秒00で優勝。高野に次ぐ日本人2人目の44秒台の扉をノックしたのだ。

 そして、新記録は予選で生まれた。佐藤の外側7レーンには43秒48の記録を持つスティーブン・ガーディナー(バハマ)のほか、44秒7台がふたりもいる組み合わせ。前半の200mまで佐藤は5番手を走っていたが、今季改良に努めてきた200〜300mの走りを予選1組目最速の10秒98のラップタイムに上げると、トップのガーディナーとの差を詰めて3番手に上がり、最後はひとりをかわして2位でゴールした。

「外にガーディナー選手がいたのでしっかり追いかけていくという、想定どおりのレースができた」という佐藤だが、日本記録樹立については周りの反応に反して、わずかに喜んだだけだった。その理由をこう説明する。

「日本記録を出すことはできたけど、まだそれは目標のひとつにすぎないというか......。決勝に進出してメダルを狙うという目標があるので、喜んで気持ちをきらすわけにはいかないと思ってちょっと静かにしていました」

 続く準決勝では、前半から攻めたものの強豪たちの壁は崩せず、44秒99で5位。目標の決勝進出は果たせず、悔し涙を呑んだ。しかし、ひと大会で2度の44秒台を出せたことは、佐藤の力を証明するものだった。

【次なる目標はマイルリレー】

 世界陸上へ出場するにあたって、佐藤はこれまで達成できていなかった「世界陸上の個人レースで決勝に進出と、マイルリレーでメダルを獲得」という思いを持って臨んだ。

 個人では決勝進出の目標を達成できなかったが、もうひとつのマイルリレーのメダル獲得はまだレースが残っている。

 マイルリレーに期待がかかるのは、日本の400mのメンバーにも追い風も吹いてきているからだ。佐藤風雅は、予選第4組で44秒97を出し、「拳太郎さんの記録は見てなかったので、自分の記録を見たときは『ウワーッ、誰よりも早く44秒台に入った。ヨッシャーッ!』と思ったけど、戻ってきたら拳太郎さんが(さらに上の記録を)出していると聞かされてガックリしました」と笑わせた。そして、準決勝では44秒88を出し、自己ベストをさらに伸ばしている。

 さらに中嶋も、決勝進出は逃したものの準決勝で45秒04の自己ベストを出した。

 佐藤風雅は、マイルリレーへの決意を佐藤拳太郎と同じくこう語る。

「(個人戦が終わった時点で)まだリレーのメンバーは決まっていないですが、たぶん僕ら3人は出ると思う。去年の世界陸上オレゴン大会は『決勝に行こう』と話していましたが、今回の目標は『メダル』なので。僕ら全員がその意識を持っているし、日本中の期待も同じだと思うから、絶対にメダルを獲ります」

 今回は日本チームの男子主将も務め、「自分が結果を出して代表を引っ張っていきたい」と決意していた佐藤拳太郎。その日本新の走りを起爆剤として、日本マイルチームの新たな歴史が切り拓かれる。